菊江と和豊 1
「すみません、誰かいませんか」
夜半響いた戸を叩く音に、フサ子はそろそろと布団から這い出した。
「誰か、助けてください! 誰かいませんか!」
こんな夜中にフサ子を起こしたのは、若い男の声だった。強盗ではないだろうかと警戒心が先に立ったけども、少し迷って寝間着のままで戸を開けた。重い木の引き戸は湿気を吸って更に立て付けが悪くなっていて、年をとった彼女には最近開け閉めが難儀になってきている。
出てみようと思ったのは、外から呼びかける声が必死だったからだ。
玄関に置いた懐中電灯を点けて外を照らすと、声の通りに若い男が光の中で眩しそうに目を細めて立っていた。背中に誰かをおぶっている。彼の背にいる長い髪を垂らした女はうなだれていて、顔色が紙のように白かった。
「どうしたの、こんな……まあまあ」
戸を開ける前は警戒していたというのに、彼らの姿を見たらそんな気持ちは吹き飛んでしまった。外はしとしとと雨が降っていて、若者たちはずぶ濡れだった。それだけではなくて泥もあちこち付いている。慌てて戸を目一杯に開けて、フサ子は彼らを招き入れた。
「ありがとうございます。ありがとう……」
何度も礼を繰り返しながら、土間に入ったところで青年はへたり込んだ。それでもおぶった女性を落とさないよう、必死に背負い直している。
「山で迷っているうちに連れが熱を出して」
「今タオルを持ってくるからね、その人はそこに下ろしなさい。早く拭かないとあんたまで熱を出してしまうよ」
口早に言ってバスタオルとタオルをありったけ持ってくると、青年は今にも泣き出しそうな顔でそれを受け取って女性を包んだ。苦しげに目を閉じているが、彼女の黒髪に縁取られた顔はまるで天女のようで、タオルを持ったままでフサ子は一瞬みとれた。
「女の人は私が拭いてあげるから、あんたは自分を拭きなさい」
乾いたタオルがすぐに服の水を吸って重くなってしまう。これでは埒が明かないと、意を決して青年に告げる。
「この人を奥に寝かせたいんだけど、この濡れた服を着替えさせちゃってもいい?」
「は、はい。何から何までありがとうございます!」
土間に額を擦り付けるばかりに頭を下げる青年は、一瞬でも強盗かと疑ったりしたのが申し訳なくなるほど人がよさそうだった。
「その間にお湯を沸かせる?」
「はい、やります!」
がばりと顔を上げて、フサ子が示した台所で青年は湯を沸かし始めた。フサ子は女性の濡れた髪を絞り、タオルに包んで、服に手を掛けた。
飾り気はないが品のいいブラウスと長いスカートは、とても山を歩く格好ではない。けれどスカートの裾はあちこち裂けて土に汚れていて、その姿のままで山中をさまよったのは本当のようだった。
青年も汚れてはいるけども、身なりはそれほど悪くはない。なぜこんなふたりが助けを求めてきたのか不思議だった。駆け落ちか何か、とにかくわけありなのだろう。
下着だけを残して服を脱がせきり、沸いた湯でタオルを温めて冷え切った手足を包む。そうしている間に他の場所を拭き、またタオルを温めて手足を包み直す。乾いた寝間着を着せたところで振り返ると、目のやり場に困ったように青年が立ち尽くしていた。布団へ運ぶのを手伝わせたいが、彼はまだ濡れた服を着ている。
女性が細身で小柄なことが幸いして、フサ子はなんとか彼女を布団に寝かせることができた。そのまま風呂場へ行って、残り湯を沸かし直す。風呂が沸くまでの間に押し入れをひっくり返して、古びた行李の中から男物の浴衣を引っ張り出した。
「今風呂を立てたから、あんたはよく温まりなさい。これ、死んだ亭主のだけど濡れてる物を着るよりはましでしょう。つんつるてんかもしれないけど、我慢してね」
押し頂くように浴衣を受け取った青年は、奥に寝かせた女性とどこか面立ちが似ていた。
しばらく干していなかったせいで、余っていた布団は少し押し入れのカビ臭いような匂いがしていた。それでも隣の部屋にそれを敷いてやると、青年は何度も何度も頭を下げた後でぱたりと寝付いてしまった。余程疲れていたのだろう。
濡らした手拭いをこまめに変えて女性の額を冷やしてやっていると、夜が明ける頃には苦しげだった息が段々落ち着いてきて、表情も安らいだものになっていった。
青年が目を覚ましたのは夜になってからだった。味噌汁を温めて、作っておいたおにぎりと一緒に出してやると、彼は申し訳なさそうにしながらもそれを全て食べきり、やっと人心地付いたように長いため息をついた。
「ありがとうございます。あなたは命の恩人です」
きちんと正座をして、畳に付くほど頭を下げられる。育ちのよさそうな様子が見て取れて、フサ子はますますわけがわからなくなった。
「そんな大袈裟な。困ってるときはお互い様でいいのよ」
「図々しいのを承知でお願いします。菊江さんの……連れの具合が良くなったらすぐ出て行きますから、それまで何日か置いてもらえないでしょうか」
