第12話 スターティング・ロア

「む。そなたら、こっちを向け」


 ルーナの声が客室内に響く。小さな容姿から放たれた甲高い声は年相応の幼さと成熟した静穏さを感じさせた。もっとも、この客室にいる人物中では一番高貴かつ高尚な振る舞いではなければならないはずだが、ここにきてやっと高雅な王族たる片鱗を見られた……ような気がした。


「むー。どうやらその傷の治療はまだのようじゃな、分かった。おい爺、早急に医療器具を持って来てくれ。直ぐに手当てをしてやるのじゃ。傷口が腐りでもしたら大変じゃからの。あと、そこの我が勇士たちよ。この多忙な時期に朝早くからの任務、実にご苦労じゃったな。ここからはわらわが引き継ぐゆえ、そなたらは兵舎に帰って、何か温かい飲みものでも飲みながらゆっくりと休むが良いぞ」


 ルーナはユート達二人の顔を見上げた後、何故か客室の隅で固まっているカルラ達二人をながらに目をやりつつ言う。だが二人には何か思う所があるようで、ルーナに言われてもなおそこを動かなかった。早朝のまだ碌に機能しない脳では処理しきれない程の情報量の多さに、どうやら昨晩受けた傷の痛みは揉み消されていたようだ。ユートは軍服に視線を落とす。煤やらで汚れた軍服は昨晩の激戦を想起させ、あの男から受けた傷が再び鈍く痛み出した。


 直ぐに動き出した爺と呼ばれた側近が使い込まれて底の塗装の禿げた年季の入った医療箱を持ってくると、フィーナと大使館職員とがユート達に応急処置を施した。傷口の異物を慎重に鑷子せっしで取り除き、洗い、水分を拭き取る。若い女性大使館職員が取り出した消毒液をガーゼに少量染み込ませ、傷口に貼り付けた。処置の都合上、仕方のないことではあるが、若い女性に密着されている状況が何となく気恥ずかしかった。


「うっ…」


 一瞬の内にユートの頭を満たした妙な思考と数時間放置された傷口に、酷く冷たい消毒液が沁みる。鋭い痛みに身悶えるユートは、隣で手当て受けるシルヴィアを横目で見る。シルヴィアは現在進行形で額にガーゼを貼られていた。頭の傷なのでかなり痛むはずだが、涼しい顔で余裕たっぷりにユートに視線を返しているあたり、大丈夫そうだ。


「これで一先ず応急処置は完了じゃな。少し痛むじゃろうが直に楽になるゆえ、しばらく安静に待つが良いぞ。それに痛みが引いて魔力が流れ始めさえすれば、あとは魔力が勝手に何とかしてくれるじゃろう」


 魔力が傷の再生にも作用することは『学校』の講義で学んだだけの浅い知識ではあるが、一応知っている。何でも魔力には体内器官、組織における再生、再構築促進作用があるらしく、ガーゼなどで傷の保護さえ出来れば血管の再形成が始まり次第再度流動を開始した魔力が皮膚等の組織再生を促してくれるらしい。万能だな。




     *  *  *  *  *



「爺、こやつらと少し話したい。席を外してはくれぬか?」

「仰せの通りに。姫様」


 ルーナの声はすっかり落ち着いていて、先程までの嵐のような破天荒さを微塵も感じさせない。ルーナは側近の老爺に向き直るとどこか柔らかく、優しい声色で声を掛ける。大人しくなったルーナは本来あるべき女王の雰囲気を纏い、穏やかな声色には人の上に立つ高貴さと君主が持つべき慈愛を孕んでいた。ルーナの言葉に微笑んだ老爺は一言返事を告げると部屋から出て行く。音を立てない緩慢な扉を開ける動作すら気品に溢れ、この老爺は見せかけの紳士ではなく本物の紳士だとその場にいる全員が理解した。老爺に次いでカルラ達も部屋を後にする。ガチャリと音を立て、扉が閉じられた。

 

「では、私も外しましょう。どうやら姫様がお話しされたいのは、私ではなく私の部下たちのようだ。それに邪魔者が居ない方が、姫様も良くお話しが出来ましょう」


 すまぬの。とルーナは短く一言告げる。その言葉も、発した時にはアガレスは扉の向こうにいて届いたかどうか分からなかった。隣に座ったシルヴィアはどうやらアガレスに部下と言われたことが気に食わなかったらしく形の良い鼻をふんっ、と鳴らすとそっぽを向いて動かない。とっくに大人になっているはずだが、拗ね方がまるっきり子供のそれそのものだ。

 

「…さてと。そなたらも何か言いたいことはあるじゃろうが、まずは君主代理として謝罪せねばならんな」


 ルーナはアンティーク調のソファに腰を下ろし、向かいに座ったユート達を真っ直ぐに見つめる。対する二人も、真っ直ぐに目の前の幼姫を見つめ返した。


「…此度の騒動における我が民たちから向けられたそなたら帝国臣民への疑心…失礼ながら、わらわも犯人はそなたらだと考えていた。申し訳ない。だが、実際にはとんだ濡れ衣であった。そしてそなたら帝国臣民からすれば我が連邦は憎き敵国であろう? にもかかわらず事件捜査の協力にとどまらず、その身傷ついてもなお騒動の解決まで遂げるとは、臨時とはいえ、君主代理としては頭が上がらぬ。だから連邦君主として…いや、一人の連邦国民として心からの謝罪と感謝を贈りたい。此度は本当に申し訳なかった。そして、この大変な時期でも鎬を削った異国を想うその慈愛、どれ程感謝してもしきれぬ。…本当に、どうもありがとう」


