第3話

 採血を含めた紗代の検査は、月一回と一応決まっている。貴種の生体データを定期的に収集することはこのラボの設立意義のひとつでもあるからだ。ただし、医師不在の二年間を思えば完全に今はそれが形骸化していることがわかる。


 永井の健康診断も二年間していなかったので、それは着任直後の先月に済ませた。今日は中河内製薬の担当者が検体の回収に来るので、昼までに紗代の採血を済ませておくのが陽樹の仕事だ。


 紗代の血管は採血しやすい立派な血管だが、念のために今回も翼状針を用意した。多少時間はかかっても紗代にとってストレスがない方がいいに違いない。


「注射は怖い?」


 陽樹がアルコール綿で腕を拭いた辺りから、紗代は目一杯横を向いている。目をつむってもいいのにと思ったが、その微妙な強がりが紗代らしくて微笑ましくなった。


「針が刺さるのを見るのが楽しいわけないでしょ」


 むすっとした調子で紗代が答えている間に針を入れる。すぐに血が管を上ってきた。


「ところが、そうでもない人もいるんだよ。見てないと不安だとか。君みたいに嫌がる人も多いけどね。――はい、もう大丈夫だよ、手を開いて」


 翼状針からホルダーへ繋がった管に、静脈血が順調に吸い込まれていく。紗代が肩の力を抜いた頃に採血管がいっぱいになって、採血は無事に完了した。


「お疲れ様。ご褒美に紗代の食べたいものを夕食に作ってあげるよ。何がいい?」


 陽樹も安心が顔の緩みになって出てしまう。針を抜いてから紗代の頭を軽く撫でて尋ねると、紗代は少し考えて、すぐに目を輝かせた。


「カレーがいい。野菜が小さく角切りになってるのじゃなくて、ごろごろしてるやつ。……何を笑ってるのよ」


「うん、何でもない。ごろごろ野菜のカレーだね。わかるよ。なんかここのカレーって野菜が溶けてる感じだもんね。美味しいことは美味しいけど、いかにもレトルトって感じで家庭のカレー感はないよね。了解、今日の夕飯は期待してて」


「陽樹は料理が得意なの?」


 妙に自信ありげな陽樹の様子に、段々期待が増してきたのだろう。採血の痕を自分で押さえながら紗代は尋ねた。


「そうだね。『調理関係の仕事をしていない独身男性』という括りで見たら、僕は相当上位に入れるくらいの料理の腕前はあると思うよ。自分で工夫して作るのも楽しいんだけど、僕の作ったものを食べて人が喜んでくれるのが好きなんだ。

 だから、今日は君が喜んでる顔を見られるように、久々に腕を振るうからね。食べるものは大事だよ。適度な運動をして、美味しいご飯を楽しく食べて、たくさん笑ってきちんと寝る。僕はね、それが健康に過ごす一番の近道だと思う。近道だけど、それができる人は多くないけどね」


「そんなもの?」


 きょとんとしている紗代の頭を、陽樹はもう一度撫でた。さらさらとした髪の手触りが気持ちいい。頭を撫でることは最初こそ嫌がられたが、思ったよりも早く受け入れられた。紗代も時折心地良さげに目を細めているときがあって、そんな彼女を見ると陽樹の胸の奥は不思議にうずく。


「君も知ってるはずだよ。最近はやっと笑顔を見られるようになったけど、僕が来るまで君は笑っていたかい?」


「それは……」


「下手をすると、用事がなければ永井くんと口をきかない日もあったんじゃないのかな」


「見てきたように言うね」


 僅かに声のトーンを下げた紗代の目尻に陽樹は指を滑らせる。驚いている彼女をみつめながら、陽樹は微笑んだ。


「ここにね、いつか笑い皺ができるくらいたくさん笑って欲しいんだ。君は確かに病気はしなかったかもしれないけど、それと心が健康であることは少し違うから」


 陽樹が笑ってみせると、目の横に笑い皺ができる理由がわかったのだろう。紗代は瞼を震わせて少し苦しげな顔をし、視線を下にずらした。


「……慣れないなあ。そんなに近い距離で笑いかけられて、頭を撫でられて。子供にでもなった気分」


「気を悪くしたなら謝るよ。僕は君を子供扱いしてるつもりじゃないから」


「わかってる。慣れてないだけだから。そんなに嫌なわけじゃない。――ただ、思い出すの。昔は陽樹のように頭を撫でてくれた人がいたことを。あの頃は、確かに私は声を上げて笑ってた」


 彼女の声は落ち着いていたが、その中には悲しげな響きが滲んでいた。紗代は自分の目尻に置かれた陽樹の指を手で包み込み、一度目を閉じた。今はもう彼女の思い出の中にしかいない人を想っているのだろう。


「陽樹の手は温かいね。人の手が温かいことも、私はいつの間にか忘れてた。

 ここに来る前は、お父さんがいてお母さんがいて、怒ったり笑ったりしながら毎日過ごしてた。子供の私から見ても、周りの人と比べてふたりとも綺麗だった。でも、何が特別って事もなくて、普通の人だったと思う。

