第10話 必殺、必中、必死
ひしひしと肌で感じる熱と殺気と厭な張り詰めた静寂が、メインリアクター前広間の半径四十メートル程度の巨大空間を中から覆い尽くし、その息の詰まる様な重苦しい圧で矮小な人間共を支配していた。緊張のせいか、それとも只の熱気のせいか、湧き出してきた汗がユートの頬を伝って流れ落ちた。後ろに立つシルヴィアもおそらく同じ感覚を味わっているだろう。
そんなユート達の目前二十メートルあたりの場所、
先程付けた傷跡が痛むのか、男は時々呻き声を上げて未だに色濃く残る痛みに悶えている。目の前の男は負傷していてこちらは戦闘準備万全の上、体力も魔力も十分な二人。数でもコンディションでも優勢なこの状況は、傍からすれば状況は良く見えるかもしれないが、実際はそうでもない。
今の男は痛みに悶え、苦しんでいる。恐らく発狂一歩手前と言った状態で、男はいつ気が狂ってもおかしくない。何せ人間という生物は己が命の危機に瀕した際、すべてを犠牲にしてでも命だけは助かろうと行動するようにと遺伝子に刷り込まれている。そして目の前の男は手負いの模様、もし本当に気が狂ってしまい、魔力を全開放した状態での突貫攻撃なんてされたら対処の仕様がない。短剣を握り締めたユートの両手が独りでに、そこだけ独立した自我を持ったようにカタカタと音を立てて震えている。それをユートは不思議に思った。
僕は何で震えてるんだ? 血で血を洗い、互いの命を奪い合う戦場など、軍に入隊した時から腐るほど経験してきたつもりなのに。軍人なんだし、当然だと言えば当然なんだが、いつまで経っても武器を使って一方的に何かを痛みつける、非人道的な感覚と行動には慣れないし慣れたくもない。無理矢理に命を奪うなんて
———あぁだからか。ようやく分かった気がする。僕は、怖がっているのか。こうして互いに命を奪い合うのが恐ろしいのか。だから軍人なのに誰も殺せないなんて、戦場では場違いな慈悲の意思を持ったまま、僕はいつまでも役に立たない"疫病神"だとか"死神"だとかの
思考の合間。極度の緊張のせいか、独りでに浅くなった呼吸が苦しい。"人を傷つけられたくない"なんて感情と"殺さなければ自分が殺される"という至極当然な戦場の摂理。相反する感情が鎖へと変わり、いつもユートを縛り付けて前へと進ませてくれない。
———そう、これはいつまで経っても変わらない、僕の魂に刻まれた呪いだ。だから僕は、この業を背負って生きていくしかないんだ。
徐々に逸れ始めたユートの思考をスチームの噴き出す音が現実へと引き戻した。
えぇと、どこまで考えてたっけ。そうだ、必殺技だ。
そう言ったはいいものの"必殺の一撃"なんて大それたものでもない事は、ユートが一番分かっている。でもこの拮抗状態から一気に決着へと持ち込むには、やはり
———術式起動準備。"必殺技"と言えば聞こえはいいが、派手な光線を照射したり大爆発を起こしたりするのは、フィクションの世界の中だけだ。それに今回の"必殺技"はそれはそれは地味で微妙な攻撃に他ならない。
こんな余りにも派手さに欠ける作戦に人生初の必殺技なんて名前を付けることになるとは…何か悔しいな。
「落ち着いて聞いてください。これが最後の警告です。その容器を置いて、大人しく投降してください」
「だから言ってんだろ。俺はもう普通には戻れないってな。………おい餓鬼、お前も男なら言葉はいらねぇよな。男はな、戦闘の中で語り合うもんだぜ」
最後の説得も虚しく、最後まで男がこちら側に戻って来ることはなかった。ならば、せめて今だけでも正面から向かい合って語り合おうか。ユートは短剣を持ち直すと体内に魔力を巡らせ、身体の至る所を"
男とユートは睨み合ったまま動かない。どちらが先に仕掛けるのか、それとも突撃して来た所を
スチームの音が静寂を破った。その音を聞くや否や、ユートと男はあたかも互いにタイミングを合わせたように一斉に動きだす。男との距離、数十メートル間を一瞬の内に飛び越え男に迫ると、姿勢を低くしたユートは"強化"された剣先を正面へ突き出す。呼応するように男もナイフを振り
形勢逆転。今度は男が攻める番だった。男はユートの攻撃に怯みはしたが、まだまだ体力は余っている。男はユートの肩を捕まえるとその頭へと一直線にナイフを振り下ろす。しかしユートは両腕を頭上で交差させるとそこに魔力を一点集中させ、それを一斉に開放する事で即席の
「おっ! さては
