Ep.EX1 Deep

 カツリカツリと革靴の鳴らす渇いた靴音が地の底へと降って落ちる。






 光の届かぬ暗闇に響き渡る一週間振りの異音の主、終わりの見えない階段を降る年若い軍人は、途方もない焦燥感に駆られていた。彼が纏うは真白の布地に青の流麗が美しく、戦場には似合わない貴族服のような気品に満ちた指定軍服一式だ。だが、高貴な青い軍帽には黒い何かが付着し、閉鎖空間に感化された玉の汗が頬を伝って零れ落ちると、音もなく意識から暗闇へと消え去る。自分が消える時もきっと同じなんだろうと、世界を降る青年は他人事のように思った。




 次第に靴音が小さくなっていく。正確には小さくなってはいないのだが、焦燥感と恐怖心で身体の何処かの感覚器官が麻痺してしまったようだ。心臓の鼓動だけが五月蠅く、体の内側から鼓膜を揺らしている。得も言われぬ感覚と二人きり、こんな地の底では、たかが何時もよりはっきりと鼓動が聞こえるだけで精神的に参ってしまっている。何とも言えない無力さにつくづく自分の脆さを痛感せざるを得ない。


 

 今回の任務はの生死確認だそうだ。半ば強制的に押し付けられた立場なので、詳しい事情は知らない。と言うぐらいのなので、対象は生物なのだという簡単な憶測でしか測れないが。




 歩みを少しでも速めて一刻も早く半ば強制的に押し付けられたこの任務を終えてしまいたいが、何故か目的地に辿り着きたくないように感じる。本能が進行を拒むような、見えない手に後ろ髪と首を掴まれているような錯覚を覚えて不快な吐き気さえ込み上げてくる。右手に持ったカタカタと震える洋灯ランプがその頼りない橙で視界を朧げに映す。一歩、一歩と足を踏み出す度、恐怖が足裏から全身を侵して強張らせる。彼はそれなりの回数、死線と戦場は経験してきたが、なお記憶に立て嵌まることのない異質な恐怖。長く永い階段をただ降っているだけなのに、張り裂けんばかりの心臓の鼓動が訴えかけてくる、「早く引き返せ」とでも言いたげに。





 人一人が通ることがやっとのこの長い通路は如何やら一方通行を前提に作られたようで、狭い空間に散りばめられた悪趣味な要素が視覚を満たして脳を侵す。途方もない不快感からか、頭痛も伴ってきた。その上この空間は空気も悪く、大層な防護術式ぼうごじゅつしきを張らなければ比喩でもないのに息が詰まってしまう。


 ここはとある国の地下深くへと続く通路。立ち入りには厳重な警備が敷かれており、入路手続きだけで実に二時間近く掛かった。この任務は数日おきに行われるのだと伊達メガネの大佐は言うが、それにしては情報が少な過ぎる。普通はたった一度の任務でも数日で情報は十分に出回るものだが、この任務に関しては存在すら知らなかった。上層部の意向かそれとも政府からの圧力か、未来永劫、明かされる事は無いのだろう。





 一体どれ程の間下り続けているのだろうかと、彼は一度立ち止まって懐中時計を確認する。三つを刻んでいた長針は今や幸運数を跨いで、夜更けの頃に細身を置いている。かれこれ三十分以上もの間下り続けているらしい。こんな閉鎖空間で同じ工程を繰り返していたと思うと我ながら気が狂ってしまいそうだ。  



 

 そう思った時には、階段は平坦へと姿を変え、狭苦しい通路は開けた暗闇へと変化した。


 先程の通路を圧縮された恐怖とでも形容するなら、ここは生を拒む深淵の巣窟とでも言うべきか。先の見えない暗闇へ向け、彼は強化エンチャントした目を凝らす。探知サーチによると、辺りには数千立方メートルもの巨大空間が広がっているようだが、何せ数メートル先も視えない暗闇の中なので実感は湧かない。それに追加で続々と彼の頭へと流れ込んできた情報によるとこの辺りの空気汚染濃度値アエール・モリンシはマイナス百六十七と生命活動維持臨界値アンダー・ヴァイタを大きく下回っている。道理で呼吸も苦しい訳だと一人で納得するが、生半可な"防護術式"では到底耐久不可能な危険域である為、ますます帰還したくなってくる。今、仮に術式を解除しようものならほんの数秒で身体全体が侵食され、脳組織を喰い荒らし、精神を徹底的に破壊した後、そこらじゅうで跋扈している寄生生物に乗っ取られてしまうだろう。この眩しい程に高貴な純白を纏った青年は、黒色と蟲で覆われた醜悪な汚染物質の苗床へと早変わりするだろう。たとえ親友や家族だとしても識別出来ない程のものに。




「………何だ?」



 青年は目を凝らす。澱んだ視界の彼方、最奥の方に檻のようなものが見える。それどころか白く輝く鎖が八方から檻の中へと殺到してを縛り付けている。この環境でも正常に作用する鎖、おそらく神話に準えられた相当な代物だろう。


 

 音を立てて生唾を呑み込み、青年はへと向かう。視界で確認可能なので近くに感じるが、遥か彼方にあるようにも感じる。とうとうこの暗闇で視覚までおかしくなってしまったのだろうか。



