白いホスピス

第1話

 周囲に民家のない山の中腹に建つ研究所ラボは、青く晴れた空に映えていた。

 この建物が建った頃はきっと外壁が真っ白で美しかったのだろう。今は雨の流れた跡が煤けたように残って、時の流れを感じさせている。

 香川陽樹かがわはるきは、今日から自分の職場兼住居となるラボの前で、白い息を吐きながらしみじみと建物を眺めた。コンクリートの門には古めかしいインターフォンがあり、横にある銀色のプレートに中河内なかごうち生化学研究所という名称が刻まれている。


 陽樹の荷物は一緒にタクシーに乗せてきたスーツケースがひとつ。ここで必要と思われた私物は既に宅配便で運び込んである。

 柔らかな皮手袋に包まれた指を伸ばし、インターフォンを押す。少しの間を置いて応答があった。


「新任の香川です。ただいま到着しました」


「今開ける」


 素っ気ないほどの短い言葉の後に、すぐ側から重い音が響いた。内側からの操作か管理用の鍵でしか動作しないようになっている門は物々しく、どこか監獄めいている。

 陽樹が玄関に着く前に、ドアが内側から開いて白髪交じりの栗色の髪が覗いた。それが若白髪であることを陽樹は知っているが、以前にあった時よりも確実に増えているように見えた。


「時間通りだったな」


「山の中だっていうから歩かなくちゃいけないのかと心配したよ。ちゃんと道路が通っていたんだね」


「おまえの頭の中の『山の中』はどうなっているんだ。道路もないのにこんな建物が建つ方がおかしいだろう」


 栗色の髪を持った男性の物言いに、陽樹は苦笑した。


「相変わらず厳しいなあ、永井くんは。久し振りだなの一言もないなんて」


「他人行儀に『新任の香川です』なんて言ったおまえに言われたくない」


「なんだ、拗ねてるのか」


「うるさい、さっさと中に入れ。ドアを開けてると寒いんだ」


 陽樹が中に入ると、永井は内側から鍵を使って施錠した。中から出るにも、外から入るにも、管理者の許可がなくては出入りできない場所だと、その行動ひとつが示している。



 建物は中庭をぐるりと囲むように部屋が配されている。光の差し込む中庭と廊下を隔てるのはガラスで、閉塞感がないようにという配慮なのかもしれなかった。

 何気なくガラス越しに中庭に目をやって、そこに人影があるのを見て陽樹は歩を止めた。

 手を離してしまったスーツケースが音を立てて倒れ、その音に気づいて前を歩いていた永井が立ち止まる。


 

 女性――いや、少女と形容した方ががいいのかもしれない――がひとり、晴れた冬空の下でベンチに腰掛けていた。膝には本が乗っているけども、彼女の目はぼんやりと空に向けられている。

 その姿を目にした途端に、どこかで彼女を見たことがあるような気がした。ぎりりと胸が締め付けられるように痛み、思わず胸に手を当てる。


「あれは……あの子は」


「ああ、こんな寒いのにまた中庭に出てたのか。あれが紗代さよ。この世界にたったひとりの、最後に残った『貴種ノーブル』だ」


「あの子が、貴種ノーブル?」


 倒れたスーツケースをそのままに、陽樹はガラスに手を当ててその姿をみつめた。陽樹は貴種という存在は知っていたけども、それはあくまで書物から得た知識の中の物でしかない。



 堕ちた神の末裔とも、ヒトの上位種族とも呼ばれた貴種は、美しい容姿と普通の人間の数倍の寿命を持ち、ヒトと似ていながらも違う種族だ。長い寿命を持つためか、純血でも繁殖率が低く、人との間に子をなすことがあっても、その子供は繁殖能力がない一代限りの存在。よって、優れた能力を持ちながらもヒト以上に栄えることはなかった。


「僕には、あの子は人間にしか見えない」


 戸惑いが現れて、陽樹の声は揺れた。視線の先にいる少女の柔らかそうな髪は軽く波打っていて、永井の髪よりも更に色が薄い。飾り気のない白いワンピースと相まって、冬の少し柔らかな日差しの中にいる姿は宗教画めいていた。物憂い表情は、ピエタを連想させる。


「そうだな、美しいけども人間と違うようには見えない。見た目がよく似ているのに彼らは明らかにヒトより優れている。だから『ヒトの上位種族』なんて言われ方をしたんだろう。もっとも、寿命が長かろうと、能力が優れていようと、繁殖力が低いために滅びようとしている種族を、俺はとても上位種族とは思えないがな」


 永井の言葉には苦さがあった。現在この生化学研究所の所長という肩書きを背負った彼は、一番貴種の近くにいる存在だ。


 永井祐介ながいゆうすけと陽樹は高校時代の同級生で、学部は違うが同じ大学へ進学した。けれど、永井が生化学に関連した学科に進学したのではないことを陽樹は知っている。

 それでも永井の持つ肩書きを訝しく思わないのは、ここが一種の流刑地であることを知っているからだ。陽樹もまた、職場の人間関係の上で重大なミスを犯し、事実上の島流しでここに配属されたのだから。


