命の砂時計
第1話
軽く酒を飲めば眠れるだろうと思っていたが、酒を飲む気もすっかり失せてしまった。何より、何かをしていないと落ち着かない。このまま眠ろうとすれば、眠るまでの間に悪い考えに捕らわれてしまいそうだ。
部屋に戻ると、習い性のようにパソコンを立ち上げて、画面をみつめる。
紗代を連れて逃げようかという考えも起きたが、それでは根本的な解決にならない。紗代の命の危険は一時的に免れるだろうが、以前の貴種のように隠れ住み、転々とする宿命が結局彼女を待つことになるのだ。それも、陽樹を失った後はたったひとりで。
「紗代……」
自分はどうしたらいいのだろうか。紗代を自由にして、共にいて、彼女をひとりにしない方法。そんなものは存在するのだろうか。
表示させた貴種のデータや過去の研究について、既に熟知していることだらけなのに何度も目を泳がせた。そのまままんじりともできずに夜が明けようとした頃、陽樹は画面の一点に思わず指を当てていた。
人間とは数値がかなり違うことも多い貴種の血液成分のデータ。その中に陽樹がひっかかりを覚える項目があった。
自分が何にひっかかっているのか、その違和感を失わないように慎重に脳内のデータを探る。突然ひらめいた推測で今まで開いていなかった別のファイルを開き、紗代のデータと見比べた。
「紗代……もしかしたら僕は、糸口を見つけたかもしれない」
思わず立ち上がって、ここにはいない人に向かって震える声で告げる。
「陽樹が貴種だったらいいのに」
いつか聞いた紗代の言葉が耳に蘇った。陽樹はその言葉が繋いだ光明をやっとみつけたのだ。
「僕と君の間には、奇跡の糸が繋がってる」
寝不足を隠せないままで朝食の席に着いた陽樹を、紗代と永井は心配そうに見ていた。けれど、昨夜のような重い気持ちはなくなっていて、陽樹にとっては急に眼前が広がったかのような気すらする。
「紗代、話があるんだ。食事の後で部屋に来てくれるかな」
むしろ機嫌のよさそうな陽樹を、永井は怪訝そうな顔でちらちらと窺いながら味噌汁を飲んでいた。紗代は無言で頷いてみせる。
陽樹の部屋へやってきた紗代を抱きしめて額にキスをしてから、その顔を覗き込んで陽樹は紗代に問いかけた。
「ねえ、紗代。もし僕と一緒だったら、ここを離れて外で暮らしてもいいと思うかい?」
「ここを離れて?」
「ああ」
陽樹の突然の提案に、紗代は真剣な顔で考え込んだ。それは紗代にとっては魅力的な面を持つものに違いない。けれど、彼女がその先にある避けられない別離を重く受け止めているのを陽樹もわかっていた。
それを承知の上でなぜそんな提案をしてきたのかと、紗代の目の奥が揺れている。陽樹が穏やかな様子でいるから、余計に彼女は混乱をしているようだった。
「僕たちの間には、奇跡の糸が繋がってる。……これを見てごらん」
紗代に示したのは、陽樹と紗代ふたりの様々なデータだ。その中のひとつを陽樹が形の良い指で示している。
紗代にはただのアルファベットと数字の羅列にしか見えないデータの中で、その一項目が美しくユニゾンを描いていた。
「これは?」
「HLA――白血球型だよ。適合率は血縁関係にない場合は数万分の一程度。しかも君と僕は種が違って、貴種には人間とは違うHLAを持った人がいたというデータもある。そんな中で、この部屋の中で一緒にいる僕たちの型が一致したのは奇跡だと思わないかい?」
陽樹の説明と、ふたりで外で暮らすという点が全く結びつけられずに、紗代は曖昧な表情で頷いた。陽樹は微笑んで、画面の上の文字を指でなぞる。
「これを見て僕は思いついたんだ。僕の造血幹細胞を壊し、君の骨髄液を移植する。そうすると君の体の中を流れているのと同じ血液が、僕の体の中で作られ始める。――それがどうしたって顔をしてるね、実は貴種と人間の間で一番違うのは血液なんだよ。白血球型が違うというのは、免疫細胞が自分とは違うと見なしてしまうことなんだ。だから、型が一致している君の骨髄液は、僕の体になら移植することができる」
