第6話

 気楽なハイキングどころではない。まさか最後には雨の中を全力で走ることになるなんて思ってもいなかった。山道は登りより下りが疲れると言われていたことが今更実感となって蘇ってくる。太腿は張り詰め、パンパンになっているだろう。


「ははは……なんて幕切れだろう。こんなに泥まみれになって走ったのは初めてだ」


 だがそれが無性におかしい。まだ息を切らしながら陽樹が笑い続けていると、笑いを収めた紗代が陽樹の胸に頭を押し当てたままでぽつりと呟いた。


「生きてる」


 上下する陽樹の胸に手を当てて、紗代は目を閉じる。


「ずぶ濡れで、息が苦しくて胸が痛いのに、今までで一番生きてるって感じがする」


「そうだね……逆説的だけど、苦しいからこそ生を実感できてるんだろうな」


「苦しいから、生を実感できてる……」


 陽樹の言葉を噛みしめるように繰り返して、紗代は陽樹の鼓動を確かめるようにしばらく胸の上で押し黙った。


「……そういえば、なんで手を繋いでたの?」


 一分ほど経った頃だろうか、未だに繋いだままの片手を紗代が上げてみせた。陽樹も無意識にやってしまったことなので首を傾げるしかない。


「なんでだろう? 君の手を離しちゃいけないって思ったからかな。はぐれたら嫌だから」


 何気ないはずの言葉に、紗代がぐっと唇を噛みしめた。繋いだ手に力を込め、仰向けになったままの陽樹に顔を寄せてくる。

 紗代から重ねてきた唇は、雨に濡れたせいか冷たかった。けれど、合わさった場所から甘いさざ波が全身に広がっていく。


 ついばむようなキスを互いに続けた。それだけなのに心地よくて、ずっとこうして戯れていたくなる。


「――紗代」


 甘く濡れた声で陽樹が名を呼ぶと、金色の蕩けた目が陽樹をみつめた。もう一度、軽く音を立ててキスして、陽樹は紗代の頭を撫で、体を起こす。


「風邪をひくよ、中に入ろう」


「もっと、こうしていたい」


 それは先日陽樹のキスで硬直していたとは思えない言葉だった。何かが紗代の中で変わったことを知って、陽樹の胸にじわりと熱いものが広がっていった。



 玄関から濡れた足跡が続く。陽樹から離れようとしない紗代の手を引いて、陽樹は自室のドアを開けた。絞れるほどに濡れた服から、立ち止まったところに小さな水たまりができてしまう。だからといってさすがに玄関で裸になるわけにはいかない。

 古い建物のせいなのか、個室の中とはいえバスルームには脱衣所が付いている。紗代を脱衣所に押し込み、陽樹は紗代に先にシャワーを浴びるように促した。


「私より、陽樹が風邪をひくんじゃない?」


「そこまでやわじゃないよ。ここには僕の服しか無いけど、君が着られそうなものを探して置くから」


「……わかった」


「僕のことは気にしないでいいから、ちゃんと温まってから出るんだよ。無精しないで髪も洗って、全部乾かしてから出ておいで」


「もう、お母さんみたいなんだから」


 いつかと同じように言われたが、今度は明らかに冗談めいている。笑い返して陽樹は脱衣所のドアを閉めた。



 透けない色のTシャツとトレーニング用のハーフパンツをそっと脱衣所のカゴに入れて置いたが、やがて明らかにサイズが合わないメンズウエアに四苦八苦しながら紗代がそこから出てきた。それと交代に陽樹が風呂に入る。


 勢いよく出る熱い湯が手足に心地よかった。思ったよりも冷えていたらしい。

 充分に温まってからいつもよりもラフな服に着替えて出ると、一度部屋に戻って着替えたらしい紗代がリビングで座っていた。


「寒くないかい?」


  尋ねた陽樹に紗代は歩み寄ると、陽樹の胸の中心に手を当ててそっと頭を寄せた。玄関でしたように、陽樹の厚い胸板にぴたりと耳を当てる。


「生きてる。鼓動がある」


「生きてるよ。どうしたんだい、藪から棒に」


 紗代の行動の意味がわからずに陽樹が軽く笑って問いかけると、紗代は前触れもなくほろりと涙をこぼした。


「おかしいの。陽樹が生きて、目の前にいるんだって確認しただけで胸が苦しくて、涙が出る」


 胸にある紗代の手に自分の手を重ねてみる。一回り以上小さな手は指先が冷たかった。それを握って温めていると、ぽつりと紗代が話し始めた。


「……私は、誰かをずっと待ってた。でも、自分でも誰を待ってるのかわからなかった。わからなくて、ずっとずっと考えてた」


 陽樹は何も言わずに、ただ紗代を温めるために抱き寄せながら彼女の声に耳を傾けている。


「最初は両親がここに来るんじゃないかと自分が期待してるのかと思ってた。その内、私は仲間を待ってるんじゃないかって思うようになった。最後の貴種と言われるのが寂しくて、まだ見つかっていないだけの貴種が現れて、出会える日を待ってるんじゃないかと。

