雨に浮かれれば

平賀・仲田・香菜

雨に浮かれれば

 どうしようどうしよう。

 まさか彼女の方から僕に話しかけてくるだなんて。心の準備なんて出来ていやしないんだ。一年強もの長い間をかけても出来ていやしないんだ。もしかしたらこれからもずっと出来やしないんだ。

 定期を落としたって? そんなことがきっかけになるのか。

 バスに乗る彼女をじっと観察しようが、同じ本を読んでみようが、同じ音楽を聴いてみようが、そんなことは何にも関係なかったのか。

 でも、きっかけはそのどれでもよかったんだよな。僕が、ほんのちょっとでも勇気を持てば良かっただけの話なのだから。


 だから、このきっかけを以て、僕は彼女と知り合おう。


 ※※※


 雨が降っていた。冬の雨だ。関東地方にも雪が降るかもという予報を覆し、ロマンの欠片もない冷たい雨が世界を暗く湿らせる。僕は停留所で一人、市バスが来るのを待っていた。大変に冷える。出掛けに母から渡されたババ臭い模様のマフラーでも持ってきてよかったと感じるほどに。

 今年もあと一ヶ月弱で終わりを告げる。僕にとって来年は受験の年であった。有名私立高校を目指すクラスメイトなどは、教室で焦りと苛立ちを見せ始めているものだ。僕はといえば目的も目標もなく、ノンポリのように適当な態度で授業に臨んでいたのがたたっている。

 溜息が雨模様を白く染めた時、バスが到着した。

 僕はバスに足を踏み入れ、横に並んだ座席の端に座る。僕が利用する停留所から乗る人も、その前から乗っている人も少ない。その席はバス通学を始めたこの二年間、僕の指定席と化していた。このバスは駅に向かい、電車に乗り換えて中学に向かうルーティーンである。

 暴力的な暖房が冷えた足元を焼くようだ。少々汗ばんできたときと、バスが次の停留所に着いたときは殆ど同じだった。この停留所の利用者が多いのはよく知っている。ドアが開いて冷たい空気がバスを冷やすが、どすどすと乗ってくる人混みが空気をまた暖めるのを感じた。まるで、大勢の上下運動が空気の分子を直接に振るわせて温度が上がっているようだった。


 僕の隣に女性が座った。ちらりと横目で彼女を見た僕は、思わず立ち上がってしまった。冷気を浴びた頬が、また直ぐに熱を持ったのを感じる。


 始めての経験のはずだが、何故だかよく理解できた。この高揚した気分は、落ちてしまったのだ。僕が、恋に。


 はっ、と我に帰る。降りる駅でもないのに突然立ち上がった僕はなんだ。おかしな人ではないか。このまま元の席に座るのはどうにもバツが悪い。僕はたまたま目の前に立っていたお婆さんに席を譲る。ありがとう、とか素敵なマフラーだねえ、などホニャホニャと言っていた気もするが、僕の気はそぞろであった。僕の視線は、既に彼女に釘付けであったからだ。

 雨に少し濡れた黒い髪は、烏の濡れ羽色。それに呼応するかのような深い色の瞳に、僕は吸い込まれる。薄いフレームの眼鏡はピンクゴールドに輝いて、上品な彼女の様子を伺わせる。

 近隣の私立中学の制服を少しも崩すことなく着こなす彼女は、小さな単語帳を片手にぼうっとした表情でそれをめくる。

 夢中であったが、気付けば駅であった。人の波に飲まれ、僕は定期を片手にバスを降りる。彼女を待つようなことはしない、さすがにそれをすれば変な奴だろう。


 僕は今日、彼女を目にした。

 僕は今日、彼女に恋をした。


 それ以降の日は、彼女を見かけたり、見かけなかったりであった。しかし一月もしたときに、法則というほど大したものでもないが、ある発見をした。


 彼女は雨の日にだけ僕と同じバスに乗る。


 そして、バスで彼女が手にするものは単語帳に高校受験の参考書。鞄には合格祈願のお守りである。

 僕の推測はこうだ。駅まで徒歩で通っている彼女は、受験を控える身体を壊してはいけない、と雨の日にだけバスを利用している。

 僕の見立ては当たっていたようで、この一ヶ月間の統計を照らし合わせてみると、彼女の出現と雨の日はぴしゃりと一致していた。僕はその事実を発見しただけで満足してしまっていた。満足し過ぎて、彼女に話しかけることすらまだできていない。

 付け加えて言うと、彼女の出現と、僕が席を譲った老婆の出現も一致していた。そして見かける度に席を譲るうち、お婆さんは僕に話しかけるようになっていた。僕が仲良くなりたい相手は甚だ違う。遺憾である。


