サヨとハルキ 2
「なんて、答えたの?」
強張った顔の兄が掠れた声で問いかける。彼がショックを受けていることに喜ぶ自分がいるのが心底嫌だった。そして自分の別の部分は、気に掛けられて喜ぶのは当たり前だと声高に主張する。心がいくつにも引き裂かれて、それぞれ別のことを叫んでいた。
「『好きな人がいるから』って断ったよ……」
ハルキの顔が更に固まった。ふらりと彼の胸に倒れるように飛び込んで、その胸でサヨはぼろぼろと涙をこぼした。
「……やっぱり駄目……私は兄さんが好きだよ。小さい頃からずっと変わらないの。おかしいよね、どうしたらいいの!?」
「サヨ……」
サヨより頭ひとつ分背の高い兄。彼は既に体も大人になっていて、以前にこうして抱きしめあった時とは何もかもが違った。その腕が、息が出来なくなるほどきつく抱きしめてくる。
「悪いのは僕だよ。僕を恨んでいい。……もっと早く、サヨを突き放すべきだった。苦しくても側にいたいなんて甘えてないで、離れるべきだったんだ。サヨをそんなに苦しませるくらいなら、僕がいなくなればよかった」
「……何、言ってるの?」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、兄の口にした不穏な言葉にサヨは思わず顔を上げた。
「それ、逃げてるだけじゃないの? 遠くに行かないって言ったじゃない!」
「地方の支社に配属されるように、会社には願い出るよ。僕たちは離れていた方がいいんだ」
今まで見た中で、ハルキは一番苦しそうだった。やはり彼も同じ苦しみを抱えていたのだと悟りながらも、自分から離れようとしている事に耐えきれずに叫ぶ。
「遠くに行かないって言ったじゃない! 約束破るの!? 嘘つき!」
「僕は――嘘つきだよ。小さい頃からサヨの事がずっと好きで、他の子なんか目に入らなかった、ただの妹じゃなくて女の子として好きで、恋人に出来たらどんなに良いだろうって思ってた。――なんてね。これも、全部嘘」
苦しげに眉を寄せた兄の血を吐くような吐露に、サヨは言葉を失った。
嘘つきが「これは嘘」と言ったら、それはただの裏返しではないか。
抱きしめられているのに、体が急速に冷えていく。力の抜けた体を抱き寄せたまま、ハルキがサヨをソファに座らせてくれた。そのまま一度離れた兄は、サヨのマグカップにホットミルクを作ってきてテーブルに置く。
「……これ飲んで、自分の部屋に行きなさい。お父さんとお母さんが帰ってくる頃には、腫れた目を元に戻しておくこと。いいね?」
サヨが何も言えずにいる間に、ハルキはリビングから出て行った。
もう、何を言ってもきっと彼には届かない。ハルキは離別を選んでしまった。
震える手でマグカップに手を伸ばす。カップは温かく、それを包み込むように持ってしばらく熱を感じていた。
やっと口を付けられたのはミルクの表面に膜が張ってからで、はちみつの入ったホットミルクは懐かしい味がした。
ふたり並んで笑い合いながらホットミルクを飲んでいた頃には戻れない。
「今飲むには、甘すぎるよ……」
幼い頃に馴染んだ味は、成長した今となっては少し口に合わない。
ハルキが入社したそれなりに名の通った商社は、三ヶ月の研修の後に正式な配属が決まる。家族の中ではサヨだけが事前に、ハルキが地方へ配属されるのだと気付いていた。案の定、九州の支店に配属になったハルキは、家を離れていった。
両親は「これが親離れか」と感慨深げだったが、サヨはそうでないことを知っている。彼は、ただサヨという苦しみから逃げたのだ。
サヨは大学に入ってから告白された相手と適当に付き合ってみたが、一週間と持たなかった。相手の無神経さ、馴れ馴れしさ、全てが「彼氏」になった途端から変わって、嫌悪感ばかりが募る。三人目を振ってから、もう安易に誰かと付き合うことはやめようと心に誓った。
ハルキにも彼女が出来たらしいという話は聞いた。人当たりの良い兄のことだから、表面上はうまくやるかもしれない。ただ、女は時に恐ろしいくらい勘が鋭いものだから、ハルキの心が実は自分に向けられてはいないと気付いてしまうだろう。
『兄さんの彼女、どんな人? 写真ある?』
それまで仲が良かったのに、いきなり疎遠になるのは何かがあったと家族に教えるようなものだ。だから、もし両親に見られても当たり障りのないことをメッセージアプリで適当に喋ることもあった。
普通の妹が、普通の兄にするような話。単位のうまい取り方についての質問とか、彼氏の愚痴。そんな意味もない話題だけがアプリの上にはポンポンと並んでいた。
『彼女ね、振られちゃった』
泣き顔のスタンプが送られてくる。それを冷たい目で見て、サヨは少し返事に悩んだ。
『兄さんを振るなんて見る目ないね』
『どうせすぐ東京に帰るんでしょうって言われてさ』
ああ、なるほど。確かに、ハルキは転勤になる可能性が高い。これからも地方を転々とするかもしれないし、相手からしたら実家のある東京に戻りたがっているようにも見えたのかもしれない。
