第4話

 翌日、陽樹は身支度を整えると鏡に映る自分を確認して、両手で頬を叩いて気合いを入れていた。

 今日からはある程度の手術まではできるほどの設備を持った医務室が、陽樹の仕事場になる。けれど、医務室でなければできないことよりも、今は紗代と接することの方が大事なことに思えた。


 昨日は紗代に見事に避けられた。今日こそはなんとかコミュニケーションをとろうと心に決めている。

 食事は時間の目安はつけているが永井と紗代ふたりきりの時は各々が好きな時間に食べていたらしい。運悪く陽樹が自室の整理をしている間に紗代は食事をとってしまったらしく、彼女の姿を見かけることはできなかった。


 

 居住用の区画にある一室に私物が運び込まれていたので、それを簡単に整理しているだけで結局初日は終わってしまった。

 永井に部屋を案内された時、陽樹は少なからず驚いた。風呂もトイレも完備の個室は、リビングと寝室も分かれていてかなりゆとりがある。ベッドは備え付けのものだったが、サイズはセミダブルだったし、永井が言うには新しい入居者のためにマットレスは新品を用意したらしい。下手なホテルよりは余程豪華だった。


 中河内製薬ありがとう、と陽樹は思わず心の中で合掌した。そして、職員や備品を含めてあらゆるものが結局は紗代を守るために存在しているのだと思い至って、彼女がどれだけ重いものを背負っているかに改めて気づいた。

 親から引き離され、ここで出会った身内とは次々と死に別れてきた少女。その孤独を思えば、紗代が人に接したがらないのもわかる気がする。

 だからこそ、彼女の傷とこれから過ごすはずの長い生を考えたときに、紗代にとって心を許せる存在になりたいと思った。


 ひとりで生きていくには、その生は長すぎる。


 

 いくつかの器具を乗せたワゴンを押して、陽樹は紗代の部屋を訪ねていた。ノックをすると少しの間が開いて、「なに」という素っ気ない声が返ってくる。


「紗代さん、開けてもらえるかな。健康診断をしたいんだけど」


「……必要ないって昨日も言ったでしょ」


 軽く不機嫌さを滲ませた低い声。昨日の態度から予想していた通りだったので、陽樹は思わず苦笑した。


「必要かどうかは僕が判断することだよ。問診と簡単な診察と採血とかだけだから。ね?」


「私は風邪もほとんどひいたことないし、病気の心配はないから」


「それは凄いね。でも、風邪なんて誰でもひくものだし、貴種だからって病気に全くならないってことはないだろう? 僕もちゃんとデータは目を通してきたからね。

 病気はなってから治すより、ならないように予防するのが一番なんだよ。だから僕の主な仕事は、君が病気になったときに治療することじゃなくて、君が病気にならないように健康管理をすることだ。

 僕にちゃんと仕事をさせてくれないかな」


 理路整然と並べ立てた最後に、ダメ押しでお願いの体をとってみる。なんとなく紗代はお願いに弱そうな気がしたのだ。陽樹の読みが当たったのか、ドア越しに深い深いため息が聞こえてから、ドアがゆっくりと開いた。驚いたことに施錠はされていなかった。


「仕事をさせろと言われたら、どうにもならないでしょ……」


 陽樹と目を合わせずに、渋々紗代は陽樹が部屋に入ることを許してくれた。

 部屋の造りは陽樹の部屋と変わらず、家具も同じだった。そして、驚くほど物が少ない。散らかっているわけでもなく、まめに掃除はしているようだ。そのせいで生活感が薄く、長い間紗代が住んでいるはずの場所なのに、まるでホテルの部屋のように見えた。


 寂しい部屋だ、と陽樹は思う。写真の一枚もなく、紗代の趣味を表すようなものも見当たらない。

 一通りの問診や血圧測定をし、胸部と腹部の簡単な診察をする。紗代はどれも特に問題はなく、陽樹はほっと胸を撫で下ろした。問題は、この先なのだ。


「ごめんね、僕あまり注射がうまくないから」


 採血管を並べながら陽樹が言うと、紗代がびくりと肩を震わせて陽樹の顔を恐る恐る覗き込んできた。彼女を怯えさせてしまったことに申し訳なく思いつつ、紗代がやっと目を合わせてくれたことが嬉しくて陽樹は微笑む。それとは反対に紗代は唇を尖らせた。


