空と夢は遠く

第1話

 紗代の部屋から追い払う口実だったにしろ、永井に粥を作らせたことを後から陽樹は不安になっていた。料理スキルがあまりに低いと、白粥すら作れないと聞いたことがあるのだ。何をどうすると粥にならないという事態が発生するのか陽樹には理解不能だが、失敗料理の多くはできる人間にとっては理解不能な状況で起きるものだ。それに、永井が普段料理などしないことを陽樹は知っていた。

 

 しかし、意外にも永井が作った粥は見るからに美味しそうな卵粥で、塩味も程良く、試食した陽樹はこくこくと頷きながら指でOKサインを出してしまった。一口食べたら自分が空腹であることを思い出したので、自制が働かなかったらそのまま全部食べてしまったかもしれない。


「永井くんが料理できるなんて知らなかったよ。実は焦げたお粥とか出てくるんじゃないかと思って、密かに心配してた」


 半分冗談のつもりで陽樹が言った言葉に、永井がなんともいえない表情を返してくる。想定外にうまくできてしまって困惑しているのは、陽樹よりもむしろ本人らしかった。


「確かにおまえが知ってる通り、俺は料理を普段は作らない。これは、なんだ、ビギナーズラックというやつだな」


「へえー。それは本物のラッキーだね。永井くんと言えば端の焦げた完熟目玉焼きってイメージが有ったけど。あれかな、永井くんって前世でお粥をたくさん作ったんじゃないの?」


「どんな前世だ。それに、熱があるときに食べやすくて栄養をとれるものといったら、俺ならまず煮込んだうどんだな。材料がないから卵粥にしたが」


「なるほど、うどんか。確かに消化も良いし、病院でも割と出るね」


「こんなことを想定していなかったから、米はともかく、牛乳と卵とジュースくらいしか冷蔵庫になくてな。卵もたまたま最近買ったから入ってたが、一ヶ月くらいないときもある」


 永井の告白に陽樹は目を剥いた。食に無頓着だとは思っていたが、ここまで酷いとは思わなかった。陽樹が引いているのを察したのか、永井はばつが悪そうに目を逸らす。


「……もう少し、備蓄食品のことを考え直すことにする」


「そうしよう! 僕は喉が痛いときに『スケジュール通りにトースト』とか嫌だから!」


 せっかくの粥が冷めないうちにと紗代のところへ運ぶと、彼女は陽樹に言われた通りにおとなしく横になっていた。粥の匂いに気づいたのか、ひくりと鼻を動かして体を起こす。


「お腹空いただろう? 永井くんがお粥を作ってくれたから、食べられるだけ食べて」


 小さな土鍋の蓋を開けると湯気とともに香りが広がって、紗代が土鍋を覗き込んできた。しかし、永井が作ったと聞いてしきりに瞬きをしながら陽樹に尋ねてくる。


「永井さんがこれを? あの人、料理できたの?」


「全く同じ感想を僕も持ったんだけどね。さっき味見させてもらったけど、安心していいから。はい、どうぞ」


 茶碗に少し取り分けて冷ましたものを、れんげで紗代の口元に差し出す。紗代は成り行きのままにぱくりと食いついた次の瞬間に、あからさまに「しまった」という顔をした。


「……笑わないでよ」


 鳥の雛のように口を開けた紗代を見て、陽樹は満面の笑顔を浮かべてしまう。からかっているわけではなく、悪戯をしたつもりもない。自分の差し出したれんげを紗代が口に入れてくれたことが嬉しかった。


「ごめん、凄く嬉しくて」


 もう一口分の粥を差し出すと、紗代は一瞬ためらった後に、渋々口を開けた。


「これも先生の仕事のうち?」


「どっちかというと趣味かな」


「悪趣味」


 憎まれ口を叩きつつも、紗代は逆らわずに粥を食べている。


「味はどう?」


「意外に美味しい。卵がふわふわしてるし、塩味がちょうどいい」


「そうだよね。もっと食べられる?」


「うん」


 それ以上はあまり話さずに、陽樹は紗代に粥を食べさせ続けた。一口一口、紗代が自分の差し出すれんげから食べている様を見ているだけで胸が温かくなって、自然と頬は緩んだ。