 少し上擦った声で言い終わったルーナはその金色の瞳に涙すら浮かべ、小さな冠をテーブルに置くと深々と頭を下げた。


「…姫様、顔をお上げください」

「今は戦争終結直後の時分につき、民たちの胸中も荒んでおったのじゃ。…などと詭弁を垂れる気は毛頭無い。戦争によって被害を受けたのはそなたら"帝国"も同じ。"連邦"と"帝国"、両国共々がそうであろう?」


 ユートの言葉を気にも留めず、涙を流して更に告白を続ける幼姫の様子は、酷く痛々しかった。確かに今回の戦争では帝国も甚大な被害を受けた。個々に与えられた軍士官の机の上には数に偏りを感じる後処理の書類の束が山と積まれていたっけ。遺骸より鑑定された名を戦没者名簿に新しく足していくあの時は、辛かったな。


「先の戦争において我が国は極めて甚大な被害を受けた。美しかった自然は灰に変わり、町は焼かれ、国は壊され、兵士や罪なき民までもが無残に殺された。たった数ヶ月間の戦争で、90万もの尊き命を喪った。わらわの愛する民たちも、個々の家庭を持った勇士たちも…。軍に攻撃を命じたのはわらわ達王族じゃ、最早言い逃れも出来ぬしする気も無い。…あの時、王の間で爺から帝国の宣戦布告を聞いた時から、わらわも国王とうさまも狂ってしまっていたのかも知れぬ。しらせを聞いたあの時は先手を打つことこそが、一刻もで早く攻撃することが最良の選択だと思っていた。急遽招集した連邦議会では碌に意見も聞かぬまま、攻撃案を承認した。今思い返せば、非人道的なものも卑劣なものもろくに目を通さず承認していた。このまま一方的な虐殺を待つくらいなら、いっそ先に蹂躙すべきだと、どんなに流れた血で手を汚そうとも国を守るべきだと、戦争が始まる前から想像上の戦に酔っていたのじゃ。相手は同じ人間だというのに。まるで"盲目の愚者"そのものよ」


 ルーナの言葉は止まらない。それは余りに脆く、余りに触れ難い。


「…その愚かな決断の末路がこの惨状じゃ。この傷ついた国を眺めて見よ、わらわの何倍もの深い傷を負った民たちが健気にも、もう一度国を立て直そうと汗を流しておる。大切な家族や在るべき居場所を喪った者も多かろう…傷ついた彼らの心境を想えば……胸が張り裂けそうじゃ」


 王族とはいえ、ルーナはまだ幼い。それも幼過ぎる程に。ただ幼いながらも国を統べる者として小さなその身一つに後悔も悲愴も抱え込んでいる。抱え込んだ感情は少し零れてしまえば、幼い自制心では自己の抑制も効かないだろう。今まで抑え込んで来た感情の全てを吐き出すまで止まることは無い。この際だ、全部吐き出させるのが一番良い。全て吐き出してしまえば、少しは楽にはなるだろう。

 

「…本当は、諸悪の根源たるわらわなぞが言うべきことではないかも知れんが、心からそなたらに感謝しておる。特にそなたよ」


 水滴を付けた甲冑の指先が一点を指し示す。示された先には、ユートがいた。


「僕…ですか?」

「そうじゃ、そなたじゃ。いや…一目見た時から不思議に思っていたのじゃが、そなたもしや、第一期戦後特別復興支援部隊ファースト・エイドにいた青年かの?」


 何が言いたいのか分からないが、ユートは一先ず答えることにした。


「確かに、僕は部隊員でしたけど…」

「左様か。先の支援では、世話になったの。あの時のそなたら帝国軍人の姿は、鮮明にわらわの記憶に焼き付いておる。そなたが上官に黙って幼子に飴か何かを与えていたこともな」


 この場でその話は大変まずい。怪しいものは与えていないが不要な馴れ合いは不要と言われていたんだった。こんなこと、アガレスに聞かれでもしたらどうなることやら…。


「ふふ。そんなに狼狽えなくとも、国を救った恩人の秘密をあの将校に漏らすようなことはせぬ。安心せよ」

「良かった…」

 

 ユートは胸を撫で下ろす。すっかり場の雰囲気が和んでしまった、どうしてこうなった。


「おっと、話が逸れてしまったな。わらわが言いたいのは、そなたらが連邦を恨んでもいいということじゃ。経緯がどうであれ、多くの命を喪ったのは帝国も同じじゃ。じゃが、わらわが本当に憎んでおるのはあの忌々しい《黒獣ヴィ―スト》共よ」





 黒獣ヴィ―スト…それは正体不明の無数の悪魔。その起源はこの世界の遥か北方、極圏に位置する現世の最果てにして生命の息吹も凍て付く上空二千メートルの地点である。数十年前のある日、変わらぬ日常を送る人類を見下ろし、突如として空に亀裂が入った。空は悪夢が産声を上げたような巨大な破砕音を響かせると、生じた亀裂が大きくなっていく。砕けた空の断片が地上へと落下していき、同じように砕けて消える。付近に住んでいたとされる当時者の証言ではその後、虚空に生じた亀裂より、数百メートル級の巨大な黒い球体が出現したと言う。後日行われた研究者らの行った調査では球体からは極めて強大な虚数反応が確認され、夜になると止めどなく"異形の怪物"を吐き出し続けていたらしい。