「……何を笑ってるのよ」


「ああ、ごめん。やっとまともに顔を見てくれたなと思って。……注射がうまくないから、刺しやすい針を使うから大丈夫だよ、と言おうとしたんだ。そんな顔しないで」


 細い針の手元に持つ部分が鳥の羽のようになっている翼状針を、陽樹は用意していた。普通の針より安定しやすいので、扱いやすいのだ。細い管が繋がった華奢な針を見て、紗代も安堵した様子で肩の力を抜いた。


「血圧は右で測ったから、左腕にしようか、袖を捲ってくれるかな」


 陽樹に言われるがままに紗代は二の腕まで袖を捲る。その腕に古い傷痕が痛々しく残っていた。手首の少し手前から肘近くまでの大きな傷だ。

 その傷について彼女のカルテに記載があった覚えはない。陽樹は一瞬眉をひそめたが、昨日永井から聞いた話を思い出した。おそらく、彼女がここに連れてこられるきっかけになった、事故での傷なのだろう。ここに住んでいて負うような怪我ではないし、このラボに来てからの記載がないことにも符合する。

 紗代に確認しようかとも思ったが、永井から先に彼女の過去について聞いていたとは言い難くて、陽樹は傷についてはは触れないことにした。


「ちょっと腕縛るよ、痛いかもしれないけど我慢して。手をグーにして、ぎゅっと握って……そうそう」


 細い針がきめ細やかな白い肌に食い込んでいく。血管を捉えたという手応え感じて、真空採血管をセットすると暗い色の血がするすると流れ込んできた。――血の色も、人間とは変わらない。余計に目の前にいる紗代が人間ではないということの現実味が薄くなってくる。

 そんなことを考えている間に十分な量の血液が溜まり、久々だったので不安はあったものの、採血は無事に終えることができた。


「ふう……」


「……はぁ」


 互いに向き合ったままで、ふたり揃ってため息をつく。すると紗代があからさまに顔をしかめた。


「……先生がため息をつくのやめて。これから採血の度に不安になるから」


「ごめんごめん。久々だったから僕も緊張しちゃってね。自分の腕で練習してくれば良かったよ。採血は辛くなかったかい?」


「前にしたときより痛くなかった気がする」


「それならよかった。紗代さんの血管は太くて張りがあって逃げなくて、いい血管だから僕も助かったよ」


「血管に良い悪いが?」


「あるある。君も永井くんも細い血管じゃないから本当によかった」


 アルコール綿で採血の痕を押さえながら冗談めかして笑うと、紗代が思いがけず目元を和ませて微笑んだ。陽樹が驚いて紗代の微かな笑顔をみつめていると、慌てたように真顔に戻った紗代は目を逸らした。


「紗代さん、さっきも言ったけど、僕の仕事は君の健康管理だ。君の様子がいつもと違うとか、そういうサインをいち早く見抜かなきゃいけない。だから、普段から君と親しくしていることは大事なことなんだよ。――まあ、それは仕事上の建前なんだけど、僕が君と仲良くしたいと思ってるのは本当のことなんだ。君の気が向いたらお喋りしたり、トランプでもゲームでもいいから一緒に遊んだりしたいな。あ、誓って言うけど、これは別にナンパじゃないからね。君が男性でも女性でも、僕は同じことを言ったよ。ついでに言うと、永井くんも僕の管理対象だから、もちろん彼とも親しくする」


 陽樹の押しの強さに紗代が怯んだ気配が伝わってきた。彼女は人との関わりを拒んではいるが、おそらく繊細さ故に人を傷つけることをどこか恐れている。押し続ければ嫌々ながらも付き合ってくれそうだ。


「……これで、健康診断は終わり?」


 けれど、陽樹のそれ以上の干渉を遮るように、紗代は自分の腕を押さえる陽樹の手を静かに引き剥がすと袖を下ろした。


「終わりだけど、君さえよければ君の話を聞かせて欲しい」


「よくない。私の昔の話なんて面白いことは何もないし」


 紗代のガードが少しは緩んだかと思ったが、声に硬さが戻ってきていた。

 押しすぎたか、と反省しつつ陽樹は名残惜しさを堪えて立ち上がった。



「永井くぅ~ん」


 ダイニングキッチンに入った途端、へにゃへにゃとなっていた陽樹に服の裾を掴まれ、永井は困惑しきった顔で立ち止まった。


「俺はドラえもんじゃない。なんだその呼び方は」


「紗代さんのガードが堅い……僕、思いっきり避けられてる」


 弱気な言葉に肺の底から全ての息を吐き出したような盛大なため息が続いたので、さすがに永井も陽樹を放っておくことができなかったようだ。陽樹が座っている隣の椅子に、苦虫を噛みつぶしたような顔で永井は座った。


