菊江と和豊 2
和豊と菊江がフサ子の家に居着いてから、半月が経とうとしていた。
何度も菊江は「山の中で暮らす」と出て行こうとしてはフサ子と和豊に引き留められていたが、和豊がフサ子に教わりながら嬉々として家の修理や薪割りなどをしているのを見て、自分もフサ子を手伝うようになっていた。
菊江は驚くほど料理が下手だったけれども、長いことひとりで暮らしていたフサ子にとっては自分以外の誰かが作った食事を食べるのは楽しかった。
「和ちゃん、休憩にしなさい」
「はい」
庭で薪を割っていた和豊に声を掛けると、彼は素直に
一方で、家の中のことをすることが多い菊江は針仕事はうまいのだが、仕事にするのでなければ毎日必要なことではない。壊滅的な料理を披露してしまってから、フサ子に一から料理を教わっていた。調味料を入れる順番や、水のうちから鍋に入れる野菜とお湯になってから鍋に入れる野菜との違い、だしを入れる必要のある味噌汁の具とだしを入れなくていい味噌汁の具など。娘に昔教えたように、フサ子は菊江にひとつひとつ料理の仕方を教えた。
「お茶が入りましたよ」
熱い湯で煎れた渋い番茶を菊江が縁側に持ってくる。庭の隅に植えた木にたわわに実った柿も添えられていた。
柿が実ると、冬がそう遠くはないことをフサ子は実感する。
「ねえ、和ちゃん、菊ちゃん。このままここにずっといなさいよ」
ふたりがこの家に来てすぐの頃から密かに思い続けてきたことを、フサ子は切り出した。
「でも……」
白い前掛けの裾を握りながら菊江が俯く。彼女も葛藤しているのだ。人恋しさと、恐れの間で。
すぐに「山で猪を狩って暮らす」と無茶なことを言っては和豊にたしなめられている彼女が、実は和豊よりも大分年上なのだと知ったときには驚いた。けれど、村を焼かれるまでは実際に猪や兎を狩ったり、畑を作ったりして昔は暮らしていたのだと聞いて彼女の無鉄砲とも思える発言を納得した。和豊はそういった暮らしを知らず、だからこそ無茶なことだと思うらしい。
「和ちゃん、年はいくつなんだっけ」
菊江だけを説得しても決して彼女は首を縦に振らない。フサ子が話を和豊に振ると、実は既に一度聞いたことのある答えが返ってくる。
「俺は今年で四十七歳になりました」
「四十七ねえ……貴種って言うのは本当に歳をとらないんだねえ。びっくりだよ。
今更どうにもならないことを『死んだ子の年を数える』っていうんだけど、私は未だに数えちゃうの。死んだ息子が生きていたら、ちょうど和ちゃんと同じ歳だからね。
あの子は十九歳で、南の島で死んでしまったらしくてね。赤紙一枚で召集されて、死んだら白い紙が戻ってきただけだった。とても信じられなかったよ。『岸壁の母』って歌を聴いたことがある? あれと同じにね、何年も毎日毎日、ここは海は遠いから橋のところで待ってたの。……それしか、できなかったんだよ。娘も終戦の年に学徒動員で働きに行ってた工場が空襲に遭って、あっけなく死んでしまった」
和豊は湯飲みを持ったまま、菊江は前掛けを握りしめたままで言葉なくフサ子の話を聞いていた。聡明で優しいふたりは、フサ子の痛みを我が事のように感じ取ってくれているのだ。
「何を恨んだらいいか、私にはわからなくてねえ。敵国を恨むのは簡単かと思ったけど、あっちにも死んだ人や家族がいると思ったら、自分と同じだと思ってしまったからね。こっちのお国を恨むっていうのもなんだかわからなくてね。私は単純だから、形がよくわからないものを恨んだり憎んだりできなかった。
だけど寂しくて、悲しくて。恨んだり怒ったりして表に出せれば良かったのに。――だからね、若い人がふたりいるっていうだけで、息子と娘が帰ってきたみたいに嬉しくて、楽しいんだよ」
「あ――」
和豊が小さく声を漏らし、菊江は前掛けを顔にきつく当てていた。
「わたしは……人間でもないし、フサ子さんの子供でも……」
肩を振るわせながら、涙声で菊江が切れ切れに訴えた。半月という短い間に自分に向けられたフサ子の慈愛の正体を、彼女はようやく知ったのだ。
「ちゃんとわかってるとも。だって、昭太も春子も、こんなに綺麗じゃなかったよ。むしろ、あんたたちを死んだ子供の代わりに思ってるなんて、私の方がおこがましい。
でもね、この辺は凄く雪が積もったりする土地じゃないとはいっても、もうすぐ冬になるのに、二言目には『出て行きます、山で暮らします』なんて言う無鉄砲な菊江ちゃんを放っておけないの。あんたたちが出て行ったら、心配で心配で、また毎日橋のたもとでふたりの姿を探すかもしれない。雨の日も、風の日も。
老い先短い婆さんを哀れに思うなら、ここにずっといてちょうだい。ね?」
シミの浮いた皺の多い手で菊江の背をさすると、ぐずぐずと菊江が泣き出した。黙っていれば天女のように美しい彼女は、実際には怒ったり笑ったり泣いたりとめまぐるしくて、泣けばすぐに鼻が真っ赤になってよく鼻水をすすり上げている。美しさが台無しになるが、その姿は愛嬌があってフサ子は大好きなのだ。
「菊江さん、フサ子さんがせっかくこう言ってくれてるんだよ。俺たちは他に行くところもないんだから、ここで少しでも役に立つならそうしよう?」
穏やかで優しい和豊は、フサ子の言うことをいつも素直に聞き、爆発しがちな菊江をなだめてはその場を丸く収めていた。
「ほら、和ちゃんはいいって言うんだから。ね、菊ちゃん」
「んっ……鼻水が」
やっとの事で顔を上げた菊江は、目も鼻も真っ赤にしていた。手の甲で鼻を押さえながらずずずと音を立てて鼻をすすり上げている。
「あー、あんたは泣き虫だし、泣くとすぐに鼻が止まらなくなるんだから。ちり紙いつも持ってなさい。仕方のない子だね」
まるで小さい子供にでもするように菊江の頭を撫で、ポケットからちり紙を出して手渡す。音を立てて鼻をかむ彼女は、何も人間と変わらなかった。
フサ子は表向き親戚を養子にしたと周りには告げて、和豊は息子、菊江は嫁としてふたりを本当に家族として迎え入れた。和豊も菊江も本来日本国民に数えられていないせいで戸籍がない。役場で手続きをしたときに戸籍がないと困惑した顔で職員に言われたが、それは戦災で焼失したと困ったように告げて、経歴をでっち上げることまでしてみせた。
菊江はこれだけが取り柄と言っても過言ではない裁縫の腕を生かせるようになって、和裁の仕事を受けては家計の足しにできるようになったし、更に器用な和豊は大工の真似ごとをしている。
フサ子には夫と息子の遺族年金があったが、自分たちの食べる分だけでも稼ぐことができるのは菊江たちにとってとても嬉しいことだった。
血が繋がっていないどころか、種族さえ違う者が三人一緒に暮らすうちに、いつしか本当の家族になっていた。菊江のつわりにいち早く気づいたのはフサ子だったし、その頃には和豊と菊江はフサ子をお母さんと呼ぶようになっていた。
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