4. Interlude 〜ご相伴に預かる〜

 その妖精のような美しい容姿に似合わず、淡い金の髪にふわふわとした寝癖をつけたまま、寝ぼけたようにのっそりと寝室から起き出してきたイルヴァは、居間の椅子に座るアクセルの姿には気づかず、そのまま通り過ぎて隣の台所キッチンに入っていった。


 すぐになにやら慌ただしい声と物音がしていたが、落ち着いた後も二人が一向に戻ってくる気配がない。アクセルはやれやれとため息をついたが、邪魔をするほど野暮でもないし、あの男に蹴られるのも嫌だったので、テーブルの上に並べられた料理に先に手をつけることにした。


「冷めてももったいねえし」

 許可を求める代わりにぼそりとそう呟いて、自分で持ってきたばかりの長いパンバゲットを斜めに薄く切り、鉄鍋に茸などとともに煮込まれたオリーブ油に浸して口に運ぶ。大蒜にんにくと茸の香りに絶妙な塩加減で、彼のパンの風味がより引き立っている。

「うま……」


 思わず呟いたが、反応する者はない。一人肩をすくめて、勝手知ったる風に棚からグラスを三つ取り出すと、自分で持ってきた白葡萄酒をそこに注ぐ。とろりとした透き通ったその液体は香り高い。少しきつめの酒精アルコールが昼食にはそぐわない気はしたが、どうせ今日はもう働く気もないので気にせずグラスに口をつける。


 甘味の強いそれは、意外に塩っ気の強い豚肉のソテーとも合う。固くなりすぎないよう適度に焼かれた肉をゆっくり噛み締めて味わいながら、そういえば焦げ臭い匂いが漂ってきたが大丈夫だろうかと今更のように視線を向けると、ようやく二人が出てくるところだった。


 上機嫌なノアに対して、膨れっ面のイルヴァの頬がそれでもほのかに赤いのは、きっと気のせいではないだろう。ヒュウと口笛を吹くと、凍てつく吹雪のような眼差しが向けられる。率直に言えば、そんな表情でさえ、美しいと感じるほどにイルヴァの容貌かおは整っている。まじまじと見つめると怪訝そうに見返された。

「何かついてる?」

「ああ」

「何……?」

「可愛い顔が」

「……ノアみたいなこと言ってるけど、どっかで頭でも打った?」

「俺が頭を打ったせいで変なこと言ってるみたいに言うなよ」

「違うの?」

「その可愛い口、もう一回塞いでやろうか?」


 にやりと笑いながらそう言ったノアの紫の瞳に見つめられ、イルヴァが息を呑んで惚けたようにその瞳に見入っている。それでもそれは他の相手に対して彼がよく見たような、何かに憑かれたような危うい熱を持った眼差しではなく、単純に見惚れているそれで、だからこそノアはさらにその頬を——彼から見れば——だらしなく緩ませているのだ。


 頬杖をついてそのやりとりにため息をつきながら、アクセルは彼が初めてイルヴァに出会った時のことを思い出していた。


 それは雨が降りしきる夜のことだった。翌日の仕込みをして、そろそろ寝るかと寝台に向かいかけたところで扉に何か大きなものがぶつかるような音がした。すわ強盗でもやってきたかと、壁に立てかけておいた剣を抜き、扉に近づいたがそれ以上物音もしない、そっと扉を開けようとしたが何かがのしかかっているのか開かなかった。ぐいと力を込めて押すとずるりと脇に何かが倒れ込んだのが見えた。

「ノア……⁈」

 それはずぶ濡れになって横たわる幼なじみの姿だった。酔っ払っているのかと思ったが、それにしては上下する肩の動きが激しい。扉を大きく開いて、アクセルはようやくノアが何かを抱きしめているのに気づいた。部屋の中からの光を反射してわずかに光る金色のそれが、人の髪だと気づくのにしばらくかかった。呆然として、すぐに慌てて我に返って二人を家の中に引き込んで、その惨状にもう一度息を呑んだ。


 ノアの体は雨に濡れ、その服はあちこちが切り裂かれ、もはやぼろぼろだった。どこもかしこも傷だらけで、特に左肩の傷が深そうだった。その腕にまだしっかりと抱きしめられている相手は全身泥まみれで、目を閉じており、意識があるのかどうかもわからない。とりあえずそばに膝をついてノアに声をかける。

「おい、俺の声が聞こえるか」

「……ああ。頼む、こいつを」

 自分の方がよほど酷い姿だというのに、腕の中の相手を気遣う様子にアクセルは思わず首を傾げた。それほどに、この男が誰かを必死に気に掛けるのを見たことがなかった。


 ともかくもその腕から引っ張り出した相手を見て、アクセルは目を丸くした。それは、少女だった。泥まみれで顔はよく見えないが、雨に濡れてぴったりと張り付いた服のせいで体の線が丸見えだった。まだ幼さは残るが、その体は少女から大人に変わる頃で、胸のあたりもしっかりとしたふくらみがある。どこか官能的なその様子に一つ頭を振って、脈と呼吸を確認したが特に異常はなさそうだった。


