サヨとハルキ 1

 四歳年上の兄は、物心ついたときからサヨをとても可愛がってくれた。

「何かというと抱っこしたがって、凄く危なっかしかったんだから」

 小学生くらいになるとよく母が笑ってそう言っていたが、その頃もよく兄のハルキはサヨを抱えて歩いていた。違う点は危なっかしさが消えたというところだろう。

「Daddy is back! うーん、サヨー、今日も可愛いねー。大きくなったらパパと結婚する?」

 父は毎日帰宅するとサヨとハルキをハグして、オーバーすぎるほどの愛情表現をした。父の健一郎はイタリア系アメリカ人の母親を持ち、その血の影響なのか日本人ではあまりしないタイプのコミュニケーションが多い。顔も彫りが深くて色素は薄く、父に似てサヨとハルキも目の色が薄かった。若い頃はモテて凄かったのよと母は笑っていたが、今は子煩悩で適当なことを言うことが多い。ラテン系の血のせいか、単に個人的な資質なのか、キザで明るい父は子どもたちからも大いに懐かれていた。ただし、この帰宅時の恒例行事だけは別なのだ。

「やだー、おにいちゃんと結婚するもんー」

 夜になって少し髭の伸びた顔でざりざりと頬ずりされて、サヨは毎日嫌がって父の顔を押しのけていた。パパは嫌いじゃない。でもヒゲジョリタイムは嫌なのだ。

「パパ、髭痛いよ」

 サヨの次に頬ずりの被害に遭ったハルキが顔をしかめて父の顔を押す。父は笑ってふたりを解放してから、大げさにしょんぼりと肩を落としてみせた。

「昔はサヨも『パパと結婚する』って言ってくれたのになあ。ハルキに取られちゃったよ。よよよよ……」

「えっ、それいつの話?」

 ハルキが驚いて父に尋ねた。父は顎に手を当てて深く考えているようなポーズを取って、わざと重々しく言う。

「二歳くらいの時」

「パパ、記憶改竄してない? それか、『パパと結婚する?』って訊いて『すりゅー』とか誘導尋問しなかった?」

 サヨを背中に庇いつつ、ハルキが真顔で父に尋ねる。まだ五年生なのにハルキは大人のような言葉を話し、賢くて優しく、サヨにとっては自慢の兄だった。

「そうだったかもなー」

 父はのらりくらりとしてハルキの追及をかわす。

「パパのうそつきー。私はおにいちゃんが大好きだもん、そんなこと言わないもん!」

 後ろから兄に抱きついて父に抗議すると、兄が照れたように笑った。

「僕もサヨの事が大好きだよ」

 そうして、頭を撫でられる。父の手よりも母の手よりも、兄の手が一番心地よくてサヨは目を細めた。

 

 その頃は誰にはばかることもなく「大好き」とありのままの気持ちを言えて、周囲もそれを受け入れていられる時期だった。ふたりが幼すぎたから。思えば、この頃がふたりにとっては一番幸せだったのかもしれない。

  

 中学生になった頃から、ハルキはサヨの「大好き」にただ笑い返すだけになった。

 口には出さなくても、兄の目が、頭を撫でる手が、今までと変わらぬ「大好き」を伝えてくる。サヨにはそれを感じ取れた。だから幼さを装ったままで兄に抱きつき、大好きと言い続けた。仲が良いわねと親たちには笑われ、友人からはブラコンと呆れられてもサヨはただ笑ってそれを受け流し、ハルキに向かって好きと伝え続ける。それが、たとえ冗談に紛れさせようとも偽りのない本心だったから。

 抱きついたときに抱きしめ返してくれるハルキの腕。それがただ優しいだけではなくて、時折本人同士にしかわからない程度に力を込められていることがあった。すぐ腕は離されるけども、互いに感じ取った動悸だけは嘘をつけない。

 親の目のない場所で言葉もなく見つめ合うときだけ、剥き出しの感情が視線になって相手に向けられる。

 

 

「……おやすみ、サヨ」

 兄が悲しい顔で微笑む理由はわかっている。高校生の兄と中学生の妹が、家族の情を超えた男女の愛を育むのは倫理にもとるのだ。

 これ以上好きになってはいけない。理性がそう言うけども、感情は理性の言うことなど聞いてくれなくて。

 リビングから父と母の笑い声が聞こえる。それを気にしながら、正面からハルキに抱きついてその肩に頭をもたれかけさせる。

「まだ勉強するの?」

「するよ。サヨは早く寝ないと。僕と違って朝練があるだろう?」

「大変だね、受験生」

 たわいない会話をしながら、至近距離でハルキを見上げる。いつものように微笑んでいるかと思ったが、兄の顔は真顔だった。

「あまり遠くの大学には行きたくないからね」

「そうだよ、遠くに行っちゃ嫌だからね。頑張って、お兄ちゃ……」

 最後まで言い切れなかったのは、唇を柔らかなもので塞がれたからだ。それはたった一瞬で、キスだと気付いたときには既にハルキの顔は離れていた。

「遠くに行かないから。約束する」

「……うん、約束だよ」

「おやすみ」

 今度こそ笑ってハルキがやんわりとサヨの体を自分から離す。ふたり同時にくるりと方向を変えて、それぞれの部屋に入っていった。


 ドアを閉めてから、サヨはその場に崩れ落ちるように座り込んでいた。

「どうしよう……」

 小さく呟く声が震える。兄にキスをされたのは決して嫌ではなかった。むしろ、それを喜んでいる自分が怖い。


 決して結ばれないのに。誰からも認められないのに。――誰も幸せになりはしないのに。

 