…この怪物こそが《黒獣ヴィ―スト》。虚空の深淵より顕現した悪夢の化身にして人類史上最凶の敵。原理は不明だが虚数術式の類で形成されたその闇色の体躯は小さい個体でも二メートル以上とかなりの巨体を誇り、眼だけは統一して赤い血の色に染まっていたらしい。空間から溢れ出した黒獣ヴィ―スト共は世界に溜まった一定の総個体数を境に活動を開始、周辺の生態系を破壊し手近な集落を襲っては人間を喰い漁り、行く手を阻むものの全てを呑み込み人類文明を進撃した。


 この異常事態に連合政府は黒獣ヴィ―ストを緊急特別討伐対象に認定、すぐさま腕利きの魔術師を集めた討伐隊を組織し、黒獣ヴィ―ストとの戦闘を開始した。人類は魔術を用いて善戦を続け、"黒獣ヴィ―スト"の個体数を少しづつ減らしていった。だが、黒い球体…もとい虚数空間から黒獣ヴィ―ストは数の穴埋めどころか総量を増やして送り込まれ、徐々に適応と進化すら繰り返し、向かい来る人類をうごめく触手で搦め取り、鋭利な鉤爪かぎづめで切り裂き、強靭な顎で噛み砕いた。開戦より数十年後、人類と黒獣ヴィ―ストの数十年にも及ぶ戦いはあっけなくも連合政府の派遣した、たった一人の魔術師の手によって終戦を迎えた。その魔術師…今は空席となっている"白の魔術師"は襲い来る黒獣ヴィ―ストの全てを屠ると宙に空いた虚数空間へとたった一人で到達し、虚数空間へと六本の光の鎖を放った。虚数空間は光の鎖に縛られ、活動を停止した。"白の魔術師"は決して解けぬよう何重にも堅い封印を重ね、連なった悲劇の連鎖に終止符を打った。この長い"一次大戦"は実に人類の三割を犠牲とした"史上最悪の大事件"として、永く語り継がれることとなった………はずだった。



 

 先の戦争が始まってから間もない、落葉の鮮やかな季節の盛り。魔弾の飛び交い、命が枯葉のように吹き飛び、悲鳴の止まぬ戦場で"黒獣ヴィ―スト"は再び観測された。人類の前に再び現れた"黒獣ヴィ―スト"は恐怖に顔を染めた兵士に近づくと悲鳴を上げる間もなく漆黒の鉤爪で切り裂いた。この日を境に死者数は爆発的に増加し、被害は両国のみに留まらず、隣国へと拡大していった。


 この惨状を受け、帝国と連邦は交戦を中止し"黒獣ヴィ―スト"排除に向けての戦線を敷いた。一次大戦の生き残りと仮定された"黒獣ヴィ―スト"共にとって数十年にも及ぶ長い歳月はさらなる増殖、進化を遂げる絶好の機会だったようで、より多様化した"黒獣ヴィ―スト"との戦いは前線に"黒獣ヴィ―スト"討伐経験の無い新兵ばかりな上、数十年前よりも統率された変則的で頭脳的な"黒獣ヴィ―スト"の動きにより長期化は必然だった。結局、先の戦争において最も多くの人間を殺したのは戦いの火蓋を切り落とした人間ではなく"黒獣ヴィ―スト"であり、その犠牲者は帝国と連邦の両国を合わせて200万人以上にも及んだ。…その内、人間同士の戦いによる死者は、一割にも満たない。


 戦争が終結を迎えると良くか悪くか、"黒獣ヴィ―スト"の乱入によって帝国と連邦間にあったわだかまりと憎悪感は自然と薄れ、憎しみの全ては"黒獣ヴィ―スト"へと向けられた。被害の大半は奴らのによるものなので、必然と言えば必然だが。



「…姫様、僕たちは別に貴女方連邦を恨んでいるわけではありませんよ」

「優しいのだな。そなたは」


 ルーナが上擦った声で言葉を溢す。少しは慟哭も収まったようだ。



「…口を挿むようで悪いが、私もこいつに同感だ。連邦と帝国は確かに一度は戦火を交えたが被害の大半は"黒獣ヴィ―スト"共のせいだ。そりゃあまぁ、連邦を憎んでいる奴もそれなりにいるだろうな。だがな、私はこの国が好きだぞ。料理も美味くて居心地も良い。それこそ、私が帝国脱出の隠れ家に選ぶくらいにはな」


 久々に口を開いたシルヴィアは顔をルーナへと近づけるとにぃ、と笑って見せた。


「だからな、何も姫様が全部悪いって考えなくて良い。攻撃を命じたのは姫様自身だからって、そうやって一人で罪を背負う気なのかも知れないが、今回の一見では戦争を起こした帝国にも、事前報復として攻撃をに踏み切った連邦にも、命令を受けて目の前の人間を殺した兵士たちも、全員に非がある。誰が悪いって突き詰められることじゃない。戦争が始まった時点で平和的な解決を勝手に諦めて人を殺す選択をした全員が大馬鹿者さ。だがな、こんなにも大きな罪は全て一人で背負うべきものじゃない。一人に背負わせて他は知らない振りなんてそんなの贖罪でも何でもない。もし赦されるなら皆で背負い、少しずつでも民たちと共に前へと進んで行くべきじゃないか? 本当に自分の愛する民ならば、それくらいはさせてやるのが王たる者の務めだろう。それが私の思う今、姫様が最も成すべきことさ。連邦のお姫様」 

