菊江と和豊 3
フサ子がいたことで、ふたりは周囲の人に受け入れてもらうこともできた。菊江の出産の時には自宅でフサ子が赤ん坊を取り上げた。
世慣れしていない貴種のふたりが娘をなんとか育てられたのも、他の子供と同じように小学校へ通えるようにしてやれたのも、確かな身元があるフサ子のおかげだった。
ふたりの間に生まれた娘の紗代は、貴種であることを隠して人間として育てた。三十年後か四十年後か、貴種の年齢の重ね方が人間のそれと顕著に違いが出てしまう時期が来たら、否応なく彼女が自分の素性を知るときは来る。しかしそれまでは、少なくとも紗代は穏やかに暮らせるはずだ。菊江と和豊は既に大人だから、長いこと外見が変わらないことは紗代よりもずっと早く気付かれてしまうだろう。けれど、十五年くらいはこのまま暮らしていける。
紗代がランドセルを初めて誇らしげに背負った時には、菊江は今まで生きてきた中で一番幸せだと思った。家族が一緒に安心して暮らしていられて、自分の手で何かをなすことができて。紗代が飛び跳ねる姿に涙を流して喜んでいるフサ子は、菊江にとっては本当に優しい母だった。
そのフサ子が倒れたのは、紗代が小学校へ通い出して間もなくの時だ。誰も気づかないまま静かに進行していた病は、急激に彼女の命を削っていった。
「お母さん、お願い、元気になって。お母さんがいなくなっちゃったら、私たちはどうしたらいいかわからない」
和豊と紗代は、黄色くむくんだフサ子の脚を必死にマッサージしていた。菊江はどうか逝かないでくれとひたすらに泣きついている。
「……ひとりきりで、誰も見送ってくれなくてあの世に行くんだと思ってた」
息を何度も継ぎながら、すっかり力のなくなった声でフサ子は呟く。
「でも、息子と娘がいてくれて、可愛い孫の顔まで見れて。思いがけずに幸せだったよ。菊ちゃん、和ちゃん、ありがとう」
長い時間を掛けてそう告げたのがまともな会話の最後だった。
フサ子がひっそりと息を引き取ったのは、ふたりがこの家を訪れたときのような雨の降る夜のことだった。
葬儀も何もかも、フサ子が生前に親しくしていた近所の人が助けてくれた。菊江と和豊の素性を知らない人々は善良な隣人として振る舞ってくれたし、それがふたりの救いにもなった。
けれど、ようやく四十九日が過ぎて夏が訪れようとしていた頃、それまでの十年間の平穏を打ち壊す出来事が高橋家には降りかかったのだ。
ジリリリリン、と玄関で黒い電話が鳴った。滅多に鳴らない電話の音には未だに慣れなくて、菊江は驚いて飛び上がった後に慌てて受話器を取りに行く。
「はい、高橋です」
電話には慣れないが、高橋と名乗ることは慣れている。電話は紗代の担任からで、学校の近くで紗代が車に跳ねられて病院へ運ばれたと早口で告げられた。
頭の中が真っ白になって、菊江は何度も聞き返した。震える手で電話の脇に置かれたメモ帳に病院の名前を書き留める。
気が動転したまま隣家の戸を叩いて、紗代の身に起きたことと、これから病院へ行くことを話すと、バスをどこで降りたらいいのかを丁寧に教えてもらうことができた。
バッグの中に財布と保険証だけを入れて、言われた通りのバスに乗る。何度も停車する度に、焦りがじりじりと心の中を灼いた。
病院の名前がそのままバス停の名になっていて、停車ボタンを押すことすら菊江はできなかったけども、運良く乗客がバス停にいたのでなんとか降りることができた。
「あの、高橋です! 子供がここに運ばれたと聞いて。ええと、小学生の女の子で……」
初めて入る病院の中で受付を見つけて駆け寄り、名乗ると相手の顔が強ばった。
「菊江さん?」
その奥の廊下から声を掛けられて、菊江は振り向いた。白いナース服を着た看護婦には見覚えがある。菊江の名を知る看護婦は、紗代と一緒に小学校へ通う息子を持つ知人だった。
