第5話
山の中腹にある見晴台を目的地に定めて、陽樹はハイキングのルートを決めることを紗代に任せた。地図アプリはかなりの精度があって、中河内生化学研究所という文字を地図の上に見つけた紗代は不思議な気分になったようだ。この一般には内容を公にできない研究所が、堂々と地図に載っているのは微妙に納得いかないらしい。
「もっと、こういうものは秘密になっているのかと思った」
「確かに、中身は胡散臭いけどね。でもここは中河内製薬の会社概要にも載ってる、ちゃんとした施設だよ。逆に所在地も名称も明らかになってるから、中身を疑われない。木を隠すには森の中ってことかな」
複雑な表情をしている紗代にコーヒーを出しながら、陽樹は苦笑した。
陽樹の答えにふうんと気のない返事を返し、紗代は指を地図の上に滑らせながらコースの提案をする。それを一通り聞いて、陽樹は修正が必要な点を指摘した。
「ここの道から見晴台まではいいんだけど、この道路に出るまでこのスタート地点から道のないところを突っ切って行くのかい?」
「たかだか二キロくらいでしょ? 上を目指していけば着くんじゃない?」
「典型的に迷子になる人の考え方だなあ……。 意外に道のないところってまっすぐに進めないから。ここから迂回をして山道を通ってでも道らしいところを歩いた方がいいんじゃないかな」
「大丈夫よ。現在地に迷ったらGPSでなんとかなるはずだから。それだったら、突っ切った方が時間短縮になるし」
「パワフルだね……」
思わぬ紗代の脳筋発言に陽樹が驚いていると、短期間でタブレットを使いこなしてしまっている紗代は自信ありげな様子で頷いた。
「私が調べた限り、この程度の山なら問題ないと思うよ。だいたい、ここの道に至ってはストリートビューも入ってる。道に出たところから見晴台までシミュレーションもばっちりなんだから」
「ははは、僕より余程使いこなしてるね。わかった、ルートは君に任せるよ。永井くんはいつでもいいって言ってくれたけど、お弁当の準備もあるし明後日晴れたらってことでいいかな」
「明後日! どうしよう、ドキドキしてきた」
陽樹が知る限り、紗代がここから外に出たことはない。久し振りの外の世界に――それがただのハイキングだとしても――期待を隠しきれないのだろう。紗代はいつもより興奮した様子で頷いた。
ハイキングには両手を空けられるリュックがいいのだろうが、残念ながら陽樹はそういったものは持っていなかった。仕方なくふたつのバッグにわけて、一方にはおにぎりと簡単なおかずを入れ、もう一方には飲み物と菓子を詰めた。紗代とそれをひとつずつ持って、ラボを出発したのは朝九時のことだ。
車が通れる道路はラボの目の前で終わっており、行き止まりになっている。けれど、丈の短い草が生え、時折雑木林の混じる場所に紗代は躊躇なく踏み込んでいった。いつも紗代が飛行機を見上げている時間はちょうど林の中にいて空を見ることができなかったが、彼女はそれを気にしなかった。
片道五キロほどの行程だったが、紗代はかなりのハイペースだった。多少の心配はあったが陽樹もそれに着いていくことができて、ここにきてからトレーニングルームで体を鍛えていた自分を褒めたくなった。
見晴台へのラストスパートは長い階段だった。それを登り切って、眼前に広がった光景に紗代は声もなく立ち尽くした。
遠くの山は青く、近くの山は様々な濃さの緑色で覆われている。今し方歩いてきた曲がりくねった道路が続く先には、時折建物も見えた。そして、山の合間に見える鈍色の塊は湖だ。山の中とはいえ、変化に富んだ景色は紗代にとっては絶景といえるものだろう。平日である上に特に観光地でもないこの場所は、今日は貸し切りで景色を楽しめる最上の場所だった。
「綺麗だね……頑張って歩いてきた甲斐があったよ」
「本当に、凄く綺麗――私が何十年もいた場所の近くに、こんな綺麗な場所があったなんて」
紗代の声は酷く震えていた。彼女の目に涙が溜まっているのを見て、陽樹はそっと紗代の肩を抱き寄せる。紗代はおとなしく陽樹の胸に背を預けて、しばらく黙って景色を眺め続けた。
梅干しを入れたおにぎりと、おかずはシンプルな卵焼き、ウインナーとプチトマト、キュウリを詰めた竹輪という弁当を見て、紗代は明らかに驚いていた。普段の陽樹が作る料理のイメージとはかけ離れているからだろう。少なくとも、陽樹は今までウインナーをそのまま食卓に乗せたことはない。