 本当は、陽樹に初めて会った瞬間に私が待っていた相手だってわかったの。……でもあなたは貴種じゃなかった。――私が待ってたのは、貴種じゃなかった。私の仲間じゃなかった。じゃあなんでこの人を待っていたんだろうって、あの日一晩中考えたの」


「そうか、きっとそれを悩むことは、君にとって大変なストレスだったんだよ。だからあんな熱を出したのか」


「それで知恵熱なんて、今思うと馬鹿らしいね。紙飛行機の折り方を指が覚えてたように、私のどこかが知らないうちに、いつかのあなたを覚えてた。出会った瞬間にわかったのに、私はそれを認めたくなかった。

 永井さんも陽樹も仕事でここにいるだけだから、ずっと一緒にはいられない。陽樹が貴種だったらいいのにって何度も思った。私は、もう誰かを失って見送るのは嫌だから。

 陽樹を好きになるのが怖かった。私より先に死ぬ誰かを愛したくなかった」


 陽樹を見上げる紗代は苦しげで、彼女の頬を涙が流れていた。そんな泣き顔すらも美しいが、陽樹の胸は締め付けられる。


「でも、苦しいから生きてるって実感できた。私は陽樹に会うまでは、生きてる実感がなかったの。陽樹が好きで苦しい。苦しいのは嫌だと思って怯えてたけど、苦しいのは悪いことばかりじゃないってさっき陽樹に言われて気づいた。

 ――苦しいくらい、陽樹のことが好き。苦しさごと全部、陽樹のことを愛してる」


 紗代が苦しむことを陽樹は恐れたはずなのに、紗代は自ら苦しみながら愛することを選んでいた。紗代に言わせてはいけないと思ったはずの言葉だったが、彼女の唇から紡がれたそれは、愛おしさに溢れていた。


「僕も好きだよ、紗代。君が苦しんでも僕を愛してくれたことが、僕は嬉しいんだ。酷い話だろう? 君を苦しませたくなかった。でも、僕も愛されたかった」


「酷くなんかない。私を見つけてくれて、側にいてくれて、誰かを好きになることを教えてくれたのはあなただから。私はひとりでずっと寂しかった。未来のことはわからないけど、あなたが来てからは寂しいなんてほとんど思わなくなって。今が、幸せ」


 互いの気持ちを通じ合わせて抱きしめ合うのは、とても不思議な感覚があった。確かな意思を持って自分の体に回される華奢な腕、首筋に触れる柔らかな髪の感触、そして、「陽樹が好き」と告げた声。


 この声を覚えている。この髪を、目を、肌を――。


 足元がふわふわとして、目が回るようだった。紗代のいろいろな部分に触れる度に、新鮮な驚きよりも慣れ親しんだどこか懐かしい気持ちに胸が締め付けられる。

 キスを重ねるごとに、胸の中に散らばっていた絵柄のわからないジグソーパズルが組み上がっていくようだ。


 愛おしい。

 愛おしい。

 愛おしい。

 ひとつの言葉が胸の中で渦を巻いて、陽樹の胸の中をを狂おしく塗りつぶしていった。


「君に初めて会ったとき、酷く冷たい手をしてた……。温めてあげたいと、あの時思ったんだ。君が凍えないように、ずっと抱きしめていたい」


「こうしてて、ずっと。私を離さないで。陽樹が貴種なら、どんなに良かったかなあ」


 紗代の静かな言葉の中に、哀切な願いが見えた。詮無いこととわかっているはずなのに、紗代が深いため息と共に叶わない望みを口に上げる。初めから叶うはずもない願いは、ただ悲しい。


「僕がもし貴種だったら、君の兄か弟――そうでなくとも、かなりの近親に生まれた事は間違いないだろうね。君が生まれた時点で、繁殖が可能な貴種は恐ろしく少なかったはずだよ」


「わかってる。そうしたら本当に兄妹だったかもしれない。兄妹だったらよかったかなあ。生まれたときからずっと一緒にいられたから」


「それもいいかもしれないけど、兄妹だったら、恋愛はできなかったろうね。兄妹じゃなくても、ずっと側にいるよ。僕の命の限り」


 優しく紗代の髪を撫でると、紗代が胸にすり寄ってくる。その愛おしい温かさを感じながら陽樹は目を閉じ、考えた。



 その自分の命は、どれだけ紗代の側にいることを許してくれるだろうか。口には出さなかったが、やはり紗代と同じ貴種として側にいられたら良かったのにと思う。自分がいなくなってから、紗代がどれほどの時間を生きるのかを考えると胸が締め付けられた。

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