ソライロアサガオ
第1話
健一郎と会ったときに陽樹は連絡先を交換していたが、彼から「いなり寿司」とだけメッセージが入ったのは四月初めのことだった。
健一郎の意図は察したが、生憎油揚げがない。折り返し彼に油揚げも買ってきてもらえるように頼み、陽樹はキッチンに籠もって弁当の準備を始めた。
花の形に抜いたにんじん、飾り切りをした蓮根。花見弁当にふさわしいように手を加えて、食材のストックとにらみ合いながら料理を作り上げていく。
野菜の煮物とエビフライ、そしてだし巻き卵というそれほど派手ではない料理だったが、重箱に詰めると途端にそれっぽさが出てくるのが不思議だ。
インターフォンが鳴ったのは、ちょうど陽樹が頭を悩ませながらおかずを重箱に詰め終わったその時だった。
「陽樹、手伝ってくれ。手が空いてたら永井も紗代も連れてこい」
そんな健一郎の言葉で三人揃って玄関に行くと、以前見たのとは違う車が門の前に駐まっていた。
緑色のナンバープレートが付いたワンボックスカーの後部スペースには、所狭しと桜の枝が積まれていた。永井は唸り、陽樹は思わず歓声を上げる。
「凄い量だね! これどうしたの? まさかどこかから切って」
「馬鹿なことを言うんじゃない。健さんは常識派だぞ? 花屋を回って買い集めてきたのさ。ほら、中庭にどんどん運んでくれ。花見をしよう! いなり寿司を作るのにはどのくらいかかる?」
「煮汁は用意してあるから、油揚げを煮てご飯を詰めるだけだよ。それほどかからないし、他のおかずはもう重箱に詰めてある」
スーパーの袋に入った油揚げを受け取りながら陽樹が答えると、健一郎は我が意を得たりとばかりにニッと笑った。
「さすが陽樹、あの暗号だけで通じるとはなあ」
「暗号……っていうか、書き途中で送ってきたとしか思えない感じだったけど……。時期が時期だし、いなり寿司の話は僕も聞いてたからね」
「この辺は桜が遅いんだよ。たまたま通りかかった花屋で桜を見つけたから、これはもう花見をするしかないと思って買ってきた」
四人がかりで中庭に桜を運ぶと、いつの間にか作られていた畑を見て健一郎は笑い転げた。以前はがらんとした場所だが、育った小松菜や蕪のおかげでかなり賑やかになっている。
「この殺風景な建物の中庭が畑とは驚きだよ。さすがの俺もこの発想はなかったな。桜を植えるかという話は大分昔にあった気がするが、ソメイヨシノの寿命が短いからってやめたんだぜ。草花ならともかく、木の寿命が自分たちより短いっていうのはあんまりにも切ないからな」
「こいつは昔、陸上部と園芸部を掛け持ちしてたからな。なんとなく、いつかやるんじゃないかという気はしてた」
「畑の話を持ち出したときに、永井くんが驚かなかったのはそのせいか。じゃあ、僕はいなり寿司を作ってくるから、ここは頼むよ」
「おう、任せておけ」
「あ、紗代はこっち」
まだ残っている桜を取りに行こうとした紗代の腕を陽樹は掴んだ。きょとんとしている彼女の腕を引いてそのままキッチンへと連れてくる。
「私には料理は手伝えないけど?」
「君には教えてもらいたいことがあるんだ。君のお婆ちゃんが作ってたいなり寿司って、どんなのだった?」
袖を捲って手を洗いながら、陽樹は紗代に尋ねた。なんのことかわからないという顔をしながら、紗代は普通だと答える。
「そうか、あんまりバリエーションを見たことがないんだなあ。形は四角かった? それとも三角?」
「形は、四角かった。そうか、三角形のもあるのね」
「四角か、うちと一緒だ。ちょっと安心したよ。関東と関西で形が違ったりするんだ。割と地域差があったりして、なかなか面白いんだよ。昔のことだからそんなに凄く凝ったものじゃなかったとは思うんだけど、逆にお祭りの料理だと昔の方が凄かったりすることもあるしね。中に入ってたのはご飯だけだった? 上は閉じてた?」
「だから、普通の……ああ、もう……。ご飯は、白ごまが入ってた。色は、ちょうどこの煮汁と似た感じで、上はぎりぎり閉じてた」
「ごまね、なるほど、美味しそうだなあ。ご飯は酢飯だったかい? それとも普通のご飯?」
陽樹が尋ねるひとつひとつに紗代は必死に記憶を探りながら答えていたが、とうとうため息をついて降参した。
「当たり前に食べてた物だから、そんなに気にしてなかったしそこまで覚えてない。それに、お婆ちゃんの思い出を大事にしてくれるのは嬉しいけど、私は陽樹の料理も好きだよ。だから、陽樹が作ってくれるならなんだっていい」
ともすれば投げやりに聞こえかねない言葉だったが、紗代の口調は噛みしめるようで、言葉の意味そのままであることがわかる。
