第13話 早朝
朝、何処からか入ってくる聞き慣れた掠れ音が鼓膜を揺らす。暫く無視してもなお鳴り続ける金属音が鬱陶しいので、まだ眠りに就いていたいと欲する体に鞭を打ち、ユートは渋々と重い瞼を上げた。
重い瞼を上げると朧げながらも見慣れた灰色の天井、周りには一人用のベッド、年季の入った小さな黒い机と、紅と黒色の栞が挟まれた読みかけの本がある。テーブルの隅に置かれた目覚ましは午前五時を指し、甲高い音を立てて小刻みに震えている。
ジリリと鳴る目覚ましを止め、ユートは立ち上がろうとした。が、床で寝ていたせいか、鈍く節々が痛む。何とか痛む体と眠い頭に鞭を打ち、どうにか小さな棚を支えに立ち上がって体を伸ばす。
小気味いい音と固まった身体を解す少しの快感に気分を良くした後、徐にベッド脇の窓へと向かい、閉じられた安物のカーテンを開いて窓の外を眺めた。外は外出日和な清々しい朝……と言う訳でもなく、大雨だ。確かに冬にはなったが雪が降るにはこの気温は、少々温かったようだ。
空は墨色で塗り上げられて夜と大差なく、少量ならば心地よかった雨音は重く響きを変え、暴力的に窓へと叩き付けられている。外の暗闇に目を凝らしてみるが、古く錆び付いた街灯と家々の灯りが点々と昏い朝に浮かぶのみで、いつもの美しい街並みは、その姿を隠したまま出てこない。ガタガタと窓が揺れている辺り、風もかなり強そうだ。
「また大雨か…」
確かに雨は好きだが大雨は別だ。それも連日の大雨となると流石にそろそろ太陽と日差しが恋しくなってくる。ユートは荒れ模様の空を見上げ、数時間振りの溜息をついた。
数秒程外を眺めた後、ユートはクローゼットを開き、いつもの服装、軍服を取り出す。その中から白いシャツとズボンを取り出し、残る上着はハンガーで掛けて置く。出来る限り物音を立てないように、素早く着替える。
素早く着替えた後、ユートは使い古されて買い替えも検討している狭苦しいキッチンへと向かう。何かを溢した滲みや大失敗の焦げ跡が付いたコンロを横目に、昨日買っておいたトーストを二枚、包丁で十字に切り込みを入れ、小さなトースターへと投入しスイッチを入れる。野菜室から良く冷えた野菜を取り出し、適当に皿に盛る。卵を二つ割ってフライパンで焼いていく。ベーコンは買い忘れたので、今回の献立はエッグトーストにサラダのみとなった。トーストと目玉焼きの焼き上がりを待つ間、ろ過水を薬缶に入れ、もう一方のコンロで沸かす。そして数年前に露天商から安く買った珈琲ミルで珈琲豆を挽いていく。しばらくの間、ゴリゴリと豆を挽く重低音が狭い部屋に響いていた。
* * * * *
「……………ん? 何だ、もう起きてたのか…」
「あっ、おはようございます」
ユートが豆を挽き始めて数分後、ほんのりと珈琲の薫りが漂い始めた頃、起床時特有の低く皺枯れた声で彼女はベットから体を起こした。昼間の気迫も何処へやら、普段は全体を見る事の無い黒のシャツから伸びる、折れそうな程に細く華奢な手が見る者に病弱そうな印象を与え、寝癖の付いた髪は奇妙なカーブを描いていつもより一層ボリューミーに見える。白く長い素足と、たった一枚の衣服越しに存在感を放つ胸が、否応なしに視界に入って来るので、ユートは思わず反射的に目を背けてしまう。
そんなユートの心情も露知らず、訝しげに首を傾げたいつもより何処か優しげな美しい顔。白昼の高圧的な目力を無くした弱々しい半目は、今にもその瞼を下ろしてしまいそうだ。こんな風に、起床直後にも関わらず神秘的な美貌を見せつけてくる彼女こそが、ユートの師匠である"
「……朝食は? まだ出来ていないのか?」
「少し待ってください、すぐにできます」
シルヴィアは自分で朝食を作らない。簡単な料理すらできないのか、単に面倒臭がっているだけなのかは知らないが、ここ数日はユートに任せっきりである。
焼き上がったトーストにバターを溶かし、ユートはドレッシングの掛かったサラダやら香り立つ珈琲やらを小さなテーブルまで運ぶ。気だるげなシルヴィアが欠伸をしながら椅子へと腰を下ろしたので、ユートも食器を用意して向かいの席に座る。
「只のエッグトースト一枚と今一つ彩に欠けるサラダか…何とも独創性に欠ける単純かつ質素な朝食だな」
「贅沢言わないでくださいよ。これでも手は尽くしたつもりなんですから」
おい、今のは少し傷ついたぞ。
「「いただきます」」
誰にも向けているのかも分からない感謝も述べた所で、二人は思い思いの料理 (火を通したりドレッシングを掛けただけだが)を口へと運んでいく。適当な色合いのサラダは鮮度こそイマイチだが味は良い。シルヴィアが朝から野菜を食べるのがルーティーンだとしつこく言うので、今日に限っては仕様がなく作った次第だが、当の本人は何食わぬ顔で優雅に食事をしている。味の感想ぐらいあっても良いだろうに。
それにしてもシルヴィアがあまりに美しい為か、薄明りの中で外を眺めつつトーストを口に運んでいるだけの筈だが、こんなに素朴な朝食でもよく映える。同じ人類の筈なのに何故こうも外見に酷く大きな差が生まれてしまったのか、やはり神様は自分勝手だ。
暫くして、トーストと野菜を爆速で平らげたシルヴィアは、神妙な顔つきで空になった皿を見つめ始めた。…始まるぞ、シルヴィアの食事評価が。
「うーむ、野菜の味は普通だな。だがトーストの焼き加減は丁度良い。上達したな、やればできるじゃないか」
「はいはいどうも。御褒め戴き感謝感激ですよー」
「ふん、まあいいさ。第一、朝食に関しては不味く無ければ何でも良い。何故なら朝食の評価において最も重要な項目はこの、『朝の一杯』だからな」
そう言ってシルヴィアは、硝子細工のように細く綺麗な指先で嫋やかに湯気の泳ぐカップを持つと、漆黒の沈みに口を付けた。
「………香ばしさが足りない。あと苦みもな。はぁ…君はこれだけは上達しないな。次はもっと粗く挽いてくれ」
「はい…」
シルヴィアは食事に細かい。特に朝食や一服の珈琲には毎度の如くダメ出しをしてくる。だったら自分で作ればいいと返しても"君が作れ"の一点張りなので余計に質が悪い。
一体どうしてこんな事になったのか? ユートはトースト齧りつつここ数日の出来事を思い出す。そうすると、連邦での事件後の激動の一日が、脳裏に朧げに浮かび上がってきた。
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