第7話
いつもならば寝付いているはずの深夜に、陽樹は寝付けずにいた。
紗代と想いを交わし合ったけれども、命の長さの違いという問題を思うと、胸に重石を詰めたような気持ちになるのだ。
寝酒でも、と思って部屋を出てキッチンに向かって暗い廊下を歩いていると、所長室のドアの隙間から光が漏れていることに気づいた。
日付はとうに変わっている。こんな遅くまで永井が仕事をしているということが驚きだった。
もしかすると、居眠りをしてしまっているのかもしれないと思い、陽樹は控えめにドアをノックした。すぐに中からは永井の声が返ってきて、彼が起きていることがわかる。
「永井くん、こんな時間まで仕事してるのかい? 忙しいとは言ってたけど、これほどなんて思ってなかったよ」
「もう少し、今の考えがまとまったら、区切りをつけて寝る。心配させて悪いな」
永井の顔には疲労の色が濃い。そういえば、同じ建物の中にいるのに以前よりも永井を見かける頻度が下がっていたことに陽樹は気づいた。それほどまでに根を詰めていることに気づいてやれなかったことが、友人として悔しい。
「コーヒーを淹れてこようか? お腹は空いてない?」
「小腹が空いてたんだ、助かる」
永井が陽樹に頼ってくるのは比較的珍しい。それほど疲れているのだろう。
陽樹はキッチンでカフェオレを淹れ、残っていたパンをトースターに入れた。キツネ色に焼き上がったトーストを食べやすいようにスティック状に切って、爽やかな酸味のオレンジマーマレードに蜂蜜を少し混ぜて塗る。
それを持って所長室に戻ると、永井は陽樹に礼を言って夜食にさっそく齧り付き始めた。いつもよりも若干甘めのトーストが気に入ったのか、険しかった顔を緩めてサクサクという音を立てながら無言で食べきり、満足げにため息をついた。
「頭を使うと甘いものが効くな。ありがとう」
「僕も寝付けなくて、何か飲もうかと思って起きてきたところなんだ。ついでだったから気にしなくていいよ。……永井くん、前から気になってたんだけども、僕はここがそれほど仕事量が必要な職場には思えないんだ。なのに、君はそんなに根を詰めて疲れた顔をしてまで仕事をしてる。もしかして、僕が知らないことを抱え込んでるんじゃないのかい?」
陽樹の指摘に、永井は目を伏せてカフェオレのカップに視線を落とす。僅かなためらいの後で、温かいカフェオレを一口飲んで彼は語り出した。
「……俺は、本来ならやらなくてもいい仕事ばかりしてるからな。貴種のデータを取り、引き続き研究し続けることが有意であると示し続けることが、俺の役目だ。それをおろそかにするわけにはいかない。
実際、この研究所の存続は危うい。紗代ひとりから得られるデータの有用性なんて、ほとんど価値がないからな。それに比べて予算は食う。中河内にとってはお荷物だろう。今の会長は貴種に同情的だが、高齢だ。トップが替わったら、ここはなくなる可能性が高い。可能性どころか、ほぼ確定した未来の話だろう。
こんな施設はなくてもいいと、俺も最初は思ったんだ。おまえだってそう思うだろう?」
「それは……そうだね。彼女が自由になれたら良いと僕も思っている」
「だが、現実的に考えてみろ。どれだけポテンシャルが高かろうと、あいつをいきなり世間に放り出すのは残酷なことじゃないのか? 親から引き離して、何十年も社会から隔離して、生き方を学習する機会も与えずに育ててきたあいつを。少なくとも今の世の中で『生きて』行くだけでも、保護者が必要な程度にはあれは精神的に未熟だと俺は思う。
陳腐な言い方かもしれないが、翼を切られた鳥が安全に生きていくための鳥籠はなくてはならないものだろう」
永井の言うことはもっともだと陽樹にも思えた。外出をするのも、安全な戻る場所があってこそのことだ。
「永井くんは、彼女をどうしたい?」