ユートの心情を察したかのようにシルヴィアはニヤリと笑う。しっかり決めろよ。と小さく聞こえた。そうは言っても、ぶっつけ本番なので成功率は分からない。それに僕は緊張に弱いんだよ。今にも五臓六腑が張り裂けそうだ。余りプレッシャーをかけないで欲しい。それに男がこのまま動かない事が絶対条件だしここは慎重に……いや、余りに慎重過ぎてタイミングを逃してしまう何て事もあり得るし……ああもうどうでもいいや。チャンスは一度きりなんだ、それにいい加減こんな考え飽きたんだよ。とにかく一発で成功させたら良いんだ。早く覚悟を決めろよ、僕。
「その顔、何か企んでやがるな? あぁいいぜ。どんな卑怯な手だろうが返り討ちにしてやるから、かかって来いよ!」
ユート達二人の作戦に気付いたのか、男はニヤリと嗤うと余裕たっぷりに両手を広げてユート達を挑発する。
そんなに挑発させたらやらざるを得ないじゃないか……あぁもういいさ、真正面からやってやるよ。
「それじゃあ、行きますよ!」
「お前に合わせる! 突っ込め!」
地を蹴り飛ばして、男に迫る。ユートの体はほんの一瞬で列車すら優に超えるスピードへと加速すると、空気が強固な障壁となって進行を阻んだ。障壁と化した強い風圧に目を開けておく事も難しいが、その目だけは瞑らぬようにと風が叩き付けてきてもなお、目を開いて男を捉え続ける。魔力を集めた左手を男に向けて
ドンッと、くぐもった重い音が広間に響く。直後、右手に伝わって来た膨大な反動と強い衝撃に、手が痺れて拳銃を落としそうになった。銃弾は一直線に男を仕留めんとするように空気中を飛んで、その大きな体を穿った。取り敢えず、成功した。
一つだけ誤算だったのは男がユートの動きに反応して回避行動を取っていた事だ。対処の仕様の無い、速度に連携も合わせた完璧な作戦だった筈が男はユートの銃撃を読むと、避ける為に横に跳んでいた。当たったから良いもののまさか見破られるとは…やはりこの世界には、"完璧"なんてものは存在しないみたいだ。
「ぐうっ……!! この餓鬼が、妙な物持ちやがって……!」
男は右肩に手を押し当て、憎悪に燃える眼光を銃撃の張本人…ユートに向けた。 銃弾は確かに命中した。本当は戦闘続行すら出来なくするつもりだったが、銃弾は男の右肩に着弾した。相当な激痛だろうが、それでもなお倒れない。
「その上、虚数術式とはな……。まさかの"
今の男は賞賛を贈っているのか、それとも余裕さを誇示しているのか分からない。そう言えば男は戦闘が始まってから今までの間、一度も"神授術式"を見せていない。展開していないだけなのか、はたまた持っていないのか。
「だがよ、俺を
男は尋ねる。残念ながら、的中だ。
「それに餓鬼! てめぇ、わざと傷口を避けて戦ってやがったな? 俺を馬鹿にしてんのかよ!? そんなしょうもない情けなんてもんはなぁ、戦場には要らねぇんだよ! 俺を殺す気で来やがれ!!」
男は声を吼えるように荒らげる。私も居るんだがと、シルヴィアが小声で訴えていたが、果たして男に聞こえただろうか。傷口を避ける? 確かに攻撃する時も上半身と足元を中心にしていたし、もしかすると無意識に傷口を避けていたのかもしれない。全く、変な癖だ。
「それともてめぇ、これからも手を抜いたまま
男は魔力を解放して距離を詰める。避けるように横に跳ぶと凹んだ鉄板が見えた。——あれは、男が跳んだ場所の筈。この人、まさか魔力を全開放して———
考える間もなく、ユートの腹部に男の拳がめり込む。一秒にも満たない瞬きの内に数メートルの距離を詰めた男の重量は凄まじいものだった。飛来する矢の如く、超加速した大男の全体重をかけた一撃は、文字通り必殺の威力となってユートの身体を数メートル後方へと吹き飛ばすとその身体を堅い地面に叩き付ける。強烈な背中を貫く衝撃に、一瞬の間呼吸が出来なくなった。
ギシギシと骨が軋む。身体中が痛い……こっちも全身を"強化"しているのになんて威力だよ。殴り飛ばされた瞬間、一瞬意識が飛んだぞ。
「おい! 大丈夫か!?」
シルヴィアが心配そうな深海色の瞳でこっちを見つめる。まずい、こっちを見ないでくれ。今にも男が迫って——
「戦場で余所見とは、大魔術師様は余裕だな!」
シルヴィアの横腹に男の蹴りが入る。そしてユートと同じように蹴り飛ばされ、重い衝突音と共に鉄柵に受け止められた。額から流れ出す赤色が、次第に彼女の顔を染めていく。
まずい…このままじゃ二人とも殺される。何か打開策はないか? 男を倒す方法はないか? 考えろ、考えろ!