 名義上は研究所。

 けれども実際にはここは貴種を集めて隔離しておくための施設だった。その貴種も数が減って最後のひとりになり、施設の重要度は薄れている。

 ここの職員は現在所長の永井と、医師の陽樹のふたりだけだ。


 陽樹は中庭に続く扉を開けた。廊下自体が寒いのだが、それでも外の寒さとは比べものにならない。開いた扉から吹き込んでくる風は冷たかった。


「そんなところにいて寒くないのかい?」


 昔は整えられていたのかもしれない中庭は、枯れた植物があちこちに残っているばかりで余計に寒々しい。陽樹が枯れ草を踏みながらそう声を掛けると、紗代が振り向いた。


 目が合った瞬間、時間が止まった気がした。

 自分と彼女の間に距離はなく、互いの目を至近距離で覗き込んでいるかのような錯覚さえ覚える。ガラス越しに紗代を見たときよりも強い既視感に目眩がした。


 ふらりと立ち上がった紗代が陽樹に歩み寄ってくる。

 額に掛かる髪は光に透けて金色にも見えた。形よく曲線を描いた眉、色素が薄い黒目がちの大きな目、通った鼻筋にいくらか小さめな紅い唇。完全に左右対称の、一流の彫刻家が手がけた像に命が宿ったような美貌は、表情がなかったら恐ろしささえ感じたかもしれない。

 離れているのに、彼女の金色の目に陽樹の姿が映っているのがわかり、驚きが見て取れた。戸惑いが揺れる目の中に、どこか必死な様子がある。


「……あなた、誰? 貴種きしゆなの? 私に会ったことがない?」


 陽樹に紗代が問いかけてくる。容姿にふさわしく、聞いた者の心を掴むような美しい声だった。ガラスのベルが鳴るのにも似た、透き通って儚げな声。

 彼女もまた、陽樹と同じ既視感を覚えているのだ。僅かな間に喉がカラカラになっていて、陽樹は唾を飲み下した。


「僕は、香川陽樹。貴種じゃない、ただの人間だ」


「香川陽樹……かがわ、はるき……」


 紗代は何度か陽樹の名前を反芻した。何かを確かめるように、少し低い声でゆっくりと何度も呼ばれて、陽樹は胸がざわめくのを感じていた。

 貴種の彼女と陽樹は初対面だ。なのに、ふたりとも不思議な気持ちに捕らわれている。会ったことがないのは間違いない。こんな美貌の持ち主を忘れるわけがなかった。


「貴種じゃない、の?」


 陽樹が手を伸ばせば抱きしめられそうな距離まで近寄って、紗代は陽樹を見上げてきた。先ほどの様子がピエタだとしたら、今の彼女の題は『戸惑い』だ。期待と不安が入り交じった目が陽樹をみつめている。


「ごめん」


 気がついたら謝っていた。陽樹が人間なのは陽樹が悪いわけではなく、謝ることではないはずだ。なのに、すがりつくような紗代の言葉に、彼女を失望させることが悲しくなったのだ。

 みるみるうちに、紗代が落胆して肩を落とした。本を置き去りにしたベンチへと無言で踵を返した紗代を、陽樹は思わず引き留めていた。


「なに」


 肩を掴まれた紗代が振り向く。一瞬前の迷子のような心許ない様子は消え失せていて、人が近づくのを拒む空気が彼女を取り巻いている。


「寒いだろう? 中に入らないか」


「寒くてもいい。ここにいる」


「風邪をひいてしまうよ」


「どうでもいい。それに風邪なんてひかない。人間より丈夫だから」


 紗代が陽樹の手を払いのけた。それは決して荒々しい動きではなく、肩に止まった蝶をどかすだけのようなゆるやかな動きだった。

 どうでもいいと口では言いながら、見るからに彼女は自分の孤独を持て余している。紗代に触れた一瞬で陽樹にはそれが伝わってきた。


「どうでもよくなんかない。僕は今日から君の主治医になるんだ。君にこんなことで風邪を引かせるわけにはいかない。君が丈夫だからといっても、こんな冷えるところに薄着のまま放置できないよ」


 彼女が自分に背を向けようとするのを、そのままにしてはおけなかった。一度は払われた手で陽樹が紗代の手を取ると、革手袋に包まれた手を紗代が息を詰めてみつめる。

 知らぬ間に、紗代の手をぎゅっと握りしめていた。紗代の肌は驚くほど白く、強く握ったら折れてしまいそうな華奢な手だ。その感触で彼女が間違いなく生身の存在だと思い知って動悸が激しくなる。一目惚れ、とは思いたくなかった。外見の美しさは陽樹に取ってはほとんど価値がない。


「……離して」


 そのまま何秒が経ったのだろうか。紗代の困惑しきった声で陽樹ははっとして手を離す。


「私に構わないで」


 紗代がわざと平坦に出している声が痛々しいと思った。

 冷え切っていたその手をもう一度握りしめて、彼女を胸に抱きしめて温めたい。――そう思った自分がわからなくて陽樹は立ち尽くす。


「僕は医師だから」


 半分は自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。そうだ、自分は医師で、紗代は陽樹が管理するべき対象なのだ。さっき自分で言ったように、こんな寒いところにいては心配に決まっている。

 無理矢理自分の中で理由を探し出して自分を納得させようとしていると、紗代は陽樹がなんとか行動と結びつけようとした言葉をあっさりと拒絶する。


「私に医師は必要ない」


「病気になってから治すのだけが医師の仕事じゃないよ。君が健康に過ごせるようにするのも僕の仕事だ」


「……勝手にしたら」


 なおも食い下がる陽樹を面倒に思ったのか、紗代は本を取り上げると建物の中へ戻っていった。そのまま一室のドアを開けて入っていく。あそこが彼女の部屋なのだろうかと陽樹はその背を目で追いながら思った。。

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