「せめて、もう少し人らしい生活をさせてやりたいとは思ってる」
「自分が保護者になって、彼女を外の世界で暮らさせる事は考えなかったの?」
「俺自身が? ……それは考えたことがないな。それに、俺の後任が同じようにできないなら、あいつには却って酷なことになる」
「……だから、お互いに情が移らないようにわざと距離を取っていたのかい? 永井くんらしいな」
確かに、永井も陽樹も、いつまでここにいられるかはよくわからないのだ。まして永井は望まぬ左遷だっただろうし、本来の仕事に戻りたいと思っていてもおかしくない。自分の行動だけではなくて、研究所の存続を前提とした上で後任のことまで考えるのは彼らしかった。
「それなら、僕が……」
自分が保護者になって、紗代と外で暮らせばいいのではないか。自分も職員には変わりないのだから、
思わずそう考えて呟くと、永井がキッと眉を上げた。
「今俺が言ったことを聞いていなかったのか? 俺の後任っていうのはひとりだけを指すんじゃない。紗代が生きている間、あいつに関わるここの人間という意味だ」
「ごめん、聞いてたよ。どう足掻いたって、紗代が種として長命で、僕ら職員の方が代替わりするのは当然のことで覆せない。実は僕もそれを悩んでた」
「それが解決できれば、どれだけいいだろうな。それと、俺が一番危惧しているのは、ここの閉鎖の口実に、紗代を『処分』されることだ」
「処分……?」
永井の一言が雷のように陽樹を打った。今彼は、なんと恐ろしいことを言ったのだろうか。つまり、長命の研究でも行き詰まっている以上、ただのお荷物である紗代は、殺される可能性もあるということか。
蒼白になった陽樹を痛ましげに見ながら、永井は陽樹が見たこともない険しい顔で神経質に机を指で叩いた。
「実際、おまえが来るまでの二年間、医師もいなかったことを考えてみろ。医師も看護師もいない、ここは本来の役割を果たさないただの金食い虫だったんだぞ。直接ここに来る中河内製薬の担当者や中河内会長は、もはや数少ない理解者なんだ。閉鎖の話は俺の知る限り何度も上がっていて、その度に会長やふざけた方の中河内が必死にここを――紗代を守ってきた。
だが、次の会長になったら、新しい手を打てない限りここは終わりだ。
たったひとりの異種族のために、莫大な金を使う気が次期会長にはない。あいつは、紗代のことを実験動物みたいに思ってるんだ。俺も処分なんて言葉を直接聞いたときには、背筋が凍った」
「永井くん、そんな話、どうして僕に今まで黙ってたんだ」
思わず低い声が出た。それは永井がひとりで抱えるにはあまりに重い話ではないのか。文殊の知恵と言われる三人に足りなくとも、陽樹もこのラボのスタッフだ。そして、友人としても彼が悩みを抱えているのなら、尚更相談して欲しかった。
けれど、責める響きを帯びた陽樹の言葉にも、永井は表情を変えることはない。
「これは、所長である俺の仕事だ。俺がどうにかするべきことだと思っていた。おまえの仕事は職員と貴種の健康管理。俺の仕事はこの研究所全体の管理だ」
きっぱりと言い切る長年の友人の決意を秘めた表情を見ながら、陽樹は唇を噛んだ。
「ああ、君って、そういう融通がきかないところあるよね……。いや、これは責めてるわけじゃないよ。僕ももっとここの在り方について疑問を持つべきだった。自分の仕事の範囲じゃないって、確かにどこかで思ってたかもしれない。
話してくれてありがとう。僕も打開策がないか考えてみる」
平静を装いはしたが、自分の部屋を出てきたときよりも余程重い気持ちになりながら、陽樹は所長室を辞した。
紗代にそんな危機が迫っていることなど、思ってもいなかった。
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