   


 珍しくまともなことを言うシルヴィアのに虚を衝かれたのか、ルーナははっと我に返ると王様らしい殊勝な態度に戻った。


「謝罪に来たつもりが諭されてしまうとはな。王族として情けないわ。だが、そなたらの思いはわらわがしかと受け止めた。済まなかったな」

「そうか。私としては姫様が立ち直ったなら万々歳だ。はぁ…柄にないことはするもんじゃないな。真っ当な諭しなんて初めてだ。それも連邦のお姫様相手に。あぁ疲れた、こんなに大魔術師の精神を擦り減らせるとは、姫様も罪な人だ。こんなにも疲れたとなると、それなりの見返りが欲しくなってくるな」

「いやはや、貪欲な淑女よな。如何にも魔術師らしい。そうじゃの…今回ばかりは、助けられたからの…そなたらと帝国への待遇をより手厚いものにでもしようかの」

「えっ、良いんですか!?」


 まさかの返事に思わず声が出てしまった。だっておかしくないか? シルヴィアが諭しただけでユート達二人だけではなく帝国への待遇の改善なんて、色々と不安定な状況のユートからすれば願ったり叶ったりのこの上ない僥倖だ。


「勿論じゃ。そなたらへは感謝してもしきれぬ。この恩は何時か必ず返して見せようぞ、楽しみに待っておれ」

「あ、ありがとうございます!」


 ソファを立ち、深々と頭を下げるユート。ルーナはよせ、と手を振って嗜めるが声色には一切の毒気を含まず、寧ろ楽しんでいるような、軽やかな口調だった。



     *  *  *  *  *




「さて、そろそろ用は済んだ頃合いかの」


 ルーナが立ち上がる。その顔は初めと同じ明るさだが、何か憑き物が落ちたような、先程よりも清々しい、晴れやかな顔だった。


 ルーナが部屋から退出していく。何となく、ついて行くべきだと感じたユート達も後に続いて部屋を後にした。


 部屋から出たルーナは小綺麗な廊下を止まることなく進み、終には大使館の外に出た。どうやら、お帰りのようだ。


「本日は姫様にご足労戴き、本当にありがとうございました」

「うむ。そなたらこそ、大儀であったな。本当にご苦労じゃった。それでは、また会う時まで。御機嫌よう」


 ルーナが大手を振って通りへと去って行く。ユートはその姿が群衆に紛れて見えなくなるまで、見送り続けた。


「おや? 姫様はどちらへ?」

「あっ、もうお帰りになられましたよ」


 何と! と驚きの声を上げるのはルーナの側近の老爺だ。そう言えばあの時部屋を出てからの間、その姿を一度も見かけていなかった。一体、何処で何をしていたのだろうか。…そしてシルヴィアも居なくなっている、この際どうでもいいが。


「全く、姫様は外出の度に私を置いて行かれるんですよ。それも毎度毎度でしてな…。お転婆な姫様には苦労が付きませんよ、少しは老人を労って欲しいものです」


 では私はこれで、と早々に話を切り上げた老爺はルーナの後を追って行ってしまった。走り出した老爺は疾風の如く、老いを微塵も感じさせぬ速度で地を蹴ると瞬きの一瞬で見えなくなった。あれで労れと言う方がおかしい。それはそれは凄まじいスピードだった。



     *  *  *  *  *



 ユートが大使館内に戻ると、エントランス窓口横の椅子に腰かけたシルヴィアに手招きをされた。待ち望んでいたかのような様子に大変嫌な予感がして気乗りしないが、ここで誘いに乗らなかったら後から何をされるか分かったものじゃない。数秒間の思考の後、ユートはここは大人しく、招かれておくことにした。


「何ですか? 報酬ならまだ来ませんよ」


 そろそろ神様でももう少し時と場合を選びそうな理不尽は御免被りたい頃なので、ユートは敢えて少し不機嫌そうな声で、出来るだけぶっきらぼうに言った。


「馬鹿者。私が姫の話を聞いていなかったとでも言いたいのか? 人知を超える頭脳と魔術導素ルーツを持つ私がそんな低能なことをする訳がないのは自明の理、考えずとも理解できることだろう? お前の脳みそは本当に役に立たないな、ひょっとして、その頭の中に入っていないんじゃないか?」

「はいはい、僕が悪かったから落ち着いてください。それで、僕に何か用でもあるんですか?」


 今の一言でもプライドが傷ついたようだ。怒りを露わに早口で捲し立てるシルヴィアは宛ら玩具を取り上げられて不機嫌になった子供 (何故かシルヴィアの腹の立て方には子供のような印象を受ける。何故かは分からない)のようで、必死な様子が可笑しくて申し訳ないが笑ってしまいそうだった。


「…まぁいいさ。場合が場合だ、今回に限っては許してやろう。ありがたく思いたまえよ。…コホン、では話すぞ」


 シルヴィアの打って変わった神妙な面持ちに、只ならぬ恐怖と緊張を感じ取ったユートの表情筋は、少し強張り出した。



「…えー、君の知っての通り、私は余り人と話すのが得意ではなくてな。特に初対面や月日を重ねていない者とは妙に言葉を選ぶ必要があって…まぁ、天下の大魔術師たる私が程度の低い一般人とのどうでもいい会話など行う必要もないんだがな! 寧ろ合わせてやっていることに感謝して欲しいくらいだ! はっはっは!」

