第2話


 自分の行動に混乱しつつ陽樹が廊下に戻ると、永井が呆れ顔で腕を組んで待っていた。


「おい、色男。いきなり何をやってるんだ。口説いて振られたのか」


「何を言ってるんだい、永井くん……口説いたりしてないよ」


「話の内容まではわからなかったが、ここからだと言い寄ってるように見えたぞ。俺が山奥にいる間に、初対面の相手の手を握るのがおまえの挨拶になったのか」


「……彼女、僕のことを『あなたは貴種?』って」


 この寂しい気持ちはなんだろうか。力なく呟いた陽樹の言葉に永井が眉を上げる。


「あいつは、自分が最後の貴種だと知っているはずだ」


「じゃあ、なんで」


「知らん。おまえの顔が人間離れして良いからじゃないのか」


「それ、全く褒め言葉じゃないよね。その顔のせいで今回も酷い目に遭ってるんだし」


 眉間にぐっと皺を寄せ、思わず冷たい声が出る。

 顔が良い、イケメン、どちらも聞き飽きた言葉だし言われても嬉しく思えない。学生時代からよく芸能関係にスカウトされていたり、勝手に高校や大学のミスターコンテストにエントリーされていたりもした。


 濡れたような艶のある黒髪に、対照的な白い肌。外国の血が入っていると思われがちな彫りの深い顔立ちはクールに整っていて、黙っていると冷たい印象を周囲に与えてしまう。それに加えて、まともに電車に乗ろうとしたらドアの前面に額がぶつかる高身長が揃えば、何もしなくても周囲に女性が集まり、同性からはやっかみで避けられた。


 永井はその外見での偏見を乗り越えて、親友と呼べる存在になった貴重な人間だ。そんな彼に言われたくない言葉だった。

 なお、永井からの陽樹の評価は「黙っていればクールで格好良く見えるところがシベリアンハスキーだ」というものだ。暗に、喋るとイメージが崩れることも指摘されている。


「悪かった。つまり、客観的におまえの容姿は貴種に間違えられてもおかしくない、と言いたかったんだ」


「……そんな理由にはとても思えなかった」


 思わず吐いたため息に永井のため息も重なった。


「紗代は、いろいろと難しい奴だ。でも……ああ、こんなところで立ち話していることもないな。暖かい部屋で話すか。何か飲みながら」


「それもそうだね」


 紗代はひとりで何をしているのだろうか。気にはなったが着任初日から彼女をしつこく追い回してもいいことはないはずだった。

 十年、二十年、あるいはこの仕事を自ら辞めようと思うまで、彼女とは長い付き合いになるはずなのだから。



 リビングダイニングのような部屋に陽樹は連れてこられていた。研究所というここの名称とはかけ離れていて、暖かみのある木のテーブルと椅子に、柔らかな色合いのソファセット、そして大型のテレビまである。一般家庭にあるものに限りなく近いが、テーブルが大きく、椅子が全部で十脚ある点が大きく違った。


 電気ポットで湯を沸かすと、永井は驚くほど雑な手つきでインスタントコーヒーを二人分淹れた。彼が以前からあまり食べ物に頓着がないことを思い出し、陽樹は軽い頭痛を覚えた。栄養バランスがとれていて空腹感を感じないなら、三食同じ物を食べ続けても気にしないタイプなのだ。嗜好品にもそれほど興味がないから、コーヒーのことも「味がして体が温まればいい」という程度にしか思っていないのだろう。


「貴種についてはどこまで知ってる?」


 薄い泥かというようなコーヒーに砂糖とクリームを適当に入れて、それをまずそうに一口すすってから永井は口を開いた。


「医学的見地の資料しか僕は目を通していない。それ以外の資料は回ってこなかったから」


「俺が着任した三年前には、紗代以外にもふたりの貴種がいた。ひとりは高齢だったが、もうひとりは貴種としてはまだ中年といえる年齢だったはずだ。それが、相次いで亡くなって今では紗代ひとりだ。

 この施設自体は百年以上前からある。建物は五十年ほど前に建て替えた物で、そのときには俺のような職員を含めて十人くらいがここで暮らしていたんだろうな」


 永井の視線がぐるりとリビングを巡って、座る人のいない椅子の上で止まる。

 

「ここはラボと呼ばれているが、俺はホスピスだと思う。――ひとつの種が苦しみから解き放たれて、静かに、そして穏やかに死にゆくための。鍵は厳重だが、逃がさないための鍵じゃない。貴種を守るためのものだ。

