第5話

 点滴の用意を手早く進める陽樹の横で、永井が蒼白になってそれを見守っている。 

「永井くん、一応聞いておくけどこんなことは初めて……だよね。その様子からすると」


「初めてだ。本当に軽い風邪ひとつひいたことがなかった。おまえ、外から変なウイルスを持ち込んだんじゃないだろうな!?」


 紗代とは敢えて距離をとっているはずの永井が、心配を露わにして落ち着かない様子でいた。永井は決して紗代に対して無関心だったのではないのだと、陽樹はそれではっきりとわかった。


「僕は防疫は気をつけてるよ。特に、君たちインフルエンザの予防接種もしなかったって聞いてたからね。ていうか、僕を疑ってるけど、運送会社の人とかも普通に来てるよね? 管理ガバガバのくせに僕のせいにしないで欲しいな。

 急激な高熱は今の時期はインフルエンザが一番怪しいけど簡易検査は一応陰性だったし……まだ検査で出るほどウイルスが多くないってこともあるから、念のため永井くんは離れてて」


「だが……」


「君が紗代さんを心配してるのはわかってる。でもインフルエンザの可能性も捨てきれない以上、患者は増やしたくないんだ。四十度超してるから点滴に解熱剤入れるけど、もしかしたら熱が下がって目が覚めたときにお腹空かせてるかもしれないから、永井くんはお粥作っておいてよ」


「わかった」


 陽樹に言い含められ、本当に渋々と永井は部屋から出て行った。点滴の準備を終えて、陽樹は布団の中にあった紗代の腕をそっと外に出す。袖を捲ると籠もったような肌の熱さに比べて、手のひらが冷たい。

 昨日の採血とは違う場所に針を入れて固定すると、紗代が血の気のひいた唇を微かに開いた。


 口を開きはしたが、声は出ていない。今まで閉じられていた目が薄く開いて、熱で潤んだ金色の目がぼんやりと陽樹を捉えた。


「なんだい? もう一回言ってくれる?」


 紗代の口元に耳を寄せると、か細い声で紗代が寒いと囁いた。

 暖房も入っているし、部屋を見回しても今使っている以外の掛布団は見つからない。少し待っててと言い置いて、陽樹は自室から布団を持ってきて紗代に掛けた。

 点滴の管が絡まらないように気をつけて紗代の腕を布団の中へ戻し、肩までしっかりと布団を引き上げてやる。すると、すぐ側にあった紗代の右手が陽樹の手を力なく握った。


 やはり手が冷たい。その手を包み込んで温めていると、紗代が少しほっとしたように息をついた。心細いのか昨日のような険はなく、初めて会ったときのようなすがる表情で陽樹を見ている。


「こうしてると安心する? 大丈夫、君が落ち着くまでここにいるから」


 できるだけ優しい声で、手を握りしめながら幼い子供にするように頭を撫でてやる。紗代は目を閉じて陽樹の手に熱い頬を当てた。


「……さん……もう、どこにも行かないで……」


 掠れた声が紡いだ言葉に陽樹はどきりとした。昨日、陽樹と会話をすることすら拒んだ彼女らしくない。熱で気が弱っているせいなのだろうか。


「えっ? ――ああ、うん。ここにいる。大丈夫だよ」


「ほんとうに?」


「ひとりにしたりしないよ。約束するから」


「ひとりで……ずっとさびしかった……」


「そうだね、やっぱり寂しかったよね。――ごめんね、紗代」


 紗代を安心させようとすることに気をとられて、自分の口からするりと出た言葉に陽樹は意識が向かなかった。

 疲れたのだろうか、陽樹の手を握りしめたままで紗代が目を閉じる。

 紗代が眠りに就いても、陽樹は何故かその手を離す気になれなかった。



 体を揺すぶられて陽樹は目を覚ました。紗代の手を握ったままで、ベッドの端に頭を乗せていつの間にか眠ってしまったらしい。慌てて管の途中まで血が逆流している点滴を片手で止めて、もう片方の手がまだ紗代の手を握っていることに気づいた。

 手をしっかりと陽樹に握られたままで困惑しきった顔の紗代が、自由になる左手で陽樹の肩を掴んでいた。熱は大分下がったのか、顔色も悪くはない。


「先生、ずっと、ここにいたの?」


 紗代の手を離して伸びをすると背中がぼきぼきと音を立てた。時計を見ると既に夕方に近い時間になっている。


「うん、君がどこにも行かないでくれって言ったしね」


「私が? そんなこと言ってた?」


「覚えてないかな。まあ、熱が高かったからね。熱が高いと変な夢を見たりするし、気にしなくていいよ。気分はどう?」


 紗代はじっと自分をみつめる陽樹の視線を受け止めて、ややあってからぽつりと呟いた。


「喉が渇いた」


「わかった。水を持ってくるよ。その間に体温を測ってて」


 少し古い形の体温計を紗代に差し出すと、おとなしく彼女はそれを脇に挟む。それを見届けて陽樹は部屋を出た。

 紗代の部屋の外にはワゴンがあり、上にスポーツドリンクと水が置かれていた。永井が気を利かせたのだろう。彼の機転に感謝しつつ、それらを持って紗代の元へと戻る。


 コップに水を注いで手渡すと、紗代は喉を鳴らしてそれを飲み干した。体温計が示しているのは紗代の平熱より少しだけ高い数値だった。


「よかった。一気に下がったね。汗をかいたせいもあるんだろうけど。ああ、体を拭いて着替えた方がいいな。着替えはどこに入ってるかな。勝手に出していい?」


 点滴を抜きながら尋ねると、紗代は眉を寄せている。


「自分でできる。ていうか、ちょっとは遠慮してよ。子供っぽく見えるかもしれないけど女性の部屋なんだから」


「紗代さん、君はまだ寝てなきゃ駄目だ。君がご飯を食べに来ないから押しかけてみたら、高熱を出して寝込んでたなんて……僕は心臓が止まるかと思ったよ。いつから具合が悪くなったんだい?」