「いい気味だぜ、ヒーロー気取りの餓鬼共が。偽善者風情が、勝手に大人の事情に入ってくんじゃねぇよ!」
男が嗤う。状況の打開策はまだ思いつかない。銃を撃つにしても、銃は今男の足元にある。どうやら男に蹴り飛ばされた時に落としてしまったみたいだ。それに"強化"も解けてしまって魔力も足りない。これでは魔弾も撃てないな。
……ん? 待てよ。魔力の足りない今では魔弾も撃てない? いや違う。魔弾
それに、武器ならまだある。それに魔力を全て使って再展開さえ出来れば
ユートは鉄柵に手を掛けどうにか立ち上がると"神授術式"、虚数術式を展開する。右手を左手で支えるこの構図は、傍から見ればさぞ不格好に見えるだろうな。
ユートが術式を展開している隙にナイフを拾った男は、シルヴィアに近づくとその身体を厭らしく、舐めるように見つめると、
「テメェを殺した後、身体は
男はユートの目には見えない何者かへと跪き、蒸気で覆われた夜天を仰ぐ。
———人間を、管理しているのか?
未だ震えの治まらない焦点の合わない目で男はシルヴィアを睨み付けると、厭らしく舌なめずりする。魔力を集中させたユートの右手の掌に黒い球体が出来上がる。あと少し、もう少しで短剣を取り出せる。だから、もう少しだけでいいから時間が欲しい。
「その目に焼き付けろ! これが稀代の大魔術師の、醜く
高々とナイフを掲げる男の叫びすらも聞かずに、ユートは虚数空間から短剣を取り出すと、ろくに狙いも付けぬまま、そのまま刃を男へと放る。当たらないと思ったが、偶然にもナイフを振り下ろす男の手と短剣が空中で重なり、その指先を浅く斬り付けた。悲鳴、突然の鋭い痛みに男はナイフを取り落とす。———好機は今。
こちらも一秒足らずの間、周囲の魔力を可能な限り搔き集め、全身を"強化"するとユートは風を切り裂いて男へと駆け出す。先程落とした拳銃も拾いつつ、先程のお返しとばかりに全体重をかけた渾身の蹴りを男の腹部へとぶつける。爪先から伝わる、内臓が
殴り合いは最早、体力と魔力の消化試合へと変わり、両者共々何も考えずに拳を突き出し、受ける。その内キレの無くなり始めた拳と蹴りに、互いの体力の限界……終わりは着実に近づいてきている、様な気がした。最初の剣術も何処へやら、結局、こんな
————長い長い拳闘の後、腕を弾いて繰り出したユートの回し蹴りに、男はたたらを踏んで退く。ユートも肩で息をしたまま、その燃ゆる
もう互いの体には、もう一度殴り合える程の体力は残されていない。満身創痍とはこの事だ。つまり、次の一撃が最後の攻撃となる、…衝突の後に誰が立っているのかは分からない。だが、これで決着がつくのは明らか。そうと決まれば、後は持てるすべてを結集した一撃を、相手にぶつけるだけだ。
「餓鬼……お前は中々骨があったが…これで終わりだ。次の一撃で、俺は確実にお前らを殺す」
「……そうはさせません。必ず僕が、
疲労で互いに切れ切れの、皺枯れて最早別人と化した声で言い合うと、それを最後に言葉を発す事もなく、ただ一心に魔力を搔き集める。やっとこの空気にも慣れたのか、心臓も不思議と落ち着いていたので手早く集めることが出来た。遠くで静観しているシルヴィアの補助もあってのことだろうか。
男は全身を先程よりも一層堅牢な"強化"で覆い、太い首から小気味の良い音を鳴らして油断なくその時を待つ。やっとの事で搔き集めた魔力の全てを防御に使った"強化"、…並大抵の攻撃では術式の突破は
「真っ向勝負だ! 俺が勝っても悪く思うなよ?」
「もう、言葉は必要ないでしょう? お覚悟を」
いつかの静寂が、再び戦場を包む。極度の緊張に、いつの間にか聞こえなくなっていた機械の軋む音が今一度ユートの
男は
これが卑怯だと
「チッ、避けやがったか」
その言葉も、駆け出す彼には届かない。
男まであと数メートル。その時、何処からか飛来した魔弾が男の足元へと着弾した。するとそこから勢い良くスチームが噴き出した。どうやらシルヴィアは、とっくにユートの狙いに気づいていたようだ。