 ただ、きっとそう思っているのは、俺と、ここを作った中河内グループの何人かだけなんだろうな。俺の前任者ですらどう思ってたかは知らない」


 湯気の立つコーヒーカップを手のひらで包み込む永井の表情は沈鬱だった。

 永井は辛辣ではあるが、根の部分は誠実だ。曲がったことが嫌いで、不正や不条理を憎んでいる。なまじ能力が高いために、上司の不正を糾弾した結果として会社の大スキャンダルを明るみに出してしまい、上層部から憎まれた。

 エリートコースを歩んでいたはずの彼は、形ばかりの昇進を与えられて出向という体で外に出された。もう元の道に戻ることはないのだろう。


 陽樹もインターンを終えてから大学で助手をしていたが、准教授の最年少記録を出すのではと囁かれている最中に、金と色仕掛けで単位を取ろうとしていた大病院の跡継ぎ娘を拒絶して悪評を立てられた。

 可愛さ余って憎さ百倍なのか、それまで顔を緩めて陽樹の後を追い回していた女子学生から強姦未遂の冤罪を掛けられて、呆れるほど簡単にその職を失った。陽樹を惜しんだのはどこの派閥からも見捨てられた老教授ひとりで、ほとぼりが冷めるまで陽樹が世間の煩わしさから逃げられる場所としてこのラボを紹介してくれたのだ。陽樹の前任者は、二年ほど前に退職していてその間ここに医師は不在だった。


 貴種が一般的に病気になりにくいことと、永井が自己管理に厳しいタイプだったのが救いだ。人里離れた、一般の病院にかかれないわけありの人間がいる施設など、医師なしで立ちゆくわけがない。逆に言えば、それほどここは見放された場所なのだ。


「永井くんは貴種のことに詳しいのかい?」


「まがりなりにも俺はここの所長だぞ。貴種は人間とほとんど見た目が変わらず、寿命が長いことはわかるな?」


「さすがにそれはね。というか、それくらいしか知らない」


「つまり、今おまえがその程度にしか知らないほど、貴種と人間は交わってこなかった。いや、人と一緒に過ごしていても、人間と近すぎて違う生物なのだと認識されなかった。歴史に時々出てくるだろう、あり得ないほどの長寿と言われた人間が。実は複数の人物が同じ名前で呼ばれていたのだとか、実在の人物ではなかったとか言われるような事例。それらの一部は貴種だったのではないかという説がある。例を挙げれば、武内宿禰たけのうちのすくね八百比丘尼やおびくに南光坊天海なんこうぼうてんかいもそうではないのかと言われてる」


「ごめん、話の腰を折って悪いけど、武内宿禰って誰?」


「武内宿禰は、日本書紀や古事記に記述がある。景行天皇から五代の天皇に仕えたと言われ、忠臣の理想像として何度か紙幣の肖像にも使われているな。

 仲哀天皇が神功皇后に神を降ろした際に審神者さにわを務めたという記録があって、大臣であるだけではなくて神託にも関わる存在だった。三百六十年以上生きたと言われているが、本来なら複数の人物の逸話を集めた存在と見なされるところだ」


「えっ、永井くん凄い、君の頭の中ウィキペディアなの!?」


「そんなわけがあるか。俺も興味を持ったから調べたんだ。だから頭にずっと引っかかっていた」


「ああ、なるほど。そういう物ってたまにあるよね」


「八百比丘尼は聞いたことくらいあるだろう」


「小説で読んだなあ。人魚の肉を食べて不老不死を得たっていう話だね」


「貴種は青年期に至るまでは人と同じように成長し、外見の変化がそこで著しく停滞する。青年期と壮年期が極端に長く、中年期以降は急激に老いる。だから、見た目が若いままで年老いることがないと思われることもあったらしい。

 俺がここに来たときは、貴種の中でも長老と呼ばれていた老人がいたが、人間の見た目で言えば百歳近いように感じた。実際には三百歳を超えていたらしいがな。それこそ、武内宿禰もそんな感じだったんじゃないかと思う」


「……ひとつ、聞いていいかい? 紗代さんって何歳?」


 コーヒーカップで手を温めながら、陽樹は永井に向かって身を乗り出した。今永井から聞いた話によれば、貴種の外見年齢と実年齢は青年以降は一致しないということだ。彼女は見た目だけなら成人するかしないかくらいの年齢に見えたが、そうとは限らない。


「紗代は、大体五十歳だな。年齢が推定でしかないのは、ここで生まれたわけじゃないからなんだ。

 そうだな、紗代こそがこのラボの現在の存在理由で、過去に存在した他の貴種はもはやデータという価値でしか存在しない。あいつのことを、俺が知る限り話そう。長い話だから覚悟しろよ」


 泥水コーヒーを飲み下してカップをテーブルに置くと、永井は長い指を組んで遠い目をした。

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