 残り十数メートルという所で青年は足を止めた。見えていた檻のような物は如何やら本当に檻だったようで、中で何かが縛られているのが確認できる。鎖の絡まり方から予想するに、大きさは青年と大差ないようだ。正体に近づいた所で深呼吸でもして落ち着きたいが、そう言う訳にも行かない。呼吸が浅くなっている。心拍も速い、眩暈がする。紛れもない青年自身の本能が、眼前数メートルの異常を告げた。






 さて、少しだけ青年の思考を挿んだが、ここで青年が感じたのは接近を経て対象の正体へと近づいた安堵感や安心感ではなく、一層強まった恐怖感だけである。何故なら、彼が足を止めたのは檻の内部が見えたからではなく、である。感覚器官の麻痺でもなく、突然鼓膜が破れた訳でもない。だからこそ、この現象は青年へと異常さと恐怖を際立たせた。




 音を無くした足に続き、青年を襲ってきたのは途轍もない死臭だった。鼻腔に突き刺さる腐乱した肉体の容赦の無い先制攻撃に、青年は堪らず鼻を覆う。ピチャリと液体の滴る音が僅かに鼓膜を揺らす。真に信じ難いが、。本来決して体外に吐き出される事の無い臓物の臭いに生臭い血と死の螺旋。何とも形容しがたいこの強烈な悪臭は、宛ら人間の蟲毒のような、終末的な臭気だった。



 突然止んだ足音に、突発的に襲い来た死臭。これは即ち、ことを青年へと暗に提示した。

「……………」

「えっ」


 思わず声を上げてしまった。無理もない。そこに居る深淵その物が、青年へと首を擡げたのである。血の赤黒で身体を染め、瞳は昏いせいでよく見えない。全身は鎖で拘束され、地面へと穿たれている。それの周囲には罅割れた髑髏や未だに臭気を放ち続ける只の肉塊となった生物擬きが乱雑に居場所を探している。檻内部の各所に拘束の呪詛紋が描かれ、青年の足りない頭で形容するならば、嘗て主神へと反逆し、光の鎖を繋がれたという神獣のようでもある。そんな神々しさの片鱗すら歪ませるそれは、自分の領域テリトリーへと進入した青年へ向け、地球上のどの生物とも合致しない悪夢の蟲毒は、とても生物のそれとは言えぬ未確認の眼光で青年を睨め上げた。




「此処から逃げろ」と今や恐怖に染まった青年に残された本能が告げる。咄嗟に我を取り戻した彼は強張る身体を奮い立たせ、総てを投げ出す脱兎が如く一目散に逃げだそうとした。だが、それは叶わなかった。



「…ッ! 何だ!?」


 足が全く動かない。まるで見えない何かに足首を掴まれているかのような、意思とは反対に硬直した感覚の断絶。局所的な金縛りか何かだろうか、とにかく動かない。それどころか見る見るうちに身体と感覚が離されていく。青年の足元より昇ってきた不快感は次第に腹、胸、首元へと昇っていき、終には全身の感覚が無くなった。だが意識はある、音も臭いも感じ取れる。只、身体はもう彼の意思では動かせないようだ。


 


 眼前の鉄格子が歪んだ。そこにブラックホールでも置いたようにぐにゃりと湾曲した。見えない何かが頭を掴む。一体何が起こっているのか、青年が理解するまで後六秒。


 


 頭の中で何かが千切られる音が聞こえたと思えば、次の瞬間には"防護術式"を始め、青年を護る総ての術式が解けた。


「…何ッ!?」



 青年は声を張り上げようと思った。助けを呼ぶ為に、未だ脈打つこの命を護る為に。だが、喉元をせり上がった救難信号は外へと響かない。口が何かで覆われている。必死で絞り出した「助けて!」の叫びは只の呻き声と化し、無力に暗闇へと吸い込まれた。



IGRRUUVOAHHHHHHイグルルルルヴォアアァァァ!!!!!!」


 鎖で繋がれたが悍ましい咆哮を上げると同時に、青年の身体がズルズルと牢内へと引きずり込まれていく。青年は恐怖に涙すら浮かべて藻搔くが体には黒い何かが張り付き、彼の何から何までを壊すように締め付ける。ギチギチと骨が軋む、視界が赤黒く染まっていく。只一つ聞こえるのは心臓の鼓動。最早決まった最期を逃れ、まだ生きようと必死に脈打つそれは酷く滑稽で、この上なく惨めだった。




 青年は黒く染まった顔で、最期に足元へと視線を向ける。これは青年が起こした最期の賭けだったか、それとも生物の本質的な要素、根源的な知識欲からくる偶然の産物だったのか、それは今となっては確認の仕様も無い。黒く朧げな視界の中、満身創痍の彼が最後に見たそれは——————






————————異形と化した人間の姿をしていた。









     *  *  *  *  *


 


 その日、某国の軍士官名簿から、一人の名が消えた。軍事基地へと殺到する報道陣に対して渋々応じた黒眼鏡の軍人は——




————彼が消息不明になった日、誰も彼と会っていなかった。なので私は何も知らない。真相は闇に消えた。






……………と、至極面倒臭そうに語った。

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