男の足元から金属の擦れる耳障りな騒音が鳴り響くと次の瞬間、そこからスチームが勢い良く噴き出し、爆音にも似た音が鼓膜を叩いた。
「なっ!?」
ユートが先程狙ったのは男ではない。
それを見越しての咄嗟の行動だったが、シルヴィアの補助もあって上手くいった。銃弾と魔弾によって
「……ッ!?」
ユートの左肩に、電撃のような鋭い痛みが走る。左目の視界の端に傷口を捉え、痛みの元を確認すると、そこには黒い柄……ナイフが深々と突き刺さり、その銀刃の根元から赤い血を滲ませ、軍服の夜色をその赤色でじわじわと侵食していく。今もなお男は魔弾を放ち、手に持ったナイフを投げ続けている。さながら散弾銃の多方攻撃のようだ。短剣で斬り付け、銃弾と魔弾を撃ち込み、固い拳で殴りつけ、ここまで追い詰めてもなお
こんな痛みで負けてやるものか。ユートは自分の手を爪痕が残る程強く握り締め、奥歯を食いしばって激痛を堪ると、その歩を止めず走り続ける。一歩踏み出す度、心臓の鼓動に呼応するように、左肩から溢れ出す激痛が脳髄を突き抜ける。その内魔弾と刃物の嵐が止み、またユートの周囲から音が消えた。目の前の光景がスローモーションのように遅くなる。耳を劈く轟音も、翠玉色の光も、広間を駆けるユートには追い付けない。自分が速いのか、はたまた周囲が遅いのか、思考の追い付かない頭ではもう分からない。これが俗に言う人間の覚醒、集中の極地だろうか。まぁ、そんな事今更どうでもいいが。
そこらに拳銃を投げ捨て、ユートは駆けた勢いを殺さぬように跳躍、そのまま
ユートの右手が強烈な
「うおおおおぉぉぁぁァァァッッ!!!!」
けたたましい雄叫びと共に打ち込まれたユートの光拳は男の堅牢な"防壁"を打ち破り、そのまま拳は男の顔面、右頬に
「……ッグハァッ!!」
後頭部を鉄柵に叩き付けられた男が口腔から血を吐き出し、最後にそう叫んだ。断末魔のように。
……だが、まだだ。まだ終わっていない。
「今だ! 受け取れ!」
「はい!」
シルヴィアはそう叫ぶと、黒色の何かをユートへ放る。空中で不規則な軌道を描く
これが最後の策だ。走りながらそれを受け取ったユートは男に詰め寄ると、手首に手錠の様な何か………
「ぐッ……! この糞餓鬼………卑怯者めが……!!」
目の前で鉄柵に寄りかかって倒れている男の顔面には激痛による脂汗が張り付き、黒いはずのコートも、血が飛び散り、まるで斑点模様がついているようだ。男はゆっくりと震える瞼を開き、血の滴る蒼白と化した顔で忌々しそうにユートを睨み付けた。ユートはそんな男を睨み返すと、
「……卑怯者で結構。僕はもう、馬鹿な餓鬼なんてとっくの昔に卒業したので。だから好きなだけ、
捨て台詞のようになってしまったが、今は良しとしよう。
「あーあ。結局私の出番はなかったか。まぁその代わり、お前がアイツをぶちのめしてくれたから、良しとするか」
大して悲しそうでもない溜息をついた後、シルヴィアが右手を上げてゆっくりとこちらへ歩いてくる。実際、先程のアシストは助かったし、囮になってくれたのにも感謝の仕様がない。調子に乗りそうなので、後半は絶対に言わないが。
ここにアガレスがいたならば勝利の凱旋、なんて派手な事はとてもじゃないが言えない。でも今なら。国の命運と己の命を懸けた、激戦の後ならば。
———年相応の喜びを分かち合う事ぐらいは、許してはくれないだろうか。
「お疲れ。勇敢な少佐殿」
「はい、お疲れ様です。稀代の大魔術師様」
わざとらしく、普段なら決して口にしない略称で二人は呼び合うと、掲げられたシルヴィアの白い手を真似るように、ユートも血に濡れた右手を掲げ、二人で
パンッという軽快で爽快な音が広間を通り抜け、星々の
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