「はぁ……そんな人たちを追い出せって方が難しいでしょうよ。あんたは体はなんともないの?」
「はい、丈夫が取り柄なもので」
「じゃあ、その間うちのことを手伝ってもらえれば、私もありがたいわ。ところで、こういうことに首を突っ込むのは悪いと思うけど、あんたたち、駆け落ちでもしてきたの?」
フサ子がズバリと切り込むと、青年は腕を組んで唸った。今は穏やかな顔で眠っている女性の顔をしばらくみつめてから、ぽつりと呟く。
「駆け落ち……って言うんでしょうか。そんなものかもしれません」
「はっきりしないねえ。この人、あんたの大事な人じゃないの?」
「大事な人です」
「顔が似てるけど、お姉さんかい?」
「違います。妹でもないです。そうか、世の中ではこれは駆け落ちって言うのか」
どこか浮世離れした彼の様子が不思議でたまらない。昨夜はばたばたとしていてよく見ることもなかったが、目の前の青年は映画スターもかくやというほどの整った顔をしている。現れ方も、言うことも、姿も、フサ子の日常とかけ離れていた。
「私は高橋フサ子。あんたは?」
「あ……名乗るのが遅くてすみません。俺は
「名字を言えないのは、やっぱり事情があるの?」
「いえ、そういうわけじゃなくて。名字はないんです」
「名字は、ない?」
フサ子は狐につままれたように何度も瞬きをした。名字がないのは皇族の方々だけだと思っていた。そうでないとしたら。
昔話に聞いた、幻のような存在が頭をよぎる。人のようで人でない、古い神の血に連なった、美しい姿と長い命を持った人々。彼らは人間ではないから、どこの寺の檀家でもないし、名字も持っていないのだと聞いた。
「そんな、まるで人じゃないみたいに綺麗で、名前しかなくて――まるで、
「和ちゃんの、馬鹿……」
フサ子の声を遮るように、か細い声が間近で聞こえた。うっすらと目を開けた菊江が、手を伸ばして和豊の浴衣を掴んでいる。
「ごめんなさい、すぐ出て行きますから」
熱はだいぶ下がってはいるがまだ辛いだろうに、菊江は無理矢理体を起こしていた。
「だから、だから、周りにはどうか知らせないでください。迷惑にならないどっかの山奥にでも行きますから」
大きな目に涙を浮かべた菊江の言葉に、フサ子は雷に打たれたようなショックを受けていた。
このふたりは、昔話の中のものだと思っていた貴種なのだ。そして、おそらくはどこかから逃げてきている。疲れ果て、倒れても、人に見つかってはならないと思って逃げようとしている。
「菊江さん! まだ寝てないと駄目だよ!」
「そうだよ、おとなしく寝てなさい。でないと駐在さんに言いつけてしまうよ」
咄嗟に出てきたのはそんな言葉だった。菊江は驚いて口を閉ざし、フサ子の表情を覗っている。
「私は尋常小学校を出ただけで学がないからわからないけども、あんたたちが貴種だとして、貴種っていうのは何か悪いことをしたのかい?」
「してません! でも、人間に嫌われて、家族を殺されて、逃げて――今は、追われなくなった代わりに、ずっと閉じ込められてた……」
「家族を……」
「私の母は、私の目の前で殺されました。それで父は、もう誰も殺されたりしないように、私たちを守ってもらえるように、貴種の自由を売って安全を手に入れたんです」
ついさっきまで寝付いていたとは思えないほど、菊江の目には強い光があった。和豊にそんな様子はなかったけれども、菊江はきっと人間を恨んでいるに違いない。
「辛かったろうね……家族を殺されたら」
菊江の手を取ると彼女はびくりとしたが、その手にフサ子が涙を落とすと戸惑いながら見上げてきた。
「私の亭主も息子も娘も、みんな戦争で殺されてしまったからね……国が違うとか、種族が違うとか、すぐ相手を殺そうとする人間は馬鹿だねえ」
はらはらと涙をこぼすフサ子に菊江が息を呑んだ。きゅっと唇を噛みしめている彼女の肩に和豊が手を掛ける。
「悪い人間ばっかりじゃないって、俺に言ってたのは菊江さんだよ」
たしなめる和豊の口調に、菊江はしゅんとうなだれた。今し方の怒りはすっかり消えていて、今は叱られた子供のように心細げな表情をしていた。
「素性もわからない私たちを助けてくれて、ありがとうございます。わかってるんです、私たちに酷いことをしたのはほんの一部の人間でしかないって。利益があるからだとしても、中河内の人たちも、高倉の人たちも、私たちを助けて守ってくれた。でも、あそこにいるのは辛かった……」
「その話は、もっとあんたが良くなってから聞かせてちょうだい。ねえ、こんなことを言ったらもしかすると怒られるかもしれないけど、家族を亡くした悲しさを抱えてるっていうところでは、私たちは仲間みたいなものなんだよ」
「……そうかも、しれませんね……」
フサ子の言葉に菊江は弱々しい笑みを浮かべて見せた。
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