第4話

 それから一週間ほどが経った。朝顔を植えてから一ヶ月弱、勢いよく伸びた蔓を紗代が丁寧に支柱に巻き付けたおかげで、青々とした葉が生い茂り始めた。紗代の勉強の成果で肥料もきちんと与えられた朝顔は、多くの花を咲かせることを予想できるほど順調に育っている。まだ蕾は付いていないが、それも間近だろう。

 陽樹の出した課題について答えを出したと宣言して、紗代は鉢の前に陽樹を連れてきていた。


「これは、セイヨウアサガオの一種。理由は、茎と葉の表面に毛がほとんどないことと、葉の形がハート型をしていること。葉の形がマルバアサガオとは若干違うから、それ以外で茎の色の濃さから花色を推測すると、おそらく濃い色の花が咲く品種。私の答えは」


 理路整然と、静かに紗代は語った。けれど彼女の目の奥には隠しきれない高揚が踊っていて、陽樹も紗代の論の展開を聞いて胸を躍らせていた。

 一呼吸置いて、紗代がゆっくりと答えを告げる。



「ヘブンリーブルー」



 紗代が導き出した答えに満足し、陽樹は天を仰いだ。

 蕾が付いて花が開くまで、どんな色の花が咲くのかを紗代には楽しみにしてもらいたかった。だから陽樹は買い求めた種をわざわざ袋から出し、ティッシュに包んで渡したのだ。パッケージの写真を見てしまったら、興醒めになってしまうから。

 けれど、紗代は自分の観察と推測で答えに辿り着いた。彼女の頭の中には、深い空色の花をたくさん咲かせた朝顔の姿がもうイメージされているのだろう。まだ蕾も付いていないのに、手を掛けた花が満開に咲き誇ったかのように満足げに笑っている。

 感無量という言葉はこういうときのためにあるのだろう。陽樹は思わず紗代を抱きしめていた。自分の嬉しさを表すのに、他の行動が思いつかなかったのだ。


「凄いよ、紗代。よくわかったね。

 ヘブンリーブルー、天上の青。凄くいい名前だと思ったんだ。ピンクや白の朝顔も綺麗だろうけど、君は空を見上げるのが好きだから」

「この花は秋咲きなのね。朝顔って夏の花だと思ってた」


 推測してから確証を得るのに更に様々なことを調べたのだろう、陽樹がこの花を選んだ理由のひとつを紗代が気に留めてくれたことが無性に嬉しい。


「ここは少し夏が短いからね。日が短くなっても咲く花がいいと思った。そうしたら、きっと君はその分長く喜んでくれるから」


「あなたは……そんなにいつも私を喜ばせることばかり考えてるの?」


「当然だよ。君はいつでも僕の世界の中心だ」


 陽樹の肩に頭を乗せていた紗代が、正面に向き合って金色の目でみつめてくる。その目に吸い寄せられるように、自然に陽樹は彼女に顔を寄せていた。

 当たり前のように唇が柔らかく重なって、一呼吸置いてから離れる。

 眼前の紗代は一瞬で硬直していた。その手がゆるゆると上がってきて、確かめるように自分の唇に触れる。その動作で陽樹は自分が何をしたのかを改めて気づいた。


「……嫌だった?」


 自分のしてしまったことに自分で驚きながら、陽樹は恐る恐る紗代の様子を窺った。紗代は無表情になってしきりに唇を触っている。


「今のは、キスってやつ……かな?」


「キスってやつ、だね」


 テレビや本などで知識はあっても、紗代にはされたことの実感がわかないらしい。陽樹から体を離さないままで悩んでいる様が妙におかしかった。


「なんでキスされたの? 恋人同士がするものじゃないの?」


「体が勝手に動いて……っていうのは言い訳だね。

 僕の毎日は紗代が中心なんだよ。君のことばっかり考えてる。それは前からわかってたけど、僕は君のことが好きだ。今、はっきりわかった」


 紗代の目がさざ波のように揺らいだ。迷子の子供のような頼りなさを浮かべて、陽樹を見上げてくる。


「陽樹が、私のことを好き? ――私、私は……」


 口ごもるのは葛藤のせいなのだろう。紗代が陽樹を嫌っていないことは陽樹にもわかっている。その証拠に、紗代は未だに陽樹に体を寄せたままで離れようとはしないのだから。


 紗代が陽樹から向けられる気持ちに、素直に気持ちを返せない理由は陽樹にもなんとなく理解できる。紗代にとっては、陽樹を好きだと自覚してしまうのは苦しみでしかないはずなのだ。

 そこまで思い至れずに、短絡的な行動を取ってしまったことを陽樹は後悔し始めていた。


「君は、いつものままでいいんだよ」


 紗代の緩やかにうねった髪を撫でながら出た声は、いつもよりも優しく響いた。溢れてしまった想いは、見返りを求めたものではなかったのだ。紗代を苦しませることは、陽樹は望んでいない。


「悩ませてごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。本当に、気がついたらキスしちゃってたっていうくらいでね。だから、そんな顔をしないで」


 泣きそうに歪んだ紗代の唇に指を当てて、もうしゃべらなくていいと行動で示す。


「それより、君が花色どころかヘブンリーブルーっていう名前まで当てたご褒美を考えよう。そうだなあ……永井くんに頼んで外出させてもらって、そこの山にハイキングでも行こうか。お弁当と飲み物とおやつを持ってね。なんなら虫取り網も持って」