 彼女の観察を続けて更に一ヶ月が経過して暦は二月となった。

 どうやら彼女は受験を終えたらしい。バスに乗りながらしていた受験勉強はなりを潜め、音楽を聞いたり文庫本を読む様子を見るようになった。受験が終わればバスを利用しなくなるのでは? という危惧もあったが、それは杞憂に終わったようだ。彼女は相変わらず、雨の日にだけバスに乗っていた。

 僕はといえば、イヤホンから漏れる音を頼りに彼女が好きなアーティストへ辿り着いたり、文庫本をこっそりと覗き込んで自分も同じ本をバスで読んでみたりしていた。もちろん、彼女に話しかけるようなことはない。

 それとは対照に、老婆とのコミュニケーションは深まっていた。先日などマフラーを忘れたというお婆さんに、僕のマフラーを貸してあげることまであった。こんな展開を誰が望んでいるものか。僕の人生の設計者は何を考えている。


 三月、中学の時分における最後の春休み。

 僕は絶望していた。彼女が四月から高校生になるとどうなるのか、僕はその意味をちゃんと考えていなかった。彼女は通う学校が変わればバスを使わなくなるかも知れないではないか。

 僕には彼女が通い始める学校など知る由もない。一度でも声を聞いてみたかった。あの細く白い手に触れてみたかった。僕は春休みの間、雨の日も晴れの日も延々と泣き続けていた。


 新学期の初日は、季節外れなほどに冷たい雨と共にやってきた。少し前までならば大歓迎の天気であったが、僕の気分は春休み以来ずっと陰っていた。受験生と相成った僕にとって、いい加減に志望校の一つや二つ決めねばならぬこともその憂鬱さに拍車をかけている。


 しかし、その深く沈んで濁った気分に日が差した。彼女とバスで再会したのだ。いや、僕が一方的に視認したことを再会と呼べば、ではあるのだが。

 僕の視線は一点に集中した。それは彼女が身に纏うその制服だ。おろしたての制服は折り目がぴんと目立ち、初々しさを覚えさせた。そしてそれは、近隣ではトップクラスの偏差値を誇る高校のものであった。そして彼女は、前年度と変わらず、雨の日にはバスを利用するようだった。


 その時、僕の進路は唐突に決まったのだった。


 今日はもう満足だ。話しかけられなくてもいいや。そう思って新学期の初日は幕を閉じた。


 僕はやればできる子だったらしい。成績は異常な伸びを見せていた。担任も両親も目を丸くしていた。もちろん僕の目も丸かった。目が丸いといえば彼女の目もまた、まん丸で大きく可愛らしかった。

 恋とは人間にとって大変なエネルギーであると感じていた。彼女と同じ高校に通いたい。その一心のみで、僕は机に向かうことができていた。辛いときは雨を待つ。バスに乗りこむ彼女を待つ。彼女を見るだけで、同じ音楽を聴くだけで、同じ本を読むだけで僕はまた頑張れるのであった。

 もちろん老婆ともよく会った。受験の過渡期には合格祈願のお守りと暖かいをもらった。本当にありがとう。


 彼女とお婆さんの励みを胸に、僕は遂に、彼女と同じ高校に合格した。


 バスでお婆さんに報告すると、その場に俯き、なんと泣き出してしまった。家族のことのように嬉しい、そう言ってくれた。僕も、お婆さんのおかげだったと素直に告げた。年寄りをこれ以上泣かせるもんじゃないよ、と言われ、僕たち二人は歯を見せて笑った。


 遂に彼女と同じ学校に通うことができる。これは僕にとって大きな自信となると思っていた。きっかけができる、学校でも彼女を見かけることができるからだ。

 しかし、実際問題そう甘くない。あいもかわらず問題は僕なのだ。とても辛い。何もできない何もしない、彼女を見ることしかできない。ただ話しかける、ただ彼女の気を引く。ただ、それだけのことすらずっとできなかった。


 僕は昔から行動力も勇気もない。こんな僕は恋をしてはいけなかったのだろうか。本来なら彼女と知り合う努力をしなければならないだろう、彼女に好かれる努力をしなければならないだろう。しかし何一つしてこなかった上に、これからもできないかもしれなかった。


 それなのに。


 高校生になって初めての六月、ある日の雨の中、バスを降りて駅へ向かう途中、彼女と、言葉を交わしてしまった。


 ※※※


 どうしましょうどうしましょう。

 遂に声をかけてしまいました。心の準備などいざ知らず、ずっとバスで見てきた彼に話しかけてしまいました。だって、定期を落としたところを見てしまったんですもの。

 しかしこれをきっかけに、色々とお話できるといいなと私は思います。

 鞄から覗いていたCDを私も持っています、とか。私もその本を読んだことがあります、とか。そして何よりも、いつもお婆さんに席を譲っていて優しい人なのですね、とか。

 本当はいつ話しかけても良かったのだと思います。ちょっとのきっかけと、少しの勇気も持てなかったからこんなに時間がかかってしまっただけなのだから。


 だから、このきっかけを以て、私は彼と知り合いましょう。

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