断章・2 

菊江と和豊 4


 慌ただしく家を出てから、人目を避けるように和豊と菊江は歩き続けた。山中に炭焼き小屋を見つけてそこに忍び込んだのは、二日後のことだ。


 ひとまずこれで一息つけると和豊は僅かに安堵したが、翌朝異変に気づいたときには声を上げることもできなかった。

 黒々としていた菊江の髪は、一晩で全て白く変わり果てていたのだ。

 家族で撮った一枚の写真を抱きしめて、生気の抜けた目で菊江は横たわっていた。

 束の間の安息を得たことが、彼女の気力を奪っていったのかもしれなかった。


 菊江の母は、菊江が十三歳の時に亡くなったという。彼女の目の前で、住処を焼いた人間に殺されたのだ。それは同胞の間では秘密でも何でもなく、当たり前に共有された過去だった。


 物心つかぬ頃も含めての十三年しか一緒でなかった母。そして、十年間母と呼んで共に暮らしたフサ子。菊江の中ではどちらも大事な本当の母だったのだろう。そのフサ子を亡くしてから菊江が不安定になっていたのを和豊は気づいていたが、自分も紗代もいることだし、徐々に菊江も復調するだろうと思っていた。

 まさかこんな形で日常そのものが崩壊することになるとは思っていなかった。思えるはずがなかった。

 

 すすり泣きながら紗代の名を呼ぶ菊江は、水を飲むことすらできずに見る間に弱り果てていった。

 貴種の老いは急激に訪れる。和豊も身近な者でそれを知っていたが、菊江の衰弱はそれとは違う。明らかに不吉さを漂わせたものだった。

 菊江が眠っている間に山で食べられるものを採って戻ってくると、和豊がいない間に目を覚ましていた菊江が、ろくに力の入らない体を引きずって小屋の入り口で彼を待っていた。


「和ちゃん、なんで置いていったの……もう帰ってこないかと思ったよ」


 真っ赤に泣き腫らした目の妻を見て、慌てて和豊は彼女を抱きしめた。


「ごめん、食べるものを探しに行ってただけだよ。ほら、桑の実があった」


「ひとりにしないで。ひとりは、いや」


 甘い実を見せてみるが、力なく首を振るばかりで彼女はそれを口にしようとはしない。

 泣き疲れて眠りに落ちた菊江の顔は頬がげっそりとこけ、目の周りには色濃い隈が浮かんでいた。それが死相と言われるものだとわかってはいたが、認めたくはなかった。

 

 流す涙も尽きて、ただ眠ることしかできなくなった妻を、和豊は抱きしめ続けた。


「ひとりにしないでって、言ったのは菊江さんじゃないか……一緒に外に出ようって、菊江さんが言ったんじゃないか……」


 元々菊江は華奢で軽い体だった。今では、更に軽くなっていたのに。

 不意に、その体が重く感じた。

 命が抜けてしまって、腕の中に残っているのがただの抜け殻なのだと、物でしかないのだと、その一瞬でわかってしまった。


「どうして、俺のことは置いていくんだよ……」


 不自由でも、苦しくても、彼女が望んだ壁の外で一緒に生きていきたかった。だから、彼女とふたりで研究所から逃げ出した。

 子供の頃に山でひっそりと暮らしていた頃の話を、菊江はよく語っていた。それに憧れもした。


 けれど、ろくな道具もなく、身ひとつに近い状態で山の中で生きていくことは思っていた以上に難しくて、山を下りたところでフサ子に出会った。

 何件も家があった中で、偶然にもあの家の戸を叩いたことは、一生の中で一番の幸運だっただろう。それからの十年はただ幸せだった。愛する人を妻にして、母と呼べる人がいて、行き詰まった種としてもう望めないだろうと思われていた子供にも恵まれた。


 これ以上は、もう何も望んでいない。生きることさえも。


「愛してるよ」


 温もりがまだ残る、ひび割れた唇に最後のキスをして、和豊は小屋に残されていた小刀を取り上げた。



 身元不明の男女の遺体が発見されたのは、それから数ヶ月後のことだった。

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