「初枝さん! 紗代が、事故に遭ったって」
「紗代ちゃんの血液型、おかしいの」
駆け寄ってきた菊江の言葉を遮って、固い声が降ってくる。途端に、菊江は自分の体からざあああと音を立てて血が引く感覚に襲われた。
貴種の血は、人間の血とは違う。人間と同じ血液型は貴種の中にはない。――あの研究所にいた頃、そう聞いていたではないか。何故それを今まで忘れていられたのか。
血を調べたら、自分たちは人間ではないと、すぐにわかってしまうのに。
自分たちが病気にかかりにくいから、こんなことになるなんて思っていなかった。紗代が外に出れば、病気にはならずとも危険な目に遭う可能性もあると考えることができなかった。
菊江が青褪めた顔で立ち尽くしていると、初枝は表情を消したままで更に菊江に問いかけてくる。
「紗代ちゃん、貴種なの? 人間じゃないの?」
「そ、それは」
「菊江さんも、貴種なの? そんなに綺麗なのは、化け物だから?」
菊江にとって恐れと狂気の入り交じった目は、何度も見たことのあるものだった。
――この人は、よくない。すぐに頭の中に警鐘が鳴り響く。
初枝の勢いに押されて菊江が一歩後ずさったとき、彼女が調子の狂った声で叫んだ。
「化け物ーっ!」
「いやっ!」
紗代がこの先にいるというのに、恐怖のあまりに菊江はその場から逃げ出していた。必死に走って、どこをどう通ったのかはわからなかったけども、とうとう家に辿り着いていた。
バスも使わずに病院から家まで十キロ以上ある道のりを走り抜けた。息は乱れていても、菊江にはそれができてしまう。
人間ではないから。貴種だから。――化け物だから。
「菊江!」
誰かから知らせを受けたのだろう、この時間には家にいないはずの和豊がそこにはいて、髪を振り乱した菊江を抱き止めた。
「病院に行ったんじゃなかったの? 紗代は?」
「あ、ああ……化け物、化け物って……。どうしよう和ちゃん、紗代も私も貴種だってばれちゃったよ……うっ……」
声を上げて泣く菊江の姿に、和豊は投げつけられた言葉の重さを知った。
――「化け物」。それは菊江が何度も受けたことのある罵倒で、研究所で生まれ育った和豊は面と向かって言われたことのないような言葉だ。この言葉の後に続いた惨劇を菊江は知っていた。だから、大事な娘を置き去りにしてでも逃げるしかなかったのだ。
「逃げ、なきゃ」
今にも崩れ落ちそうになりながら、和豊の腕の中で菊江が訴える。和豊は黙って頷くことしかできなかった。
財布と少しの着替えと、本当に大事な物だけをふたりは急いでバッグに詰めた。最後に和豊が仏壇に置かれていた白木の位牌を持ち出してきて、菊江はそれを胸に抱きしめて泣き崩れる。
「お母さん、お母さん……どうしたらいいの。お母さんみたいな人ばかりじゃないよ。化け物って言われちゃったよ……。怖い、もう、ここにはいられないよ……お母さん」
菊江の背を撫でてなだめながら、和豊は紗代の身を案じていた。
病院には大勢の人がいる。それが救いだと和豊は思った。貴種だとばれてしまったとしても、医師も含めて全員が紗代を害そうとする可能性は低い。
紗代はきっと、あの高い塀に囲まれた研究所へ連れて行かれるだろう。けれど、あそこはおそらく一番安全な場所だ。むしろ、貴種にとってあそこ以外に安全な場所はないのだ。和豊はそれをようやく実感していた。
それでも、自分たちはもう戻れない。一度捨てた場所だから。
バッグを片手に持ち、泣きじゃくる妻の手を引いて、和豊は優しい母と小さな娘との思い出の詰まった家を後にした。
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