第2話
陽樹は無言で自室へ戻り、コートを手にして紗代の元へと戻った。
「分厚い膝掛けでもあったら良かったのかもしれないけど。これ、着てて」
紗代の肩に黒いコートを羽織らせる。紗代は華奢だが小柄ではない。自分との身長差をみると百六十センチほどあるだろうか。それでも陽樹のコートを着せると笑えるほどに肩幅と袖が余った。
「……ありがとう」
俯いて紗代がぼそりと礼を言った。触れた手が酷く冷たかったので、包み込むようにして握りしめる。自分でも寒いと思っていたのだろう。陽樹の手の温かさが心地よいのか、紗代はおとなしく陽樹に手を握らせていた。
「飛行機を見たら中へ戻ろう。明日からは君も最初からコートを着て外へ出ること。いいかい?」
「持ってない」
「何を?」
「コート」
「なんで!?」
思わず大声を上げてしまった陽樹を紗代が不思議そうに見返してくる。陽樹は未だ耳を疑っていた。
「なんでそんなに驚くの?」
「驚くよ!」
「私はここから出られないんだから、室内用の服しか持ってない。コートを着てたのは、幼稚園まで」
「あっ、なるほど……そういうことか。でも不測の事態で暖房が使えなくなることがあるかもしれないし、防寒着は持ってないといけないね。永井くん、そういうこと気づいてなさそうだな」
「多分あの人、私がコートを持っていないことすら知らないと思うよ。――あ、見えた」
紗代が指さした方角の空に、小さな機影が見えた。相当遠いのだろう、円形に切り取られた空をゆっくりと横切って、後には一筋の飛行機雲が残る。
「……紗代さん」
「うん、わかってる」
陽樹が促すと名残惜しげに紗代は立ち上がって、肩に掛かったコートを脱ごうとした。
「まだ着ていて。それと、一緒にダイニングへ行って温かいものを飲もう」
「そうだね。……暖かかった。ありがとう」
陽樹のコートの前を掻き合わせて、紗代は微笑んだ。紗代の笑みに昨日よりも距離が縮まったのを感じながら、自分は彼女のためにここにいるのだということを陽樹は改めて考えた。
大学であのまま研究を続けているよりも、顔が見える誰かのために在るということは思ったより意味のあることだった。そして紗代が抱えた傷が全て陽樹に見えているわけではないが、ここで彼女を見守っていたいと僅かな間に思うようになっている。
「落ち着いたらふたりでできる遊びでもしようか。トランプならあるけど、将棋とかチェスとか今度用意しようか?」
「トランプ……ババ抜きでもするの?」
「ふたりじゃ成立しないね。ポーカーとかスピードとかならどうかな」
ほんの少し暖かいだけの廊下の空気にほっとしながら、ふたりは並んでダイニングへと向かった。
ここではついぞ聞いたことがなかった賑やかな声とその声の元の光景に、永井は驚いて立ち止まった。
バタバタとせわしない音を立ててテーブルを行き交うふたりの手。紗代の手元に置かれたトランプの最後の一枚が山に重なると、陽樹がオーバーリアクションでテーブルに伏して声を上げた。
「ああーっ! 惜しいところまで行ったのに! 今回こそ勝てると思ったのに!」
「また私の勝ち!」
「紗代ずるいよ、手の速さが僕と違う! スピードで勝てるわけない!」
「手加減しなくていいと言ったのは陽樹でしょ。私は別にトランプやるなら神経衰弱でもポーカーでも構わないけど?」
楽しげにしている紗代を永井は初めて見た。もちろんそれにも驚いたが、朝食から昼までの僅かな時間でふたりがお互いを呼び捨てにしていることには目を限界まで見開くほど驚いていた。
「おまえたち、随分と仲良くなったな」
声を掛けてやっと陽樹が永井に気づいて振り向く。手元で音を立ててトランプをシャッフルしながら陽樹は永井を呼び寄せた。
「永井くん、いいところに来た! ババ抜きしよう!」
「ババ抜き? 俺は昼食を食べに来たんだが」
「あれ、もうそんな時間か。昼ご飯の後に永井くんも付き合ってよ。一対一のゲームじゃ紗代に太刀打ちできないんだ。もうちょっと運の要素のあるゲームをしたいけど、僕の知ってるのではふたりだとできないのばかりで」
「ここでずっとトランプをしてたのか?」
「今お昼だよね。二時間ちょっとかな。大人になってからやると熱いものだね。すっかりヒートアップしちゃったよ」
「その間に呼び捨てになったのか」
陽樹と紗代はふたり揃って、なにが? という視線を永井に向けた。気づいていないのか、と永井は口を開けて呆れる。改めてふたりがお互いに名前を呼び捨てにしあっていることを永井が指摘すると、陽樹と紗代はようやくそれに気づいたのか、首をひねって悩み始めた。
