サヨとハルキ 3

 病室を出て担当医から説明も聞いたが、一番の問題はやはりハルキが治療を拒否していることだった。急性のために症状の進行が早く、ハルキは症状を自覚しつつもそれを隠していたから、現状既にかなり進行してしまっていた。ドナーが必要となる造血幹細胞移植の前に化学療法もあるが、それすらも拒まれれば手の打ちようがない。


 説明を聞いてから、病棟のロビーで三人は並んで座っていた。ショック状態の母は父が肩を抱いていて、サヨはひとり冷たくなった手を握りしめている。

 造血幹細胞移植についても一応説明は受けた。兄弟姉妹間での白血球型の一致率は四分の一だが、それ以外からの一致率は数万から数百万分の一だという。


 両親には決して言えないが、ハルキとサヨは愛する相手と決して結ばれないという同じ絶望を抱えている。それが、ハルキから生きる気力を奪っているのだ。

 


 けれど、もしも「サヨがハルキの妹であること」にポジティブな意味を見いだせるならば。

 それができるならば、彼の決意を翻させ、命を繋ぐことが出来るかもしれない。



「私、兄さんともう一度話してくる」


 力のこもらない足を叱咤しながらサヨは立ち上がった。父が頼んだというように視線を投げてくる。それに頷いて返して、サヨは再びハルキの病室へ向かった。



 ハルキは目を閉じたままだった。けれど眠っていないのはわかる。

 彼のベッドの傍らに膝を付いて、サヨはハルキの手を取った。この手に頭を撫でられるのが好きだった。病気のせいか、以前よりやはり痩せている。その優しい手は、今は妙に熱い。発熱しているのかもしれなかった。


「逃げるの?」


「うん、逃げるんだ」


 サヨがそう問いかけるのなど、予想済みだったのだろう。穏やかな声が返ってくる。涙が出るほど大好きな声なのに、今はそれを聞くことすら辛い。


「離れれば変わるかと思ったんだよ。他の女の子と付き合ったりしてさ……でも、喪失感が増すばかりで、段々自分が何のために生きてるのかすらわからなくなってきた。そうしたら、これだろう? ぶつけた覚えのない内出血とか、今まではなったことのない貧血とか、異様に疲労することとか……最初は実家から離れたせいで不摂生が祟ったのかなあなんて思ってたんだけど、自分なりに調べてみたら、この病名が出てきた。その瞬間、ほっとしたんだ」


 ぎり、と奥歯を噛みしめながら、サヨはハルキの手を握りしめた。



『僕がいなくなればよかったんだ』



 ふたりが決定的に分かたれたあの日、ハルキが言った言葉が蘇る。

 ただ距離的に離れて「いなくなる」ならともかく、ハルキがこの世からいなくなるなんて考えたくもなかった。


「自分は逃げて、私はそれを抱えて生きろって言うの?」


「酷いお兄ちゃんだね。だから、僕を恨んでいいよ」


「……私の白血球型が一致したら、私をドナーにして移植を受けて。兄妹に生まれた意味があるなら、それしかないよ」


「サヨを、ドナーに?」


 やっとハルキが目を開いた。光の加減で金色にも見える目は、ここに来て初めて感情らしい物を乗せてサヨを見つめている。


「そう。私は兄さんに生きてて欲しい。いなくならないで欲しいよ……」


 涙で視界をにじませていると、熱い指がサヨの目を拭っていった。


「兄妹に生まれた意味があるなら……そうだね、そうやって僕が生きる望みを持てたら……。わかった。サヨの言う通りにするよ」


「約束だよ、絶対だよ?」


 半ば無理矢理にハルキの小指に自分の小指を絡め、サヨは小さく手を揺らした。


「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます」


「これじゃ、もう嘘もつけないなあ」


 困ったようにハルキが笑った。

 確率は四分の一。それに賭けるしかサヨに出来ることはなかった。



 サヨはハルキと約束したことを両親と医師に告げ、白血球の型を調べるために採血を受けた。四分の一は決して高い確率ではないが、それでも、今までのハルキの治療拒否よりは余程希望があった。