陽樹は手を伸ばして紗代の頭を撫でた。彼女が本心から、陽樹の作るものを好きだと言ってくれているのがわかって、それが何より嬉しい。
「ありがとう。――うん、そうだね、それじゃあ僕の好きないなり寿司を作るよ。せっかくだからごまは試してみたいけど。少し手伝ってくれるかな」
「私でも出来そうなことならね」
陽樹が笑いかけると紗代は頷き、陽樹の横に並んで袖を捲った。
紗代に手伝ってもらって艶のある酢飯を作り、油揚げは少し醤油と砂糖を足して煮て陽樹の慣れ親しんだ味にした。健一郎たちの元に持って行く前にこっそり味見をするのはとても楽しくて、じわりとだしの染み出るいなり寿司をふたりで頬張り、指を舐めて笑い合った。
四人で食べても余るほどのいなり寿司を重箱に詰め、冷蔵庫にあったありったけの缶ビールを持って陽樹と紗代は廊下に出た。何気なく目を中庭に向けると、桜で囲まれたベンチに健一郎と永井が所在なげに座っているのが見えて、思わず笑いが漏れる。
「お待たせー。いなり寿司とビール、持ってきたよ」
「なかなかシュールな光景だけど、なんでそんなことになってるの?」
たったひとつだけのベンチの周りに、一定間隔に桜が生けられている。桜を見るという意味では花見に違いないが、言葉のイメージするものと現実はほど遠い。
「花見と言えばレジャーシートだろうと思ったんだが、ここにはないらしくてな」
がっくりとうなだれた健一郎のぼやきに、隣で肩を落としたまま憮然とした永井が答える。
「レジャーシートなんて見た覚えがない。そもそも使うことがない」
「ブルーシートでもいいんだぞ」
「それこそ何に使うんだ」
健一郎はレジャーシートくらいはあると思っていたが、永井が非情な現実を突きつけたらしい。それで結局ベンチに座っているしかなかったようだ。
「えっ、それじゃあ、これはどこに置く?」
三段の重箱を陽樹が掲げると、健一郎と永井は揃って悩み始めた。
結局、ベンチに重箱を置き、各自が皿を持ってその周りに立つという立食スタイルを取ることになり、彼らは桜に背を向けて立ったままで黙々と料理を食べ始めた。
「なんか……妙だね」
「中河内が驚きのノープランだったからな」
「いやいや、ここの備品に関しては永井の責任じゃないのか? ブルーシートくらい用意しておいた方がいいと思うんだが。雨漏りしたらどうするんだ」
「業者を呼ぶ。こんな建物の雨漏りを、応急処置とはいえ自分たちでブルーシートを使ってどうにかできるとは思わないからな」
「健さん……今回は健さんの負けだから」
皿を持ったまま地団駄を踏む健一郎を陽樹がなだめると、紗代がぷっと吹き出していた。
「切枝の桜を見ながら立ったままで食べてるなんて、おかしなお花見!」
「全くだ。俺も長いこと生きてるが、こんなに間抜けな花見は初めてだよ……」
「企画した人がそれを言う!?」
「あああ、陽樹の料理はうまいなあ!」
よく晴れた空に向かって健一郎がやけっぱちになって叫ぶ。ビールの缶を傾けて飲み下してから、永井が珍しく声を立てて笑い始めた。
「ああ、全くもって間抜けで馬鹿みたいだ。……でも俺は、こんなのも息抜きには悪くないかと思い始めたな」
「まあ、それもそうかな。こんな変なお花見は、きっとここじゃないとできないよね。――忘れられないお花見になったよ。健ちゃん、ありがとう」
「くーっ! 紗代の頭を撫でたいのに、両手がビールと皿で埋まってるとは! 俺はどうしたらいいんだ!」
「健さん、ビールこっちに置きなよ」
「ちょっと、やめてよ健ちゃん。子供じゃないんだから」
健一郎から逃げようとする紗代がベンチの反対側に回り、皿とビールをベンチに置いた健一郎は手を広げたままで左右にフェイントをかけている。そのうちにどちらからともなく笑い出して、健一郎は笑いながら地面に転がった。
「はははは! あー……これはいいな。寝っ転がると桜を見上げられるぞ。みんなもやってみろ」
「中河内、飲み過ぎたのか?」
「缶一本で酔うものか。だが、少しはいい気分だ」
健一郎が楽しそうに笑うので、陽樹と紗代も皿を置いて地面に直に寝転がった。服が汚れることがちらりと頭をよぎったが、そんなことよりもっといいことがありそうに思えたのだ。
「ああ、本当だ。目の前に桜がある。悪くないね」
「こうして見ると、座って見てるときより空が広いねえ」
陽樹は隣の紗代にちらりと目をやった。紗代は桜ではなくて、やはり空を見ていた。
楕円形をした中庭で立っているときよりも、こうしている方が空の全てが見えたのだ。
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