 陽樹の少し怒ったような言葉に紗代がうなだれた。


「昨日はなんともなかった。今朝になったら熱が出てて、動けなくなってて」


「ところで、君の枕の側にあるコールボタンは何のためにあるのかな?」


「…………」


 紗代が助けを呼ばなかったことについて腹立たしさを感じて意地悪く指摘すると、気まずそうに彼女は口をつぐんだ。


「やっぱり貴種も病気になるんだよ。インフルエンザではないと思うけど、しばらく様子を見ないとね。で、着替えはどこ?」


 紗代の反論を封じるように言うと、紗代が観念したようにクローゼットの一番下の段を指さした。



 熱い湯を洗面器に入れ、タオルを持って陽樹が戻ると、紗代はベッドで上半身を起こしていた。顔色は戻っているが、まだ油断は出来ない。


「洗面器とタオルはこのワゴンの上に置いておくから。お湯やタオルが足りなかったら声を掛けてくれれば用意するから、無理にシャワーを浴びようとしちゃ駄目だよ。体を拭いたらちゃんとここに出してある乾いた服に着替えて、冷えないようにおとなしく寝ていること。それと――」


「お母さんみたい……」


 いかにも辟易しましたという声が陽樹の言葉を遮り、彼女の整った顔の中で眉が下がった。その反応は決していいものではなかったけども、陽樹を安心させた。

 少なくとも彼女は、外見で陽樹を評価していない。世話焼きが祟って友人たちに「おかん」呼ばわりされたことは一度や二度ではないし、陽樹にとっては不本意ながらも馴染んだ言われようだったからだ。


「ははは」


 お母さんみたいと言われて喜ぶ自分は奇妙だろうと思いながらも、思わず笑いがこぼれてしまう。案の定、気の抜けた顔で笑う陽樹を紗代は不思議そうに見遣っていた。


「よく言われるんだ、それ。僕も言い方が悪かったよ。もっと医者っぽく言った方がいい?」


「……皮肉が通じないとか」


「皮肉と言うより本心っぽく聞こえたからね。これでも皮肉も嫌味も言われ慣れてるから、悪意があるかどうかはわかるつもりだよ。

 昨日も言ったけど、僕は君と仲良くしたい。多分、僕たちの付き合いは長くなると思うから。お互いに遠慮しないで、何か困ったことがあったらすぐに頼って欲しいんだ。そのために僕はここにいるんだし、一緒に生活していく中で僕も君に助けてもらうことがあるかもしれないからね」


「先生、面の皮が厚いって言われることは?」


「うん、今のは皮肉だね。それも割と言われ慣れてる。そうだなあ、君に貴種と間違えられるほど顔がいいせいで、面倒の多い人生を送ってきたよ。おかげで、面の皮も鍛えられた」


 微笑む陽樹の顔を紗代はじっと見上げている。光の加減で今は茶色に見える目は、陽樹の本心を探ろうとしているようだった。


「僕は別に自分を取り繕うつもりも、君を騙すつもりもないよ。ここに勤務する人間がどういう扱いでやってきたか、気づいてないわけじゃないだろう? 紗代さんには悪いけど、ここは『流刑地』であり、『シェルター』だ。そんなところで、素を出さないで肩が凝るような日常は送りたくないからね」


「変な人」


 長い睫毛を伏せて紗代がぽつりと呟く。もう皮肉を言うつもりもないのか、それもまた彼女の素に見えた。


「出会ってから日が浅いのに僕のことを外見で判断しない紗代さんも、僕が今まで出会ってきた中では変わった人ランキングの上位に入るよ」


「外見? ああ、だって、外見がいいのは見慣れてるもの。少ない職員以外はここは貴種ばかりだったから」


「なるほど、凄く納得した。君にとっては僕は『普通』なんだね」


「普通じゃない。先生は変な人」


「はいはい、変な人でいいよ。さて、あんまり喋りすぎて疲れても困るね。顔色は大分よくなったけど、熱がぶり返しても困る。いいかい、体を拭き終わって着替えたら、ちゃんと布団に入ってコールボタンで僕を呼ぶこと。約束」


 いい加減に陽樹の性分がわかってきて諦めが出たのか、紗代はおとなしくこくりと頷いた。そして、自分に掛けられている布団に触れて手を止め、もう一度陽樹を見上げる。


「あれ、布団……どうして二枚?」


「僕がここに来たときに、紗代さんは発熱してうなされながら酷く寒がっていたんだよ。だけど他に掛ける物が見当たらなかったから、僕の部屋から持ってきた。――あ、ごめん。二日使ったけど急いでたからカバーとかそのままなんだ。三十男の布団とか気になるよね? 寒くないようならもう片付けるよ」


 慌てて上側の布団に手を掛けると、紗代が小さく首を振った。


「別に、嫌だとかじゃない。今ちょうど温かいから、夜までこのまま貸して」


「わかったよ。それじゃあ、僕は外に出ているから」


 紗代の傍らから立ち上がり寝室を出ようとしたとき、背後から小さな声で紗代が陽樹に向かって声を掛けた。


「……ありがと」

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