第2話

 陽樹が世話をしている畑を、紗代も見よう見まねで手伝ってくれるようになった。とはいえ、できるだけ手間を省けるように簡易式スプリンクラーも置いたので、頃合いを見計らって収穫するものの手伝いや、虫が付いたときにそれを駆除するのが主だった。

 朝食後のしばらくの間が陽樹が畑の世話をする時間で、それはちょうど紗代が飛行機を見るために中庭にいる時間と被っている。

 紗代は陽樹の傍らで野菜の世話をしながら、もしくは陽樹が畑にいるのをベンチで眺めながら、いつも同じ時間に空を見上げている。


 その日、紗代が遠い機影を見送って自室に戻ってしばらくしてから、突然陽樹の鼻先をかすめて何かが飛んでいった。


「ごめん、思ったより飛びすぎちゃった」


 驚いて顔を上げると、中庭の端に紗代が立っていた。自分の前を横切ったものはなんだったのだろうかと視線を巡らせると、柔らかそうな葉を茂らせたルッコラの上に白い紙飛行機が落ちている。手に取ってみると、陽樹が見たことのない折り方をされたものだった。


「そこから投げたのかい? 随分飛んだね。こっちから投げてもいい?」


 子供のような遊び心が刺激されて、陽樹は紗代に向かって紙飛行機を構えて見せた。紗代が頷いたのを見て、斜め上にすいっと投げる。風があまりないのも手伝ってか、紙飛行機は綺麗な直線を描いて紗代の元まで飛んでいった。


「これ、凄く飛ぶね!」


 紙飛行機など子供の頃以外飛ばした記憶はないが、こんなに飛距離が出るものも、まっすぐ飛ぶものも作れたことはない。ペーパークラフトの紙飛行機ならそれなりに飛ぶものを見たことはあるが、折り紙であるところが驚きだ。楽しくなって紗代の元へ駆け寄ると、はしゃぐ陽樹を紗代が穏やかに笑って迎えた。


「紙飛行機ひとつで喜びすぎじゃない?」


「僕は君みたいな飛行機好きじゃないけど、やっぱりこういうもので出来がいいと見てるだけで楽しくなるよ。心の中にある少年の部分が刺激されるっていうのかな」


「陽樹にも少年の部分があるのね」


「男はみんな、永遠に少年の部分が残るんだよ。健さんを見てごらん」


「あれは例外でしょ。見た目詐欺にも程があるから。中身が子供率五十パーセントだもん」


 今度は少し力を入れて投げると、白い機体はその力を素直に乗せて力強く飛んでいく。まだ十分に高度もあるうちに畑の支柱に見事にぶつかって墜落したので、陽樹と紗代は笑い転げた。


「ナイスコントロール」


「狙ってやったわけじゃないよ。あー、先がひしゃげちゃった。ごめん」


 回収してきた紙飛行機は、先端が歪んでしまっていた。手で伸ばすことはできたが、紗代が折ったときのぴしりとした感じには戻らなくて、少し残念だ。


「気にしないで。これくらいいくらでも折れるし。……ちょっと待ってて」


 一度部屋へと戻った紗代が持ってきたのは、正方形のものと長方形のものを取り混ぜた数枚の紙だ。陽樹の目の前で、ベンチにそれを置いて繊細な手つきで迷うことなく紙飛行機を折り上げていく。

 紗代が折ったのは、先ほど飛ばしていたのとはまた違う形のものだった。これもやはり陽樹は見たことがない。


「見ててね」


 陽樹がみつめる中で、紗代は紙飛行機をかなり角度をつけて真上に近い方向へ投げた。最初は上に向かったそれは、くるりと方向を変えて旋回しながら舞い降りてくる。


「へえー、綺麗に回ったね。これはそういう折り方なのかい?」


「飛行機が好きだと言ったら、子供の頃におじさんが教えてくれたの。飛行機を見せに連れて行ってやることはできないけど、紙飛行機なら作ってやれるって。おじさんの折り方も最初はぐしゃぐしゃで、いろいろ本を読んだりしてた。本当は少し向かい風があるともっと飛ぶんだよ。ここの、この尾翼のところに角度をつけてあって、ここで揚力を出すように計算してある」