「山で食べたら何でも美味しいだろうから、あえてシンプルなお弁当にしようと思って。昔を思い出してみたんだ。僕が子供の頃に遠足でどんなお弁当を持って行っていたかをね。母は忙しい人だったから、家でもあまり凝った料理を作る人ではなくてね。でも遠足で食べるお弁当は特別な味がしたことを覚えてるから、きっとこれが僕の思い出の味なんだろうなあ」
「でも、ミニトマトもキュウリも庭で育てたものでしょ? そこが陽樹らしいね」
いただきますと手を合わせてから、紗代は爪楊枝で竹輪を刺した。陽樹もおにぎりを片手に、ウインナーを口に放り込む。そのままでは少し濃く感じる味が、歩いた後にはちょうどいい。
ふたりが景色を楽しみながら弁当を食べ終わる頃、空の明るさが陰り始めた。遠くに暗い雲がかかり始めたのを見て、陽樹は眉を曇らせる。
「あれ、雨が降るとは天気予報で言ってなかったけど……ちょっと怪しいな」
「もう帰るの?」
名残惜しげな紗代の頭をなだめるように撫でて、陽樹は遠くに見える湖を指差した。
「雨が降ってきたらたまらないからね。残念だけど、そろそろ帰ろう。――今度はさ、あそこに見える湖に行こうか。確かあそこは昔一度行ったけど、遊覧船があるんだ。楽しいと思うよ」
「今度」
二度目があるとは思っていなかったのだろう。陽樹の言葉に驚いたように、紗代は同じ言葉を繰り返す。
「約束してくれる?」
「もちろん。永井くんにはもう許可はとってあるんだよ。紗代が行く気になったら、どこかへ連れて行ってもいいってね」
「私が行く気になったら? ……そっか、確かに私は、口に出して何かを望んでは来なかったかもしれない。外に好きなだけ出られるなんて、考えたこともなかったから。あー、どうしよう。いろいろ信じられなくて、なんだかふわふわする」
頬を紅潮させて、言葉通りにどこかぼんやりとしてしまった紗代を陽樹はきつく抱きしめた。これは夢ではなくて現実だと、腕に込めた力の強さで彼女にわかってもらいたかった。
「陽樹、ありがとう。夢みたい」
「夢じゃないよ。君がもっと人のいる場所に慣れたら、航空ショーとかも見に行こう。僕と一緒に」
「それなら、自衛隊の基地祭に行って輸送機が見たい」
「あはは、具体的だね。実感が湧いてきたかな。でもあれって人出が物凄いらしいから、普通の人でもくじけることがあるらしいよ。――さて、今日のところは僕たちの家に帰ろうか」
「私たちの家……そうだね、家に帰ろう」
陽樹の背に回した紗代の手が、陽樹のシャツをぎゅっと握りしめた。
湿気を含んだ少し冷たい風が吹き始めて、ふたりは帰路を歩む足を速めていた。山の端にかかっていた重い雲ははっきりと近づいてきていて、遠くで雷が鳴り始めたのだ。山の天気は変わりやすいという言葉は知っていたが、それを体験するのは陽樹は初めてだった。
雨が降り始めたのは、舗装された道路から行きに通った近道に踏み込んだ辺りだった。大粒の雨がアスファルトに落ちるボタボタという音を聞きながら、ふたりは小走りに雑木林に駆け込んだ。
林の中も雨がしのげるほどの木の密度はない。確実に近づいてくる雷に陽樹は焦り始めていた。ラボに辿り着いてから雷が通り過ぎればいいが、雨の勢いが強まって木の下で雨宿りをしているときに落雷に遭ったりしたら危険だ。
「紗代、急ごう!」
紗代を促して、彼女の手を取って走り出す。ここからは緩やかな下りが続くから、走りきれないということはないだろう。
勢いの強い雨粒が肩や背中を打つ。それに構うことなく、ふたりは走った。身体能力が人間より優れている紗代が本気で走れば、陽樹が追いつけないほどの速度で走れるはずだ。だが、紗代はそうはしなかった。そして、それに気づく余裕も陽樹にはない。
背の高い木が減り草地が増えていくと、一歩ごとにびしゃりと足元で水が跳ねる。靴の中に入った水が立てる音が気持ち悪かった。
全身がずぶ濡れになり、バッグの中に入っているタブレット端末が壊れないかが本気で心配になってきた頃、慣れ親しんだ灰色の建物が遠くに見えた。肺が悲鳴を上げているが、最後の力を振り絞ってなんとか雷よりも早くふたりは門の前まで下ってくることができた。
朝通ってきたときに開けたままにしておいた門を足をもつれさせながら通り過ぎ、玄関のささやかな
口ではひたすら酸素を吸うことだけを優先させて、陽樹は胸の上にある紗代の頭を抱き寄せる。雨を吸った髪を撫でつけ、お疲れ様と言葉に出さずにその背を軽く叩いた。
「ふふ……あはははは」
せわしない呼吸の合間に紗代が笑い出した。その声を聞いているうちに、陽樹もつられて声を上げて笑っていた。
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