「ここの、外に? いいの?」


 陽樹の提案は思ってもみないことだったのだろう。驚きのあまりか、紗代の顔からは悩みの色がかき消えて、一瞬のうちに期待に満ちたきらめきが目の中で踊る。


「僕は問題ないと思うよ。もしかしたら、少しずつ外出許可を伸ばしていけるかもしれないし、そうしたら飛行機を見に行ったりもできる」


「外に……そんなこと、考えたことなかった」


 大きな目を閉じて、紗代は深いため息をついた。

 彼女の心は、早くも壁を飛び越えて外の世界に広がっていったようだった。



「永井くん、ちょっといいかな」


 普段は特別なことがない限り所長室に籠もっている永井の元を陽樹が訪れたのは、その日の夕方のことだった。


「どうしたんだ」


 几帳面な彼らしくなく、広い机の上には紙が散らばっていた。陽樹がやってきたことで、少し休憩するつもりになったのだろう。普段は掛けていない眼鏡を外すと、目頭を揉みながら永井は呻いた。


「随分お疲れだね」


「ああ、まあ、おまえとは仕事が違うからな。それより、わざわざおまえがここに来るのは珍しいじゃないか」


「うん、相談したいことがあるんだ。半日でいいから、紗代を外出させてもいいかな? もちろん僕が同行するんだけど」


 否、と言われることを陽樹は予想していた。それに対して反論する材料を心の中で用意しつつ、わざと軽い調子で切り出す。


「どこへ行くつもりだ?」


「そこの山の見晴らしのいいところまで、軽くハイキングに。山の中を歩いて、お弁当を食べたら帰ってくるよ」


「俺は構わない。紗代が了承すれば連れて行ってやればいい」


 永井の言葉は、この出入りが厳重な施設の管理者とは思えないものだった。予想外すぎる永井の反応に、陽樹は拍子抜けして目を瞬かせる。


「いいのかい?」


「紗代が行くと言ったらだ。あいつは今まで外に出たいなんて言ったことがないからな」


「そっか。それは、多分外に出られるなんて考えたことがなかったんだよ。僕がハイキングに行こうかって言ったら、喜んでたからね」


「紗代が、喜んでた?」


 今度は永井が驚きを露わにする番だった。口元に曲げた指を当てて、永井は眉を寄せて考え込んでいる。


「やはりあいつは、変わったな……。前は、外の世界に興味がないようだった。いや、興味を持たないようにしていたのかもな。ここだけが確実に安全だと他の大人から刷り込まれて育ったんだろう。香川がここに来る前の紗代は、何かをひたすら待ち続けてるようだった」


 健一郎と同じことを永井も口にしたことに更に陽樹は驚いていた。紗代と距離を取っていたはずの永井だが、案外紗代のことをよく見ていたのだろう。


「健さんも、そう言ってたよ」


「あいつが待ってた何かは、おまえなのかもしれない。おまえがここに来てから紗代が変わっていったことを思ったら、俺にはそうとしか思えないな。

 俺がこんなことを言うのはおかしいかもしれないが、おまえにできる範囲で、あいつによくしてやってくれ。望んで貴種に生まれたわけじゃないだろうに、そのせいでいらない不幸を味わってきたはずだからな」


 規律に厳しく仕事人間だと思っていた友人の口から出た、予想外に優しい声と言葉に陽樹は息を詰まらせた。

 健一郎が紗代を気に掛けているのはよくわかっていた。しかし、身近にいながら永井が陰で紗代をこんなにも気に掛けているとは陽樹は知らなかった。


 永井は何か理由があって、紗代と距離を置いていたのかもしれないと陽樹は初めて気がついた。そういえば、陽樹が来た翌日に紗代が高熱を出したとき、永井は彼らしくなく動揺していたではないか。


「永井くんも、一緒に行かないか?」


 思わずそんな誘いを陽樹は掛けた。けれど永井はゆっくりと首を振ってそれを断る。


「俺はおまえが思ってるより忙しい。山歩きも趣味じゃない。元から、紗代のケアはおまえの仕事だろう。その時には鍵を貸してやるから勝手に行ってこい」


「――わかった、ありがとう。永井くん、何か食べたいものはあるかい? 今度作るよ」


「どうしたんだ、いきなり。今までそんなこと言ったことなかったくせに」


「いや、僕が紗代中心にものを考えるのは当たり前だと思ってたけど、君も彼女のことをそんなにちゃんと見てたなんて思わなくて。何の仕事してるのかよくわからないけど、ちゃんと所長してたんだなって思ってさ。たまには永井くんをねぎらわないと、って急に思ったんだよ」


「なんだ、失礼極まりないな!」


 永井は笑いながら凝った体をほぐすように伸びをした。そしてふと動きを止める。


「ああ、あれがいいな。学生時代によく作ってもらった豚丼。あれは本場の十勝で食べたのよりうまかった」


「懐かしいなあ。お肉だけ食べちゃ駄目だよ、山盛りキャベツもつけるからね」


「注文を聞いておいて厳しいな」


 苦笑しながら永井が返す。陽樹は温かい気持ちになりながら、所長室を出た。

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