「骨髄移植……? でも、それをしてどうするの?」
紗代は陽樹の言葉を真剣に聞いていたが、まだ先が読めないらしい。それは当然のことだった。医師である陽樹にとってすら、突拍子もないと思える方法がこの先にあるのだから。
「染色体の端にあって、細胞分裂をする度に減っていくテロメアという構造がある。いわば、残りの細胞分裂の回数を示す砂時計のような物だね。テロメアの長さ自体は、人間も貴種もそう変わりは無いことが研究でわかっている。なのに寿命の長さは違う。それはどうしてかというとね、テロメアの消耗を回避する物質が、貴種の血液成分に含まれていることがわかってるんだ。わかっているけども、それを培養したり人工的に作り出す方法は見つかっていない。貴種から得たデータで不老長寿に至る研究が行き詰まっている最大のポイントはここなんだ。
――つまり、君と同じ血が僕の体を流れるという事は」
陽樹が言葉を切って待っていると、紗代は考え込んでいた顔をはっと上げた。
「……陽樹の残りの寿命を延ばす?」
恐る恐る答えた紗代の声は震えていた。陽樹が彼女の手を取ると、手のひらに冷たい汗をかいている。
「よくできました。さすがだね。つまり、全ての人間に適用できることではないけども、僕は君から移植を受ければ、人工的な貴種――
「デミ・ノーブル……そんなことが……いや、でも理論上ということでしょう? 必ずしも成功するとは限らないんでしょ? 危なくないの?」
「成功すれば、僕は君と同じ寿命を手に入れることができる。それは、今僕たちが抱えている全ての問題を解決できると言っても過言じゃないだろう?」
「でも……」
紗代の言葉は煮え切らなかった。彼女は種を越えて移植を行うということの危険性を案じているのだ。それが失敗すれば、陽樹は無事ではいられない。
「僕は失敗するとは思ってないよ。それに、これにはもうひとつ目的があるんだ。
本来貴種の保護に各財閥が動いたのは、不老長寿の研究が主な目的だった。それは今でも人類の命題だよね。でも、今ここでは研究らしい研究は何もされていない。貴種は君ひとりになってしまって、新しいデータも出てこないんだから。永井くんから聞いたけども、このラボが大きな赤字だけを出しながらも存続してるのは、長い間貴種の保護にもっとも協力的だった中河内の好意のようなものなんだ。でも今の会長は高齢で、代が替われば君の存在をよく思っていない人が会長になる。何度も出てきたこの研究所の廃止案は会長と健さんが食い止めてきたけど、そうなったら もう健さんひとりの力ではどうにもならない」
紗代の目の奥で不安が揺れた。彼女は初めて自分の置かれた状況が不安定な物であると知ったのだろう。
これからもっと彼女を不安にさせる事を自分は言うのだ。避けて通れる道ではないから。そう自分を叱咤して、紗代をまっすぐにみつめる。
「扱いに困るたったひとりの貴種について、次期会長は『処分』という言葉を出したらしい。彼にとっては将来の絶滅という運命が決まっているものが、数十年早くなるだけの話なんだろうね。それに、貴種の本当のところは、一般人にはあまりにも認知度が低い。他の絶滅危惧種とは比べものにならないくらいに。
物語の中だけの存在だと思ってる人もいるし、実在はしたが過去の話だと思ってる人もいる。貴種が現在生存してることを知っているのは、ごく一部の人だけなんだよ。だから、今は保護に回っている中河内が手のひらを返したら、君の存在は簡単に消すことができる。君の命自体が、実は危険にさらされてるんだ」
「私の、命が」
紗代は目を見開いて首元を押さえた。呼吸が速まっていて、顔からは血の気が引いていた。それはまさしく昨日陽樹がした反応と一緒だった。けれど、紗代の命を限定的にではあるが守る切り札が、今の陽樹にはある。
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