第3話

 ラボが建っている場所は、それほど極端に標高が高いわけではない。それでも平地に比べて朝晩は寒く、春が来るのは少し遅かった。雨の日などは殊更に寒さを感じるし、この分だと夏も短いのかもしれないと陽樹はカレンダーを睨みながら悩んだ。


 夏が涼しくて過ごしやすいのは歓迎だ。けれど、平地の感覚で野菜を植えていたら多少ずれが出るのだ。遅霜には驚いたし、既に植えられている夏野菜の生長はやはり若干悪い。


 育て方を事前に調べた朝顔の発芽適温は二十度から二十五度で、寒くない地域ならゴールデンウィークを過ぎれば大体植えられるようになる。しかしここは六月になっても最高気温が二十度に届かない日が多かった。


 

 その日は梅雨も一段落したのか、朝から爽やかに空は晴れ渡っていた。

 雨のせいで数日飛行機を見ることができなかった紗代は、いつもよりもその時間を心待ちにしていたらしい。やっと乾いて座れるようになったベンチで飽きることなく空を見上げている。

 その紗代に気付かれないように、陽樹はこっそりと用意していたものがあった。中庭へ続く扉の陰にそれを隠し、飛行機が通り過ぎるのを待つ。


「紗代」


 飛行機が通り過ぎてベンチから立ち上がった紗代を呼び止めると、紗代が陽樹に気づいて振り返った。陽樹が片手に掲げているものを見て、軽く目を見開いている。


「プレゼントだよ」


 おどけて渡したのは緑色をしたプラスチックの鉢だ。陽樹が子供の頃にも使った覚えのあるスタンダードな形をしたもので、教材を扱っている会社から通販で手に入れていた。それを渡すタイミングを、陽樹はずっと計っていたのだ。


「土はここの畑のを入れたらいいと思う。それと、これは種」


「陽樹……ありがとう」


 軽い鉢と、ティッシュに包まれた種を受け取って、喜びを隠しきれないように紗代は唇を震わせていた。喜ぶ紗代を見て満足する気持ちと、切ない気持ちが同時に陽樹の胸に沸き起こる。



 朝顔を育てるなんて、本当にささやかな願い事なのだ。それを彼女は何十年も胸の奥にしまったままで、表に出すことができなかった。それはあまりにも痛ましいことではないか。



 畑の端にしゃがみ込み、受け取ったばかりの鉢の中に小石を拾っては入れている紗代をみつめながら、陽樹の目の奥がつんと痛くなった。それを堪えて紗代を見守っていると、紗代はハンドスコップで鉢の縁にある段差の部分にまで土を入れ、陽樹の方に振り向いた。


「ここから、どうしたらいい?」


「うん、うまい具合に八割のところに段が作ってあるんだなあ。さすが教材用。小指でちょっと土を押して、一センチくらいの深さの穴を何カ所か開けて……そうそう、そこに種を置いて、土を被せて。うん、それでいいよ。それじゃあ、水をたっぷりあげて、日当たりのいいところに置いておこう」


「どうしよう、凄く楽しみ」


 じよで黒々とした土に水を掛けながら、紗代は子供のようにうきうきとした表情を見せた。先ほど感じた重い気持ちを振り払うように、陽樹は背に隠し続けた左手に持ったものを紗代に差し出してみせる。


「これも、プレゼント」


 陽樹が差し出したものは、さすがに紗代も予想していなかったのだろう。紗代は無言で穴が開くほど陽樹の手にあるものを凝視した。


「……随分と本格的ね?」


「やるからには徹底的にやらないとね」


 陽樹がわざと出した楽しげな声に、紗代は呆れたようにため息をついた。

 陽樹が用意していたのは、絵日記帳と色鉛筆のセットだった。その組み合わせの示すところを、紗代は正しく把握したから呆れて見せたのだろう。


「君が送れなかった夏休みを、僕たちでやり直そうと思ったんだ。朝顔を育てて、観察日記をつけて、僕は毎日それを見せてもらう。健さんが来たら一緒にバーベキューをして、スイカ割りもしよう。もっと暑くなったら、スプリンクラーで水遊びをして――ああ、空いてるスペースの雑草を抜いて、小さいプールでも出そうか」


 陽樹が描いて見せた夏の光景を想像したのか、紗代は一度大きく息を吸い込んでから、ゆっくりと吐き出した。夏というにはまだ弱い日差しだったが、彼女の目には夏の光が見えているのかもしれない。