 よろよろとベッドに歩いて行って、サヨは枕に顔を埋めた。布団を被って漏れる嗚咽を枕に吸わせて、今までもやもやと抱えていた苦しみが棘になって心をズタズタに切り裂いたのを感じていた。

 指が白くなるほどシーツを握りしめて、隣の部屋できっと同じように泣いている兄に向かって呟く。

「それでも、好きだよ……お兄ちゃん」



 その日以降、サヨは急に大人ぶってハルキのことを兄さんと呼び始めた。父と母は態度の変わったサヨに驚いていたが、少し唇を尖らせてでっち上げた理由を説明してみせると納得していた。

「だってさー、アオイちゃんが『サヨっちはいつもお兄ちゃんお兄ちゃんって子供っぽい』とか言うんだもんー」

「呼び方変えた位じゃ何も変わらないんじゃない?」

「変わる! もうお子ちゃまなんて言わせない!」

 カレーのついたスペアリブを囓りながら、ハルキが苦笑している。これは演技だ。一番近くでずっとハルキを見続けていたサヨはわかる。

 器用なハルキは時々料理をすることがあったが、特にストレスを溜めると母の代わりに夕食を作るときがあった。無心に料理の手順だけ考えて作業するとストレス解消になるらしい。

 フライパンでスペアリブに焦げ目がつくまで焼いてから、具材と一緒に圧力鍋で煮込んだカレーはサヨとハルキの好物だ。骨を持ってかぶり付くときにとにかく肉を食べている感が凄くて、中高生でこれが嫌いな人間なんていないとサヨは思っている。しかもハルキは母より料理がうまいのだ。

 夕方サヨが部活を終えて帰宅したとき、「勉強ばかりしてると頭おかしくなりそうだよ」と兄はぼやいてカレーに入れる野菜を切っていたが、ストレスの原因は昨夜のことだろう。ハルキも、とにかく気を紛らわせたいのだ。

 一見和やかな家族の夕食の光景だったけども、サヨとハルキにとっては口裏合わせの場だった。

 そして、それからサヨはハルキに大好きと言うことも抱きつくこともやめた。けれど、それは表に出していた物を隠しただけのことで、ふたりが無言で見つめ合う時間は増えた。

 


 ハルキは家から通える大学に合格し、ふたりは表面上仲の良い兄妹であり続けた。互いに想い合っていることを知りながらも、決して越えてはいけない一線を越えることなく、心はじりじりと灼かれている。激しい恋慕と苦悩を同時に抱えたせいか、周りよりもサヨは少し大人びるのが早かった。

 

 それは、サヨが高校三年の冬のことだった。クリスマスを間近に控えて浮き立った街とは真逆にとてつもなく重い気持ちを抱えて帰宅すると、夏に無事内定を取った兄がリビングにいた。その姿を見て、サヨは思わず持っていたバッグを落としてしまった。

「サヨ、何かあった?」

 サヨが暗い顔をしていることに気付いて、ハルキが慌ててリビングのドアまで飛んでくる。彼は幼い頃からずっと、優しい兄だ。だからこそ、サヨは苦しい。

「告白されたの。井上くんに」

 サヨが絞り出した声に、ハルキがはっと息を呑んだ。井上は小中高と同じ学校に通ったサヨの幼馴染みだ。幼い頃は殴り合いの喧嘩をしたこともあるが、それなりに落ち着く年頃になってからはずっと仲良くしている。

 ハルキもサヨも、日本人離れして整った顔立ちで幼い頃から異性からの人気は高かった。ただ、それなりに近しくなれば自分が眼中に入れられていないことは気付くのだろう。告白されること自体はサヨの場合はそれほど多くなかった。誰にでも優しい態度を取るハルキはもっと告白されていたはずだが、全て断っていたことをサヨは知っている。

 だからこそ、付き合いの長い井上からの告白はサヨにとっては殊更に重かった。彼はハルキべったりだった昔のサヨを知っているし、サヨの気持ちが自分に向いていないことも理解していたはずだ。それでも彼を突き動かしたのは、この先サヨと自分の道が分かたれるとわかっていたからだろう。今繋ぎ止められなければ、この先の道が交わることはない。模試の成績を見せ合う仲のふたりは、目指す学部も志望校も全く被っていないからだ。 

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