「はぁ…」


 大声で笑うシルヴィア。度重なった情報と疲労で、遂におかしくなってしまったのだろうか。


「それはそれとして、君、帝国の魔術師なんだって? それもそれなりに腕も立つし助言の理解と順応能力も高い。術式には少しムラがあるが、私に掛かれば直ぐに直してやれるだろう。こんな逸材、そう多くは居ないだろうな」



 いくらシルヴィアといえども、美人に褒めちぎられると少し気恥ずかしい。今までに受けたことのない世辞に、ユートはバツが悪い。


「そんな類まれなる才能の持ち主である君に、頼みがあって………って、あーもう面倒臭い! まどろっこしいことは無しだ! おい君、確かユートと言ったっけ? 私は面倒事は嫌いだから単刀直入に言うが…」


 聞き慣れない世辞をようやく終わらせたシルヴィアは、重々しくも、その先の言葉を告げた。それは少し………いや、かなり衝撃的な一言だった。




「……君、?」


 数秒間、思考が止まる。一体何を言っているんだ、この人は。


「えっと…、それはどういうことですか?」

「分かりやすく言うなら私のになって欲しいってことだ」

「その意味が分からないんですが…」


 疑問を口にしたユートを前に、シルヴィアは大袈裟に溜息をついた。芝居がかり過ぎだ。


「じゃあ、私が教えてやろう。色彩称号カラー・プライドを持った魔術師は皇帝と称号授与時に契約をしなければならなくてな。その中の一つに『己が保持する神授術式オリジナル、及び総ての術式は今を以って崇高なる皇国の繁栄と永遠なる叡智究明への贄となり、是の術式の総ては己が弟子、及び門下魔術師にのみ継承権を有する事を原則とし、是を以って術式の永久的な守護を目的とした不可侵の契りとする』って項目があるんだ。要するに『神授術式オリジナルは弟子のみが継承可能で必ず継承は達成しなければならない』ってことだ」


 何やら難解な単語が語彙に乏しい頭に無理矢理叩き付けられたが、シルヴィアのかなり噛み砕いた説明でようやく理解が追いついた。シルヴィアは今、何とも窮地に立たされているようだ。


「それで、だ。私は人とは上手く話せない。故に弟子など見つかることも無かった。このまま一人寂しく一生を終えるのだと、他人事のように考えていた。……だが、私は君と出会った。出会ってしまった。確か、君の任務は私の護送だったな。おそらく根底にあるのはこれだろう。いつまで経っても私の後継者が見つからないから、帝国皇室の連中が私を強引にでも連れ帰ろうとしたって所か。やれやれ、私は絶体絶命だ。そこで、君には私の後継者、つまり弟子になってもらいたいんだ」


 話が急展開過ぎる。ジェットコースターでもこんな話の急展開には振り切らないだろう。シルヴィアの弟子になった自分は、今のユートには全く想像が及ばない。


「…今、ですか?」

「そうだ。のるかそるかは、君が今決めてくれ」


 難題が過ぎる。大魔術師たるシルヴィアからの誘いを受けるのはさぞ名誉ある事なのだろうだが、簡単には決めかねる。


 数秒の空白、張り詰めた空気が歪に流れる。しばらく考えた後、ユートは答えを口にした。




「……素敵な誘いを戴き、光栄に思います。ありがとうございます。…ですが、僕にはまだ覚悟がありません。貴女の状況を聞いておいて無礼だとは思いますが…。大魔術師たる貴女といる世界は僕の澱んだ目にもさぞ煌びやかで華やかに映るでしょうが、何もかもが半端者の僕にはそこに足を踏み入れる資格と覚悟なんて…微塵も無いんです。申し訳ありません」


 迷った末に出した答えは、拒否。聞いたシルヴィアは諦めたような笑みを浮かべ、くしゃりと綺麗な顔が歪む。それでいてもなお、ユートへ優しい声を返した。


「…そうか。残念だ。だが、強制では無いからな。ここで結論を出してくれただけでも、私はありがたく思う。それにこれは君の人生だ、余所者の私が掻き乱していいような軽いものじゃないからな。……初対面の私をその身を挺して護ってくれた君の雄姿は、しかと私の胸に刻み込んでおこう。短い間ではあったが、私との出会いを誇り、君は君の人生をしっかりと生きたまえよ」



 音のない世界に、シルヴィアの声だけが響く。


「思えば、君と出会ったのはたったの三日前だな。君の捨て身に助けられ、同じ屋根の元に夜を明かし、共に食事もした。その上、お互いに重い濡れ衣を被り、理不尽な死線をも超えた。今思い返せば、かなり濃密な三日間だったな。私としては三日目にしてやっと心を開き始めたのだが、それも意味のないことだったとは…少し寂しいな」



 優しくシルヴィアは手を差し伸べる。ユートは震える手で綺麗な手を握る。その温もりに触れた途端、得体の知れない寂寥がユートの内側に湧き上がり、彼の心情を藍色に染めた。


「あの…コレ、お返しします」

  