「君のおじさんって凄いんだね。そうか、僕にはさっぱりだけど航空力学がやっぱりここにも生かされてるんだ」


「うん。おじさんはいろんな本を読んでは、私にいろいろ教えてくれた。永井さんがここに来る何年か前に死んじゃったけど、お母さんの兄でお父さんの父だったから、おじさんと言ったらいいのかお爺ちゃんと言ったらいいのか、微妙にわからないね……。お母さんに似て少し騒がしい人で、私がここに来た時からよく構ってくれたんだ。ものを作るのが好きで、最初は下手でもすぐに上手になるのが凄かったよ。子供用の椅子も作ってもらったりした」


 思い出を語る紗代は特に悲しげではなかった。それに陽樹は内心でほっとする。


「そうなんだ。君が器用なのもそういう影響があるのかもしれないね。こんなにぴしっと、綺麗に折り紙をするのはなかなか難しいから」


「そう? 料理の方が余程難しいと思うけど」


 正方形の紙を取り上げて、紗代の指が細かく動き始める。何も見ないでよくこんな複雑なものが作れると陽樹が感心していると、紗代は作り上げたものを陽に翳して見せた。左右に大きく広がった主翼に、立ち上がった尾翼。正真正銘、紙でできた飛行機がそこにはある。


「ちょっと凄いでしょ、ナイトホーク」


「えっ、なにこれ、凄い! 戦闘機だよね、これ」


「湾岸戦争で有名になった、ステルス戦闘機の先駆け。折り紙で作っても普通に飛ぶの。やっぱり元の機体のデザインがきちんとされてるからなんだろうなあ」


「凄い……感動するなあ。僕は飛行機って特に興味があるわけじゃないけど、君がこうして目の前で折ってくれて、凄くわくわくするよ」


「そう?」


 紗代は目を細めて、ナイトホークを飛ばした。バランスのとれた機体は最初の紙飛行機のようなスピードは出なかったが、ふわりと飛んで柔らかな土の上に着地する。


「他にも作れるのかい?」


「飛行機だけなら結構なバリエーションがあるよ。思い出せるだけ作ってみる。久し振りだけど、こういうのって手が覚えてるものなのね」


 ふたりはベンチの端と端にそれぞれ腰掛け、真ん中に空いたスペースを利用して紗代が折り紙を始めた。ナイトホークとは明らかに形が違う、スペースシャトルに似たような機体が今度は折り上がった。

 しきりに感心している陽樹に紙飛行機を渡すと、紗代は今までで一番の笑顔を陽樹に向けた。


「私がしたことで、陽樹が喜んでるのを見るのはいいね。あんまりできることのない私でも、陽樹を喜ばせられるんだって気になる」


「僕にとっては、君が毎日美味しいって言いながら僕の作ったものを食べてくれるだけでも嬉しいよ。最初は突き放されたから余計にね。特別なことがなくても、君が笑ってくれているだけで、僕は幸せに思える。――自分でも不思議に思うことがあるよ。でも、ここへ来て、今まで知らなかった貴種のことを知って、君がどれだけ傷ついてきたのかを考えたときは凄く辛かったから。だから、紗代が笑ってくれるだけで、僕はここへ来た意味があったって思える」


「私が、笑うだけで?」


「うん。君が笑うだけで。君が僕にとってのたったひとりの患者だから特別に思うのかとか、最初は思ったんだけどね。そうじゃないみたいだ。紗代が笑ってくれると、僕は幸せになれる」


 陽樹が伸ばした手が紗代の頬に触れた。一瞬ぽかんとしたあとで紗代は耳まで赤く染めて陽樹の手を剥がした。


「ま、待って。そんなこと言われたら、普通に笑えなくなる……」


「んー、意識しちゃうかい? 照れてるのかな? 最近わかったけど、君を笑顔にさせるのは凄く難しいことじゃなかったんだよ。君は案外素直で、美味しいものを食べると頬が緩んじゃうからね」