「そりゃあ、あんな生い立ちを持ってたらガードが堅くもなるだろう。俺は、敢えてそこを突破しようとは思わなかった」


「でも、僕が信頼を得ることは大事だし、彼女と仲良くしたいんだ」


「応援してるぞ」


「完全に他人事だと思ってるいい笑顔! ちょっとはアドバイスくらいしてくれないのかい!?」


「俺はあいつと親しくない」


「あと、ここの食事は他にやりようがないのかな?」


「いきなり話を変えるな。食事は――昔は調理担当の職員がいた。前の医師がやめて、俺と紗代だけになってからは経費削減でこれになった」


「経費かぁ、重いなあ」


 ここでの食事は一食分ごとにパックされて冷凍されたミールセットだった。レンジで温めるなどのごく簡単な調理だけできちんと栄養管理されたメニューが食べられるというもので、確かにバランスはとれていて便利なのだが、陽樹にはどこか味気なく感じた。長期的にメニューが決まっているので同じ物が続くこともないし、決して味自体は悪いものではない。


 しかし、どうしても陽樹にはこれでは食事がただの生命維持活動にしか思えなくなってしまって、昨日からげんなりとしていたのだ。一品ごとにきちんと皿に盛り付けてみたが、コンビニ弁当を皿に盛ってみましたとでもいうような違和感が拭いきれない。


「俺も紗代も、特にこれに不満はないしな。少なくともあいつから不満を聞いたことはないぞ」


「そりゃあ、永井くんは三食コンビニ弁当どころかカロリーメイトでも気にしない性格だし、紗代さんは不満があってもあの調子じゃ口に出さない気がするよ」


「そうなのかもしれないな。……だが、その気になれば部屋に引きこもりっぱなしになれるが、あいつも食事は毎食きちんと食べてるぞ。明日の朝食からここで待ち伏せしたらどうだ」


「そうか、その手があった」


 今日の夕食もタイミングが合わず、陽樹がダイニングキッチンに来たときには既に一人分の食器が洗ってかごの中に伏せられていた。部屋に突撃しても悪印象が募るばかりなら、偶然を装って一緒に食事を摂った方が良さそうだ。


 しかし、陽樹と永井の思惑は見事に外れた。念のためと思い陽樹は朝五時から待機していたが、十時を過ぎても紗代は現れなかったのだ。


 そんなに自分は避けられているのだろうかと悲しくなりながら陽樹は遅い朝食を食べ、紗代の分を盆に乗せて彼女の部屋へと運んだ。


「おはよう、紗代さん。なかなか来ないから朝ご飯を持ってきたよ」


 ノックしたが中から声は返ってこない。もう一度強めにノックをしても反応はなく、陽樹は女性の部屋に勝手に入ることに罪悪感を感じながらもドアノブに手を掛けた。


 昨日と同じく、やはり施錠はされていなかった。リビングのテーブルの上に盆を置き、今度は寝室のドアを叩く。耳を澄ましていると中から小さな呻きが聞こえて、陽樹は思わず部屋の中に飛び込んでいた。

 常夜灯だけのか細い明かりの中で見えたのは、まだベッドの中にいる紗代だ。近くに寄るまでもなく彼女の息遣いが荒いことがわかって、陽樹は紗代の傍らに駆け寄った。


「紗代さん、どうしたの!?」


 いきなり明るくしては刺激があるかもしれないので、紗代の枕元にあったリモコンを操作して弱い明かりを点ける。陽樹が手を伸ばしても紗代は逃げようともせず、苦しげに目を閉じたままで荒い呼吸を繰り返していた。

 見るからに頬が赤く、発熱しているようだった。額に手を当ててみると、驚くほど熱い。

 次の瞬間には陽樹は身を翻して、紗代の部屋から駆け出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る