 ユートは軍服の内側から拳銃を取り出すと、躊躇いがちにシルヴィアへと差し出した。


「……持って行け。少しは役に立つだろう。それに、この拳銃がまた君と私を惹き合わせるかもしれないからな」


 トーンダウンしたシルヴィアは拳銃をユートに押し返す。ここで無理に差し出す意味も無いので、再度軍服の内ポケットに仕舞った。


「それでは、またな」

「はい、また会いましょう………とは言っても任務完了までは、離れられませんけどね」



 特に話すこともなく、何とも言えない気まずい空気が二人を包む。持て余したユートは取り敢えず任務完遂のため、アガレスの居るであろう彼の個室へと足を進めた。



     *  *  *  *  *



「失礼します准将。任務継続のため、准将より任務続投許可、及び合意サインを戴きに参りました」

「少佐か、入れ」


 研磨された木製のドアノブを捻り、ユートはアガレスへと歩み寄る。将官特有の大きな机越しに向かい合うと、ユートは許可書と羽ペンを差し出す。受け取ったアガレスは書類に目を通し始めた。


「そういえば少佐。あの女とは何か話したか?」

「えっ!?」

 

 思わず声が上擦ってしまう。アガレスの表情に悪気は感じ取れないので、おそらくはタイミングの問題だろうが、振られた話題が余りにもタイムリー過ぎる。


「ついさっき、あの女がお前を探していたんだ。後継者について、お前に何か話があるようだったな」

「…つい先程、話してきましたよ」

「だろうな。分かった。少佐が話せたなら良い。任務続行を許可する」

「ありがとうございます」


 最早意味のない会話を終わらせると、ユートはサイン入りの許可証を受け取り、部屋を後にする。木製のドアノブに手を掛けた所で、ユートが問いかけた。



「…あの、准将。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「ん? 何だ、言ってみろ」


 自分でも今更無意味な問いだと分かってはいるが、ユートは意を決して尋ねる。


「…もし、色彩称号カラー・プライド持ちの大魔術師に後継者が見つからなければ、その人は一体どうなるんでしょうか?」


 アガレスは考え込むような素振りを見せた後、重々しく口を開いた。


「暫く利用した後、須くされる。後継者をたてることは、契約にも記された最重要事項だ。決まっているのならば死ぬまで研究に没頭可能だが、後継者の一人も居ない魔術師には、少し様子を見てから議会で案が出され、承認を受けてから処理される。管理部門の職員に聞いた所によると、一つの痕跡も残さず、神隠しのように忽然と消え、二度と現れる事は無いようだ。それに数こそ少ないが実例も確認されている。国家としては大魔術師は一人だけだが、候補は何人も居る。契約の一つも果たせない者など不要だからな。…少佐があの女のことを言っているなら尚更そうだ。彼女の術式の殆どは帝国が管理している。彼女の命を繫ぎ止めているのはその"後継者問題"の一つだけだ。そして少佐の今回の任務は言わば彼女に関する最終決定だ。皇帝の前で彼女の後継者が名乗り出なければ、彼女も速やかにされるだろうな」

「そ、そんなことが…」


 いくら何でも恐ろし過ぎる。確かに大魔術師が忽然と消え、新たにたてられる事は隣国では何回かあったようで、朝刊の一面を飾っていたような気がする。


「何だ、お前が話し合って決めた後なんだろう? 今更どうしてそんなことを聞くんだ? 少佐」


 ユートのせいでシルヴィアが消される。手段は見当もつかないが相手は国家だ、恐らく手段は選ばない。行き場のない後悔が雪崩のように押し寄せ、ユートを呑み込んでいく。シルヴィアが消される、死ぬ。ユートのせいで、僕のせいで。僕が後継者にならなかったから。今更のように感じる悔しさは、ユートの心情を掻き乱した。何とか、何とかしてシルヴィアを助けたい。何でも良い。何でも良いから彼女だけは死なせたくない。そんなユートに選ぶことが出来る未来など———




————最早一つしか、残されてはいなかった。




     *  *  *  *  *



「おお、豪く速い再会だな。惹き合わせるとは言ったが、こんなにも早く効果を発揮しないで欲しいな」


 先程と変わらぬ位置で何やら意地の悪い笑みを浮かべるシルヴィアに、再びエントランスへと戻って来たユートは衝動的に湧き上がった溜め息をつく。もしや、先程のやり取りを聞いていたのか? 何て聞いてみても、きっと教えてはくれないのだろう。

 

「……えー、先程の後継者の話ですが、貴女がどうしてもと言うのであれば、僕がなってあげても…」

「ん? さっきはならないって聞いたがな。確か、『覚悟がありません』とか格好つけて言っていたような気がするが」

「……貴女って、本当にいい性格してますよね」


 やっぱり辞めておこうかと思ったが、やはり人命が第一、最優先事項だ。ユートは拳を強く握り締めると、先程は言えなかった言葉を言った。


「あーもう、分かりました! なりますよ! 貴女の後継者になればいいんでしょう?」

「そう言うことだ。いやぁ、君が話の分かる奴で助かったよ。私は只の男は嫌いだが素直な男は嫌いじゃない。それに君のような端正な顔つきの青年なら、私も喜んで歓迎するよ」


 人命が優先、これでシルヴィアの命は助かった。それだけでいい。これ以上何か言われれば羞恥で頭が沸騰しそうだ。穴があったら入りたいどころか今なら自力で穴すら掘れそうだ。