「食い意地が張ってるって言いたいんでしょ? いつの間にか餌付けされてたんだもん……」


 悔しげに顔をゆがめてから、紗代は肩を落としてため息をついた。余計な力をそれで抜いたようで、ついさっきまでの自然な表情が戻ってくる。


「仕方ないなあ。あなたといると、無関心とか突き放したりとかする方が難しくなっちゃった。前は楽しいと思うことなんてそうそうなかったのに、陽樹が畑仕事をしたりしてるのを見てるだけでも楽しいの。

 ――そういえば、陽樹は随分畑好きみたいだけど、なんで医師になったの? 注射器持ってるときより、雑草抜いてる時の方が余程楽しそう」


「ああ、それはね……というか、注射するのが笑っちゃうくらい好きな医者もそうそういないと思うけど」


 自分が作り上げた畑を陽樹は眺めた。確かにこっちの方が性に合うし、好きだ。紗代がそれをわかってくれていることまで、妙に嬉しくなる。


「うちは両親共に医師でね。祖父も医師だったんだけど、まあ、そういう家庭なんだよね。兄がふたりいるけど、ふたりとも医師になった。家訓なんだよ、生き延びられるから医師になれ、って。人の命に関わる知識も技術も、いざという時には必ず自分や他の人の役に立つからね。

 私立だと医学部を出るだけでも大変なお金がかかるけど国立だとそうでもないし、両親からすると『ここまで投資してやるから、あとは自力で食っていけるようになれ』ってことなんだと思う。一理あるなと思ったよ。

 実は医師になれって厳しく言われなかったら、僕は多分農学部にでも行ったと思う。でも、医師になって収入を得られるようになってからなら、自分のやりたかった勉強をやり直すこともできるんだ。お金ってそういう自由を買えるものだからね。まあ、好きなのは畑いじりで、どうしても本格的に農業を学びたいわけでもなかったから、そこまでしなかったけどね。

 両親が僕に要求したことをクリアしたから、それ以上口出しされることもなかった。むしろ、ひとりの人間として僕を認めてくれたと思う。ここに来る経緯もいろいろあったけど、何も文句を言われたりしなかったし。僕が自活できるようになったから、親の役目は終わったんだなんて酒の席で言われたりしたから。結構、融通のきく人たちだと思うよ」


「そう……よかったね。前に陽樹が言った通り、ここは普通の人間から見たらあまりいいところではないと思うから、少し心配をしてた」


 寂しげな紗代の様子に、陽樹は首を振って否定して見せた。

 貴種にとっての悲しい理想郷、ただひとつの安寧の場所。けれど確かに陽樹と永井にとっては、仕事の上では流刑地に近い。だが、陽樹は決してここを厭ったことはない。


「最前線で過酷な勤務をしてる他の医師にこんなこと言ったら怒られると思うけど、僕にとってはここはいいところだよ。決して高くはないけどちゃんと給料ももらってるし、気を張らなきゃいけないことも少ない。毎日のほとんどの時間は自分の好きなことをしていられて――やっぱり、医者が忙しいって本来良くない状況だと思うんだよね。前にも言ったけど、君も永井くんも健康に問題がないから、そういう意味では僕の存在意義が薄くて助かってる」


「そう。それならよかった」


 紗代がほっとしたように目の端を緩ませた。


「シャングリラ、って聞いたことがある?」


「シャングリラ?」


「チベットの高地にあるという伝説上の理想郷で、そこに住む人間は普通の人間より長生きなんだって。ユートピアとか桃源郷とか、理想郷を表す言葉はたくさんあるけど、お爺ちゃんたちはここをシャングリラと呼んでた。私はここが理想郷だと思ったことはないけど、今なら少し、お爺ちゃんたちの気持ちがわかるかな。穏やかに過ごしていきたいなら、ここは悪いところじゃない」


「確かに。……ずっとこんな日々が続いていったらいいって、僕は心から思うよ」


 手の中の紙飛行機をそっと投げると、春らしく暖かな空気を白い機体が切り裂いて飛んでいった。

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