そういう気持ちでいたら、確かにハルキと付き合うのは殊更に辛いだろう。心ここにあらずという顔をすることが多い恋人は、不安要素だらけだ。
それに比べて自分は、お互いどこにいようとも繋がりが切れることはない。――血の繋がった妹だから。
その事実は、暗い優越感と悲嘆を同時にサヨの心に投げかけた。
ハルキは帰省を最小限しかしなかった。交通費がかなり掛かるというのがその理由で、その分社会人になってからは実家宛にお中元もお歳暮も贈ってくる。
「最初のうちくらいは、少しばかり援助してやろうって言ったんだけどなあ」
「ハルキはしっかりしすぎよね。悪いことではないけど」
兄の言葉をそのまま信じている両親は、クラフトビールのセットを開けながら少し寂しそうに話し合っていた。
「その分私がずっと家にいるよ」
ソファに座る両親に後ろから抱きついて言った紗代の言葉は、嘘偽りのない本心だ。
「そうか、サヨは家にいるかー。パパと結婚する?」
「しなーい」
きゃらきゃらと声を上げて笑えば、両親も目元を和ませた。
「昔はねー、お兄ちゃんと結婚するーって言ってたわよね」
「そうだっけ?」
ずっと、ずっと、親には本心を見せてこられなかった。十年以上磨かれた演技は、ハルキへの想いもなかったことにしてみせる。とぼけたサヨの言葉に、母がピルスナーのグラスを傾けながらくすくすと笑った。
そして、ハルキが倒れたという連絡が入ったのは、彼が家を出て二年目の秋のことだった。
家から空港まで一時間、そして飛行機で更に一時間半。空港からはタクシーで病院に向かい、その間両親とサヨはほとんど会話が出来なかった。詳しい病名は病院で直接医師から、という説明が、悪い予感しかさせないのだ。
病室のベッドに横たわるハルキを見た瞬間、三人は息を呑むことしか出来なかった。
点滴の繋がった腕にはいくつもの痣があり、ハルキ自身の顔色も悪かった。
「お父さん、お母さん、サヨ……。遠くからわざわざごめんね」
何より、ハルキの表情が三人を困惑させた。緊急入院になるほどの病状のはずなのに、彼からは戸惑いも焦りも感じられないのだ。ただ当たり前のように静かに微笑む兄からは、不吉さしか感じ取れない。
急性骨髄性白血病。それがハルキの病名だった。
「大丈夫、きっと治るわよ。ドナーが見つかるのは運かもしれないけど、適切に治療を受ければ」
「治療はしないよ」
母の言葉をやんわりと遮ったハルキの言葉に、嫌な予感はこれだったのかとサヨは直感した。あの目は、良くない。全てを諦めた目だ。
それはサヨが一度見たことがある表情で、井上に告白されたと告げてから、ハルキが別離を決心する時に見せたものと同じだった。
「治療をしない? どうなるかわかってるのか?」
「わかってるよ。免疫が機能しないから、簡単な感染症でも重症化する。その治療すらしなかったら、あっけなく死ぬね」
「ハルキ、パパはいきなりおまえにそんなことを言われても受け入れられない。ママだって、サヨだってそうだろう。……治療を受けなさい」
「実はだいぶ前から、体調がおかしいことに気付いてたんだ。だから、僕は自分のこの先を受け入れてる。お父さんたちには……うん、ごめん、突然のことだから受け入れられないのは当然だよね」
狼狽する父と対照的に、ハルキは恐ろしく落ち着いていた。サヨは叫びだしそうになるのを堪えて口を押さえているのが精一杯で、母は血の気の引いた顔でベッド脇のパイプ椅子に座っている。ハルキの奇妙に透き通った視線を受け止めて立っているのは、父ひとりだった。
「先生と話をしてくる」
「治療には本人の同意が必要なんだ。僕が拒否している以上、治療は行われない」
なんでハルキがそんなにすらすらと言葉を発していられるのかが、サヨには理解できなかった。父が苦しげに顔を歪ませる。それを見て、ハルキが父から視線を逸らし、目を閉じた。
「生きてるのが苦しくなったのは、いつからかな……周りが『こうだろう』って思ってる僕を演じてるのが辛くて辛くて。でも、理想の息子でいたかったし、自慢の兄でいたかった」
「そんな勝手な期待は捨てていいから、生きていて欲しいのよ!」
母がハルキに縋る。ハルキは僅かに口を閉ざした後、言葉を続けた。
「無理なんだよ。僕が僕の望む様に生きることは」
サヨは、目の前が真っ暗になるという感覚を味わっていた。ハルキの絶望が痛いほど伝わってくる。それはサヨの中にも存在していたもので、ふたりが決して選ぶことは出来ない道なのだから。
「パパ、ママ、一回外に出よう? 先生にも相談した方がいいよ……」
声を絞り出してそう言えたのがやっとだった。とにかくここにはいてはいけないと思ったのだ。ハルキは既に心を決めてしまっている。両親の説得では彼の決意は覆せない。それを、サヨは誰よりもよく知っているのだ。
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