「まぁ、君が戻ってくるのは分かっていたよ。君の性格は、一言で言えば『お人好し』。それも頭に超が付く程のな。そんな君は一度断った後、これから私に何が起こるか、どういった末路を迎えるかはあの熊男に尋ねるだろうと踏んでいた訳だが、当たったな。それにその後、全てを知った君は『愚かな自分のせいで美人で女神のような、世界一の女性を死なせてしまう』と考えるのは必然だ。そうしてここへ戻り、後継者になると前言を撤回した………いやぁ、我ながら恐ろしい程当たったな。もしかすると、私は魔術師よりも占い師の方が向いていたのかもな」


 僕は一体、今日だけで何回恐怖すれば気が済むのだろう。途中の誇張は無視しても九割方当たっている。驚異の的中率だ。シルヴィアは人の心を覗き込めるのだろうか。



「経緯が何であれ、これで君は私の後継者、可愛い弟子になったって訳だ。もう逃げられないぞ、これからは面倒事は全て君に任せて散々扱き使ってどんな無理難題も何から何まで君に押し付けてやる」

「あの…もしかして弟子を召使いか何かと勘違いしてませんか?」

「細かいことはいいじゃないか。……さてと、これからよろしくな。私の可愛い後継者君?」


 ユートの心に急速に不安が募っていく、それも徐々にではなく大量に何度も何度も降ってくる。最早募るよりも積もるの方が正しそうだ。この不安も、持ち前の読心術で読まれているのだろうか、それとも読まれていないのだろうか。それはシルヴィアにしか分からない事なので、渋々と仕方なく受け入れることにした。これからの困難を予見して項垂れるユートを横目に見つつ、心底愉しそうな顔で長い足を組んだ男装の悪女は、ふふっと蠱惑的で悪戯な笑みを浮かべた。



     *  *  *  *  *



 数十分後、連邦政府より出国の許可が下りた。アガレスと大使館に惜しくもない別れを告げて駅に向かって行く道の途中、普段なら逆向きに歩いていくはずの人々がユート達と同じ方向へと歩いていることに気が付いた。この数日間、連邦が半鎖国状態だったこともあってか、今日出入国する人はざっと見積もっても普段の二倍以上は確実、ならばこの異様な光景も理解できる。一昨日よりも柔らかくなった視線を背中に感じながら、ユートは深く息をした。



 雲間から列車がホームへと接近アプローチ、徐々に近づいて来る。甲高くも重々しい汽笛を高らかに響かせ、我が物顔で空を征く列車は宛ら霧の海を裂く軍艦か、はたまた勝利に凱旋する不沈艦のようだ。自慢げな汽笛すら翳む程に人々の声が耳を劈く。有り触れた有象無象で溢れかえった国境駅はいつにも増して多くなった人々の喧騒と雑踏の波でごった返していた。


 分厚い鋼鉄の扉が開かれ、豪奢な内装が露わとなった。一昨日と変わらぬ中世の雰囲気を基調とした内装にふかふかの赤い絨毯、一メートル四方の巨大な窓、無駄に高級感のある二人掛けの座席が向かい合った区画は家族層に向けられた物だ。こちらは二人だけなので別に座る必要も無い。向かい側に小ぶりな座席のペアが配置され、ユートはその一方に座った。この国際列車は完全予約制だ。そしてその金額が馬鹿にならない。これは任務のため、費用は軍事費用から引かれているが。普段通りの生活ならば、今回の旅費だけで半年は生きていけるだろう。この列車の駅内待機時間は約三十分、些か長く感じるかもしれないがこの列車は国と国を繋ぐ唯一の交通機関だ、一度逃せば六時間は戻って来ない。ならばこんなにも長いことも妥当だ。


 それはそうと、かれこれ二十分程待っているが、シルヴィアの姿が無い。先程逸れたのだろうか? 


「おっ、いたいた」


 噂をすれば、シルヴィアが車両に入って来た。戻って来たシルヴィアは何やら小さな白い封筒を人差し指と中指で挟んでいる。


「何処へ行ってたんですか? その封筒は?」

「悪い、少し知り合いと話をしていた。コレはそいつから貰った、私たちが今まさに欲する"情報"さ」


 ユートの向かいの席に腰を下ろし、意味深な笑みを浮かべるシルヴィア。今のユート達に必要な重要な情報とは一体何なのか。シルヴィアは封筒を開けると封入されていた紙を取り出し、広げた。中身は乱雑に殴り書きされた文章の羅列だった。おそらくは事情徴収の最中にでも書いていたのだろう。


「コレを見ろ。黒コート男達の詳細情報だ」

「本当だ、この人達って全員生まれが同じなんですね……って嘘でしょ!?」


 シルヴィアが紙に殴り書きされた文章の一節を指差す。そこには犯行グループ全員の出生情報が記載されおり、余りに信じ難い事実が記されていたので、流石のユートも自分の目を疑った。そこにはあの男達の全員が楽園エリュシオン出身だと記されていた。


……その国の正式名称はエリュシオン群島内諸国統制連合。通称 、《楽園》。帝国より遥か六千キロメートル西の地点、『限界領域』に位置する"常若の国ティル・ナ・ローグ"とも称される程に美しい、二百余りの大小様々な島々から成る海上の集合国家だ。


 だが、少し妙だ。"楽園"は美しさもさることながら、『世界から最も隔離された国』で有名だ。それに楽園では国外逃亡は極刑だったはず、固有の自治組織の追跡能力も高い。天国のような美しい監獄から逃亡者でも出ようものならそれは忽ち大ニュースとなって世界中を駆け巡るだろう。それなのに数名が脱出に成功していて今の今まで潜伏していたとは、やはり裏では相当な大物…或いは国家が糸を引いているに違いない。