「違和感がなかった……いつからだろ」
「僕も全然記憶がないな。途中から結構興奮してたからその辺りかな? 僕は陽樹で構わないよ。むしろ先生って言われる方が少しむずむずしてたから」
「私も別に構わない。永井さんにも呼び捨てにされてるし。こんなゲームをしたのは久し振りだなあ。なんだか凄く懐かしかった」
紗代が表情を和ませていて、陽樹が笑ってそれを見ている。まるで長い間そうしてきたかのように向かい合っているふたりを見ていると、永井にもそれは懐かしい光景のような気がした。
「いいんじゃないか。確かに俺も紗代の事は初対面から呼び捨てだ」
「なんだろう、そっちも違和感ないね。それじゃあ、永井くんもやろうよ、大富豪」
「俺は誰かと違って勤務中だ」
「僕だってここでは二十四時間三百六十五日勤務中だと思ってるよ」
「いいことを言った感じだが、ドヤ顔なのが腹が立つな。一ゲームだけだぞ」
「革命あり八流しありで。永井くんが大貧民になってるうちは抜けさせないからね。よーし、勝つぞー」
プラスチックのトランプが卓上を滑ってくる。紗代どころか、陽樹がこんなに屈託のない表情を見せているのも学生時代以来だと気づいて、永井はトランプを受け取りながら自らも口元を綻ばせた。
永井曰く、陽樹がこのラボに来てからは毎日が騒がしくなったらしい。
陽樹は自分が騒がしい人間だとは思わないが、ろくに会話もなかったであろう永井と紗代ふたりきりの時よりは、騒がしいと思われるほど賑やかになったのはいいことだと思っていた。
陽樹が来るまでは、永井は自室で仕事をしているか、時折トレーニング室に置かれた設備で運動をするのがせいぜいで、紗代も図書室かトレーニング室でなければ中庭か自室というくらいに行動が決まりきっていたらしい。
三人で揃い、顔を合わせて食事をするだけでも会話は増える。紗代と永井が距離を探るようにしながら言葉を交わすようになったのは、陽樹にとっては好ましい変化に思えた。
「永井くん」
夕食後に陽樹が深刻極まりない様子で挙手をしたのはそんな折だった。
「なんだ」
ほうじ茶の入っている湯飲みを置いて、永井は陽樹と同じ真顔で返す。
「僕、ここの食事に耐えられない」
陽樹の前に並んだ空の皿に永井と紗代は視線を注いだ。今夜のメニューはマカロニグラタンとかぼちゃのサラダ、軽くトーストされたバゲットにコンソメスープ。それら全てを平らげてからの発言とはふたりには思えなかった。
「足りないの?」
紗代に差し出されたパンを、陽樹は申し訳なさそうに押し戻す。
「いや、量は足りるよ。成人男性用のメニューだし、腹八分目でちょうどいいと思う。一日二日だったらともかく、いや、むしろ毎日ミールセットって栄養的にはいいかもしれないけど、僕は冷凍食品やレトルトをこんなに食べ続けるのは嫌だ! 鮭のムニエル、麻婆豆腐、チキンライスに鶏肉のピカタ! これは全部材料さえあればここのキッチンで作れるんだよ!? だったらここで作ったものを食べたいんだ!」
陽樹の熱弁に永井は嘆息し、紗代は意味がわからないというように首を傾げる。
「おまえは今、忙しい全国の主婦に喧嘩を売ったな」
「ここにいるのは永井くんと僕と紗代だけだよ。主婦いないから」
「グラタン、美味しいと思うけど」
「確かにグラタン結構美味しいね――って、そうじゃなくて。楽なのは間違いないけど、ひと味足りないというか、心が飢えるんだよ。食器も調理器具も一通り揃ってるんだから、材料を用意してここで作ったっていいと思う」
「俺と紗代は料理はできない」
「そう言いながら、永井くんは本気でやればできる人だってことはわかってる。でもまあ、食事でフラストレーション溜めてるのは僕だけみたいだから、僕が料理するよ。永井くんに手間は掛けさせない。
明日採血したの検査に出すけど、街まで車に乗せてもらってくる! 帰りはタクシーで領収書もらってくればいいよね!」
「香川、おまえは暇なのか?」
「おかげさまでふたりとも問題ないし、検査以外はほとんど医師としてはすることがないね。広義に捉えると健康管理が僕の仕事ってことなら、食事の見直しも僕の仕事に含めていいくらいだよ」
「おまえがいいならやればいいじゃないか」
「そうする!」
妙に勢いのある陽樹と投げやりな永井のやりとりを紗代は他人事のように聞きながら、最後に残ったパンを口に入れた。
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