 お婆ちゃんが作ってくれたいなり寿司を持って皆で花見をしたり、雪が降ったらかまくらを作ったり、夏にはよく川へ遊びに行ったりした。パンツまで脱いで裸で泳いでたんだよ? 今から考えたら信じられないよね」


「君のお婆さん、って?」


 紗代の祖父母もまた純粋な貴種だし、貴種は紗代の両親以外はここで暮らしていたはずだ。紗代が生まれた頃には既に亡くなっていた人もいたが、外の世界で彼女の両親と一緒に祖母がいたはずはなかった。


「私が小学校へ入学する前に、初めてランドセルを見せたら凄く喜んでたんだ。でも、あの人は本当は私の祖母じゃなかったんだよね……どうして両親と一緒にいて、家族のようにしていたかはわからない。私が事故に遭う少し前に死んでしまったから。

 でも、両親と祖母と私は、仲が良くて幸せな家族だったと思う。――ちょっと、陽樹が泣かないでよ」


 紗代の声に不機嫌さが滲む。自分が哀れまれたと思ったのかもしれない。陽樹は頭を振って、涙を流しながら紗代に向かって微笑みかけた。


「……よかった」


「よかった?」


「君が、幸せな記憶を持っていて良かった。奪われてきただけじゃなくて、人なら当たり前に受け取っていいはずの幸せを知っていて良かった。

 僕は君にとってはただの他人で、貴種ですらないけども。それでも、君に幸せでいて欲しいって思ってる。だから、ここでいろいろなことをして一緒に笑おう?」


 陽樹を目の中に映しながら、紗代の目にも涙が滲んだ。慌ててそれを指で拭って、彼女はそっぽを向いてみせる。


「陽樹は、他の人間と違うね。やっぱり変」


「そうかな。君から見て特別だって意味なら嬉しいよ。――ごめん、もうすぐ回収が来るから準備しないと。

 今日のカレー、本当に頑張って作るからね」


「うん。凄く楽しみ」


 ぎこちないながらも紗代が笑いかけてきた。それに笑い返して、陽樹は手の甲で涙を拭う。

 紗代には幸せでいて欲しいのだ。心の底からそう思う。彼女が笑うところを、陽樹は側で見ていたかった。



 最寄り駅からこの研究所までは車で三十分ほどかかる。あらかじめ回収の時間が決まっていたので、陽樹はそれに合わせて自分も外出できるように準備を整えて待機していた。

 時間通りにインターフォンが鳴り、永井から借り受けていた鍵を持って陽樹は玄関へ向かった。ガチャリと音を立てて重い手応えの鍵を回す。


「こんにちは。ブラッド・ピットです」


「うわっ!?」


 ドアを開けた瞬間、ドアの陰から陽樹と変わらないほどの長身の人影が滑り込んできて、陽樹は声を上げて後ずさった。

 そんな陽樹の反応を見て、自称ブラッド・ピットがニヤリと笑う。年齢は五十歳ほどだろうか、昭和の映画スターのような存在感を放つ男性が、スリーピースのスーツをびしりと着込み、見るからに質のよいマフラーを巻いて帽子を片手に立っていた。

 街中を歩いていたら、恐ろしく目立つこと間違いない。ダンディを絵に描いたような出で立ちだが、中身はそうでないらしいことは出会った瞬間にわかってしまった。


「君が新しい医師だね? 俺はブラッド・ピット――でもレオナルド・ディカプリオでもジョニー・デップでもなく中河内なかごうち健一郎けんいちろうという。まあ、ここの関係者で半貴種だよ。驚いたかい?」


 帽子を胸に当てて一礼した男性がパチリとウインクをする。そんな仕草のひとつひとつが胡散臭いほど様になっていた。


「……どこから突っ込んでいいかわからないくらい驚いた……そもそも、ディカプリオとか全然似てないんですけど。ジョニー・デップというか、ジャック・スパローだったらわかりますが」


「うむ、なかなかのリアクションだな。気に入ったよ」


 クックックと喉を鳴らして健一郎が笑う。半貴種というからには彼も見た目通りの年齢ではないはずだ。貴種の女性が中河内家の男性との間に子を成した話は永井から聞いていたし、中河内という姓からしても彼がその「子供」に間違いないだろう。


「こんな古典的な方法今更で驚かされるなんて……ああ、すみません。僕は香川陽樹といいます。中河内さんの仰る通り、新任の医師です」


 悔しがった後に礼儀正しく自己紹介をした陽樹に向かって、健一郎は目を細めた。


「うん。なんというかな、永井の時も面白かったが、君の悔しがった顔もいいな。なんだか妙に懐かしく感じる。君、貴種と間違えられたことはないかな? いやー、愚問か、俺以外には紗代しかそんなことしそうな奴はいないからねえ」


 嬉しそうな健一郎の様子に、陽樹も怒る気になれなかった。元々他愛ない悪戯なのだ。初対面ではあるが健一郎には憎めない雰囲気がある。


「実際に間違えられましたよ、紗代に」


「ほう?」


 健一郎の目がきらりと輝く。陽樹に対する好奇心が全く隠せていなくて、厄介な相手に気に入られた事を陽樹はうっすらと感じ取っていた。

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