「この歳の私にお子様プールに入れって?」


「いや、もっとアメリカンでセレブなジャグジーの感覚で。どうかな?」


「意味がわからない!」


 声を立てて紗代が笑う。ここに来た頃にはまったく想像がつかなかった笑顔だ。

 さすがに陽樹もそれを実行するつもりはなかったが、小さなプールからはみ出して寝そべる自分たちの姿を想像してふたりは声を上げて笑った。ひとしきり笑ったあとで、陽樹は最後のプレゼントをポケットから取り出し、紗代の首に掛けた。


「うん、よく似合うよ。なんか胸元が寂しいなって思ったんだよね」


 陽樹が紗代の首に飾ったのは、つまみ細工で作られた色とりどりの花をあしらったペンダントだ。

 元々紗代は派手な服装を好まないのか、それとも単にあてがわれた服を着ているだけなのか、ロング丈の院内着を連想させるようなストンとしたプレーンなワンピースを着ていることが多い。色の薄い長い髪や一見儚げな容姿と相まって天使のようではあるが、精神的には若い女性なのだから、心が浮き立つような明るく可愛らしい物を身に着けてみてもいいのではないかと思ったのだ。


 何気なくSNSを見ているときに、たまたま見かけたネックレスを見つけてこれだと思った。人気の手作り作家の品物だったが、タイミングよく購入することが出来たのも何か縁があったのかもしれない。


 紗代は無言で、ペンダントヘッドを持ち上げてみつめていた。普段着け慣れないものだから落ち着かないのではないかと陽樹が心配していると、彼女はそっと手のひらに連なった花を乗せて、はにかんだように微笑んだ。


「ありがとう、とても素敵……。宝石とかじゃないところが陽樹らしいね。綺麗だし、凄く可愛い。これって手作りでしょう? こんな繊細な物を作れる人がいるのね」


「喜んでもらえて嬉しいよ。でもこれは、夏休みの宿題のご褒美の先渡しだよ」


 紗代が必要以上に引け目を感じないようにと、冗談めかして陽樹は笑った。


「夏休みの宿題、かあ。宿題なのに楽しみ。ふふ、おかしいね、実際に学校に行ってたときはそんなこと思ったことないのに」


「楽しい夏休みにしよう」


 陽樹が手を伸ばして紗代の頭を撫でると、紗代はくすぐったそうに目を細めた。 



 夏の短さを陽樹は心配していたが、梅雨が明けると暑い日が続いて急激に夏らしくなった。

 朝顔はすくすくと生長して、飛行機を見る以外にも観察日記をつけるのが紗代の日課になった。

 独特の形をした双葉が出たときには目を輝かせ、葉脈の一筋一筋まできちんと描き込んだ日記をつけたし、気温や天気まで詳細に記録している。そんな紗代を見て、陽樹はタブレット端末を渡して使い方を教えることにした。


「もういっそ、自由研究にしてもいいんじゃないかな。双葉の時の形とか、茎の色で花の大きさや色を予想できるらしいよ。君が細かく観察日記をつけてたのが役に立つね。

 この朝顔の花色を蕾が付く前までに当てられたら、なにかまた特別なご褒美をあげる」


「このペンダントだけでも凄く嬉しかったし、特別なご褒美にはそんなに興味はないけど……蕾が付く前にどんな花か根拠のある予想を立てられたら、面白いだろうね。更にそれが当たったら、きっと嬉しいと思う」


 初めていじるタブレット端末に最初のうちこそ四苦八苦していたが、紗代はあっという間にそれに慣れて朝顔のことを調べ始めた。熱心に画面に目を落とし、興味深い記事をみつけては夢中になって読みふけっている。

 紗代の集中を妨げないようにそっと彼女から離れ、陽樹は微笑ましい気持ちで紗代を見守った。


 少しずつ、紗代の興味が広がっていくことが陽樹にとっては喜ばしい。

 


「紗代は外に出る気がない」

 健一郎が以前言っていたことが、陽樹にはずっと引っかかり続けていたのだ。

 ――それを聞いたとき、陽樹は頭を殴られたようなショックを受けた。



 確かに安全や安心という面ではここが最上の場所だろう。けれど、その分不自由は多く、紗代はいろいろなことを諦めてきたはずだ。

 それに、昔ならいざ知らず、貴種という存在が幻のようになってから長い年月が経っていて、人は知識としてはそれを知ってはいても、目の前にいる少女を貴種と思うことはまずないだろう。できれば、外に連れ出してやりたいと陽樹は思っている。

 特別なご褒美は、紗代に無理がない程度で外出できるところがないか考えてみようと、陽樹は考えを巡らせていた。

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