「ここまで世界相手に隠し通していたとは…恐れ入ったよ。この規模じゃ奴らの言う"計画"は、国家が一枚噛んでいる可能性もあるな……"楽園からの脱走者"、"執拗なまでにもみ消された記録"、"暗躍する黒幕"、"動き出した計画"……やれやれ、私は面倒事は嫌いなんだがなー」


 口から出て来た言葉とは裏腹に、シルヴィアは悪い笑みを浮かべて低く押し殺した声で笑っている。宛ら捉えた獲物を前に舌なめずりする獣のようだ。


「その割には嬉しそうな顔してますね。好奇心が隠しきれていませんよ」

「だって面白そうだからな! 仕方ないだろう! それに逃亡者を匿っていた連中、闇の組織っぽくて格好良くないか? 影の黒幕に男の言う"新世界"! いやぁ、胸が躍るなぁ!!」


 あまり同意は出来ないが、砂粒程の共感なら出来る。フィクションの世界でのみ起こりえる闇の組織、存在を知ってしまったユート達はこれがもし物語ならば、紛れもない主人公だ。浪漫があると言えばあるような…気がしなくもない。こんなことを考えている時点で、ユートもシルヴィアとは大差ないのだろう。


「君もそう思うだろう? 大冒険の予感がするぞ!」

「そうですね。僕は出来れば、難易度はイージーでお願いしたいですね」

「何を言うか。魔術師たる者、人生は常にハードモードだ! さぁ、今にもこの国を抜け出して、私達二人の快進撃でも始めようじゃないか!!」




 シルヴィアの声を合図に、列車の扉が閉じる。汽笛が轟き、運動機構を軋ませて長い列車が震動と共に進みだす。ゆったりとした心地よい揺れと重力の重さを感じながら、ホームを抜けた列車は空へと昇っていく。連邦の大地が遠ざかり、精巧なミニチュアのようになり、ぼやけていく。上昇の最中、今までは見えなかった王都が見えた。白い宮殿が見える。あの場所から、ルーナもこちらを見ているのだろうか。 


「あっ、そう言えば」


 パンッと手を鳴らしてシルヴィアはユートに向き直る。どうかしたのだろうか?


「えーと、確か君の名前は……ユートだっけ?」

「いや、さっき言ったことをもう忘れたんですか? 鶏でもあるまいし」

「うるさい」


 ほんのりと赤く染めた頬を膨らませたシルヴィアは窓の方を向いた。窓に付いた小さなテーブルに頬杖をつき、一向に目を合わせようとしない。こんな日常の1ページでさえも見事な絵になる彼女は元々整った顔立ちなので、その美貌ゆえ仕草の子供らしさが余計に際立つ。


「もう、拗ねないでくださいよ。それで、何ですか? 僕の名前はユートで間違いないですけど」


 すっかり拗ね切ったシルヴィアは不機嫌そうにユートを睨み付け、その顔を寄せた。


「そうか。いやー、君はもう私の弟子になったことだし、いつまでも他人行儀な呼び方は私は避けたくてな」

「まだ正式にではないですけどね」


 何でも、新規の後継者登録には皇帝陛下直々の承認と契約が必須らしく、その手続きを果たせていないユートは、現状では仮の後継者である。


「細かいことは良いじゃないか。話を戻すが、君に支障が無ければ、呼び名はユートで良いか? それとも愛弟子? はたまた奴隷?」

「……何やら物騒な選択肢があったような気がしますが、聞かなかったことにしておきます…。僕の呼び名はユートで大丈夫ですよ」


 そうか、助かるよ。とシルヴィアは満足げな笑みを浮かべた。


「では、ユートは私をどう呼ぶ? ご主人様か? 女神様か?」

 

 誰が呼ぶか。


「……シルヴィアさんで良いですか?」

「何だよつまらない奴だな。……まぁいいさ、それで」

「ありがとうございます」

 ありがとう、と感謝するのもおかしな話だが、シルヴィアが良いなら良しとしよう。微笑んだユートを見て、おかしな奴だと吹き出したシルヴィアのもう何度目かも覚えていない軽口も、今は全く気にならない。


「そんな訳で、よろしくな。せいぜい私を楽しませてくれたまえよ」

「こちらこそよろしくお願いします。出来るだけ退屈させないように努力しますよ」


 最後にユートは手を差し出し、シルヴィアがそれに応じる。真白の手と象牙色の手を、二人は互いに強く握り締めた。 



 一抹の不安を孕んだユートと十割の期待に目を輝かせるシルヴィアを乗せ、空を征く列車は雲間へと消えていく。その黒き鋼の装甲で大気を切り裂き、柔らかな雲を越えて。今日から始まる記念すべき物語の最初のページに、鮮やかな空色を一つ染めるように。


 この先に待つ困難など、この時の二人は知る由もない。向かうは帝国、皇帝へ賜るは誓い、世界へ契るは叡智の探求。これから起こる残酷な決別も、消えない悲愴も、今は遠くもいつかは二人へ迫り来る。その時襲い来る慟哭の全てを、二人は受け止めきれるのだろうか? この先の未来で、二人は笑い合えているのだろうか? 

——その物語は、まだ誰も知らない。




 遠く、空を泳いだ鳶の鳴き声が、ファンファーレのように快晴の青天井へと高らかに響き渡った。 






—————僕らの物語は、今まさに始まった。

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