「……先生」


 紗代に声を掛けられて手を止める。彼女の目が自分をみつめているのに気づいて、自分の目がなんだか痛いことに疑問を持った。


「なんで、泣いてるの?」


「えっ、僕?」


 茶碗とれんげをワゴンに置き、慌てて手で頬を探った。目が痛いと思ったのは、涙が流れていたからだったらしい。紗代の言った通りに、知らぬ間に陽樹は涙を流していた。


「変だな、なんで泣いてるんだろう」


 自分の心を探ってみるが、様々な感情がうねり、混ざっていて、自分でもわけがわからなかった。

 けれど、大きな塊になっているものはいくつかわかる。紗代の様子を可愛らしいと思っている気持ちと、嬉しい気持ち。そして、懐かしさ。


「あとは、自分で食べられるから」


 陽樹にティッシュを差し出しながら紗代が言った。それを受け取って涙を拭い、陽樹はもう一度茶碗を手にする。


「なんかね、僕はこうしてるのが凄く嬉しいんだ。自分でも把握しきれないくらい、凄く凄く嬉しくて涙が出たんじゃないかと思う。

 君が高熱を出して苦しんでるのを見た瞬間、心臓がすっと冷えて……とても怖かった。

 僕、君に避けられてたから、嫌われてるんじゃないかと思った。本当のところはどうかわからないけど、君がこうして僕の手から食べてくれてるのが嬉しい」


 またほろりと涙が頬を伝った。自分で食べられると言われたのを敢えて無視してれんげを差し出すと、紗代は仕方ないという様子を隠さずに口を開ける。


「……別に、嫌ってるわけじゃない。そもそも嫌うほど先生のことを知ってるわけじゃないし」


「そうかい? 誰かを嫌うのも、好きになるのも一瞬でできるよ。だから僕は、食事の席に全然君が来なかったから、避けられてるんだと思ったし。そうだ、これからは時間を決めて、食事は皆で一緒に食べよう」


「えっ、そんなことをいちいち決めるの?」


「いや、むしろそれだけ守ってくれたらいい。決まった時間に出てこなかったら、何かがあったかもしれないとわかるしね。君だけじゃなくて僕と永井くんだって、部屋で動けなくなる可能性はあるんだから」


 粥を飲み込みながら紗代の目がくるくると動いた。やがて、控えめに頷いてみせる。


「ありがとう。紗代さんはいい子だね。――しまった、子供扱いしちゃいけなかった。僕より年上だもんね」


「私は……自分を大人だと思えたことはない。外見の成長が止まったのと一緒に、心も成長しなくなった気がする。お爺ちゃんたちが生きてた頃はそれこそずっと子供扱いだったし」


「そっか。ねえ、僕がここに来るまでの君のこと、聞かせて欲しい。今日じゃなくて、気が向いたらでいいんだ。今日はお粥を食べたらゆっくり眠って。今のところ熱は下がってるけど、夜中にまた熱が出たりするかもしれないから。

 もし具合がおかしいと思ったら、すぐにコールボタンを押すんだよ。しつこく言うけど遠慮とかしちゃ駄目だ。僕はそのためにここにいるんだから」


「わかった」


「もっと食べられるかい?」


「全部食べる」


「はい、どうぞ」


 笑顔でれんげを向けてくる陽樹を紗代はしばらくみつめた後、諦めたようにため息をつき、雛鳥のように口を開けた。

 陽樹はそれ以上紗代に話しかけることはせずに、温かな気持ちを味わいながら紗代が食べ終わるまで傍らで手を動かし続けた。



 翌日の朝食は三人で揃って摂った。人が揃うだけで味気なかった食事もだいぶましになったし、紗代がすっかり復調した様子でいるので陽樹は胸を撫で下ろしていた。

 発熱の原因ははっきりとはわからず、心因性発熱――いわゆる大人の知恵熱なのではないかと説明すると、紗代は納得していた。彼女なりに何か思い悩んだ心当たりがあるのだろう。

 その紗代がまた中庭にいるのを見かけたのは、朝の冷気も抜けきらない内だ。


「寒くないかい?」


 紗代を驚かせないように遠くから声を掛け、陽樹は紗代の隣に腰掛けた。木で作られたベンチは夜露を吸ったのかひんやりと凍ったように冷たく、昨日高熱を出していた紗代がいるにはあまり具合が良くない。


「今日は平熱だったけど、四十度なんてとんでもない熱が出たばかりなんだよ。体が冷えると良くない。中へ入ろう」


 陽樹に声を掛けられ、紗代は微かに眉を寄せる。彼女の膝の上には本が置かれていたが表紙は閉じたままで、それが読まれていないことがわかった。


「先生は寒いと思う?」


「えっ? かなり寒いよ! ちょっとの間ならともかく、コートも着ないで外に出る気温じゃないと思う。日光浴もいいけど、体が完全に良くなったって僕が判断してからにして欲しいな。せめて冬の間は厚着して欲しいし」


「……もうすぐ、飛行機が見えるの」


「飛行機?」


 ぽつりと紗代が漏らした言葉に、彼女の膝にある本のタイトルを陽樹は見直した。タイトルから航空力学の入門書だとすぐにわかるハードカバーの本は、相当読み込まれているようで角がすり切れている。


「飛行機が好きなの? これはまた随分本格的な本を読んでるね」


「子供の頃、何も知らなかった頃はスチュワーデスかパイロットになりたかった。飛行機に乗ってみたかった。今はここで、遠くに見える飛行機を見るのだけが私の楽しみ」


 紗代の言葉は静かで、それが余計に陽樹の胸を締め付ける。ぐるりと建物に囲まれた中庭は直接冷たい風が吹き付けてくるわけではないが、それでも日陰の部分には立派な霜柱が残っていた。その程度には寒いのだ。


 将来の夢を語るようになったのはいつ頃だろうか。陽樹が覚えている限りは、幼稚園の頃から幼いながらに夢を語っていたような気がする。野球選手、ヒーロー、ケーキ屋さん、周りの子供たちはいろいろな夢を持っていた。



 紗代は、その夢を見続けることすら許されなかったのだ。新しい夢を見つけたり、自分では無理だと思って諦めたのとは違う、理不尽に断ち切られた夢。

 ぎゅう、と胃の奥を握られたような苦痛を陽樹は感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る