 採血から結果が出るまでは二週間、その間、生きた心地がしない日々が続いた。家の中は常に重苦しく、普段は明るい父ですら言葉少なになっている。


 そして、サヨがドナーとして適合するかどうかの結果が告げられる日がやってきた。

 


 カーテンを開けて入ってきたサヨの顔を見て、ハルキは全て悟ったらしい。点滴の繋がったままの腕を広げて、彼はサヨを待っていた。

 ベッドの横に崩れ落ち、ハルキの腕の中に顔を埋めながらサヨは泣きじゃくった。高くない確率とわかっていても、どこか「自分たちなら大丈夫なのでは」と根拠なく希望を持っていた。


「白血球、一致しなかった。……約束したのに、兄さんを繋ぎ止められないよ……」


「それはサヨのせいじゃないよ」


 柔らかく波打つサヨの髪を、ハルキの指が優しく梳いていく。それは甘いほど心地よいのに、何の慰めもサヨにくれはしなかった。


「嫌だよ……死んじゃやだ」


 駄々っ子のように同じ言葉を繰り返していると、ハルキの手が頬に滑ってきてサヨの顔を包み込んだ。


「君だけを、愛してる」

 

「うっ……くっ……」


 涙を流し続けるサヨの唇に、かさついた唇が重なった。頭の芯がすっと冷えていく。本当に彼はこのまま死ぬのだ。だから、今まで守ってきた禁忌を破っている。

 ハルキとするキスは、いつも悲しい。


「私も、あなた意外愛さない……」


「そんなこと言わなくていいよ。サヨは自分の人生を生きるんだ。僕のことは出来れば忘れて」


「できるわけ、ないじゃん……」


「そうだよね、僕だって、本当は忘れられたくなんかないよ。だから約束して欲しい。僕が死んだら、サヨの手で仏壇に花を飾って。三日に一回でも、一週間に一回でもいいから」


「わかった。じゃあ私のお願いも聞いて。――いつか生まれ変わったら、また絶対好きになるから、私を見つけて」


「そうか――そうだね。うん、生まれ変わってもサヨのことを愛するよ。その時は、血が繋がってないといいな」


「絶対兄妹に生まれたりしない。だから、その時は」

 


 ――ずっと側にいて。



 同じ言葉を、ふたりは同時に口にした。



 ハルキの死はそれから二月後の事だった。二ヶ月の間に家族がそれぞれ予定された運命を受け入れて、静かにハルキは見送られていった。

 兄の死は、サヨの心の一部分まで彼岸に連れて行ってしまったように感じた。それまで苦しんできた激情が、綺麗に消えてしまったのだ。後に残ったのはただの愛しさだけ。


 理由はわかっている。ハルキが、死の瞬間までサヨ意外を愛さなかったからだ。彼の心は、心だけはずっと自分の物だとわかっているから、悲しくても寂しくても穏やかでいられる。

 もう彼が誰かに奪われる事はない。彼の愛は自分だけのものなのだ。



「お花屋さんって凄いねえ。冬でもいつでもお花があって。あ、凄いのはお花屋さんもだけど、花農家さんもかあ」


 ハルキとの約束を守って、仏壇にはサヨが花を生けている。その約束には後追いしないで欲しいとか、両親のことを頼んだとか、色んな意味が含まれているのだろう。

 今日は水仙を見かけたのでそれを買ってきた。通っていた時期は違うが、ふたりが通った中学校の校章になっていた花だ。花壇にずらりと並んでいた様を思い出し、懐かしくなって注文した。


 サヨの中には、懐かしい過去が積み重なっていた。けれど、未来は何も見えない。だから、敢えて未来のことを口にしてみせる。


「私、ずっとこの家にいるよ。兄さんに、仏壇に花を飾って欲しいって頼まれたから」


「サヨ……」


 サヨの酷く静かな言葉に何かを感じ取ったのだろうか。父がサヨの頭を抱き寄せる。兄とは違うその胸に頭を預けながら、サヨはかつてのハルキのように、この生がいつまで続くのだろうかと考えていた。

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