「とりあえず、その左肩だけ押さえとけ。このお嬢ちゃんを着替えさせたらすぐに戻ってくるから」

「変なこと考えんなよ?」

 苦しげな息の下から、それでもニヤリと笑って見せたその様子に、彼はもう一度目を見開いた。

「このお嬢ちゃん、お前の何なんだよ?」

「俺の運命だ」

「はあ……⁉︎」


 頭でも打ったのかと思ったが、事は一刻を争うようにも見えたので、乾いた布をノアに放り投げ、少女を抱き上げると、とりあえず寝室に運ぶ。まずはずぶ濡れの服を脱がせて、なるべく視線を逸らしながら汚れた顔や髪を拭いてやり、乾いた布でくるんだが、一向に目覚める気配はない。それでも呼吸は穏やかだから、疲れ果てて眠っているのか、あるいは他の理由があるのかはわからないが、何となく心配はいらない気がしていた。

 ひとまず彼の上衣を一枚羽織らせてから、長い髪を布でくるんでそのまま掛布をかけて寝台に寝かせておく。


 居間に戻ると、何とか身を起こしたノアが上半身の服を脱ぎ捨て、布を裂いて肩の傷を止血しているところだった。他にもあちこち切り傷と思われるものが見てとれた。

「どんな大立ち回りしてきたのよ、お前?」

「可愛い娘が襲われてたんでな」

「英雄気取りで救いに行ったら、こてんぱんにのされたって?」

「それでも救い出しただけましだろ?」


 軽口を叩けるだけ元気なら大丈夫なのだろう。強めの酒を棚から取り出して、グラスに注いで差し出す。受け取って口に含んで、ノアはようやく人心地ついたように一つ息を吐いた。

「見せてみろ」

 左肩の傷はかなり深く、その上無理に動かしたせいか肩の筋やら何やらまでやられているようだった。

「動かせるか?」

「今は無理だな。さっきまでは何とか」

「火事場の何とかって奴かね」


 何があったのか、と目線で先を促すと動く方の肩をすくめてノアはどうしてだか、いつもとは異なる何やら浮かれたような笑みを見せた。


「狩りを終えて、帰ろうとしている途中で変な物音を聞いてな。近づいてみたらあいつが男たちに襲われてた」

「それで助けたって? らしくねえな」

 人攫いや強盗などこの辺りでは珍しくもない。自分に関わることならまだしも、いくら相手が若い娘と言え、多勢に無勢で挑むなど、この男らしくなかった。アクセルの内心を読み取ったかのように、ノアは少し苦い笑みを浮かべ、それでもどこか嬉しそうに言った。

「あいつ、俺をまっすぐに見て、俺の眼に見惚れたんだ」

「……いつものことだろ?」


 ノアの眼はどうやら普通ではないらしい。彼にだけはなぜか通じないが、その紫の瞳に意志をもって見つめられると、ほとんどの人間がおかしくなる。彼の言うがままに従い、あるいは女であれば蕩けて身を差し出してくる。


。あいつはただ、俺の眼をじっと見返してきたんだ」

「つまり……お前のそのおかしな力が通じてない? 俺みたいに?」

「ああ」

「それだけでか?」

「ああ」

 頷いて、傷だらけのまま、ひどく幸せそうに笑った顔は今でもアクセルの脳裏に焼き付いている。


 今思えば、それはいわゆる一目惚れというやつだったのだろう。本人が意識しているかどうかは別として。


 はたから見れば気味が悪いほどに緩み切った顔でイルヴァの顔を見つめるその横顔を、アクセルは呆れたように眺める。

 この家に運び込んで最初におぼろげに意識を取り戻したイルヴァが、ノアの眼に眩惑されたと気づいた時、絶望なのか怒りなのか、その瞳に浮かんだ苛烈な光をもまた、アクセルはよく覚えている。

 結局のところ、その後、もう一度目を覚ました時には、これでもかという冷ややかな眼差しを向けられ、嬉しそうにしていたのだからもはや、つける薬もない、といった感じだったのだが。


 どうやらイルヴァは半ば意識がなかったり、体調が不安定だとノアの眼の影響を受けやすいらしい。つまりは普通の人間なら常に受けてしまうその眼の影響を、風邪とか熱とかその程度しか受けない、とも言える。それに気づいて以来、ノアはそれはそれは甲斐甲斐しく食事を用意し、身の回りを整え、イルヴァが咳き込むからと言って部屋で煙草を吸うのさえ止めた。


「愛されてるねえ」


 玉葱のスープを口に運んで、ふわりと無防備な笑みを浮かべていたイルヴァに思わずそう呟くと、また冷ややかな眼差しが向けられる。彼女が体験した苛酷な事件を思えば、他者に対する警戒はやむを得ないとも思うが、それにしたって扱いがひどい気がした。

「イルヴァ、そう言えばお前、何歳いくつなんだ?」

「……十七」

「若っ」

「アクセルは?」

「二十八」

 答えると、自分で訊いておきながらイルヴァは興味がなさそうに頷き、それからじっとノアを見つめた。

「ノアは?」

 その問いに、思わずアクセルが吹き出すと、イルヴァは首を傾げる。

「そいつも俺と同い年。幼なじみって言ってなかったか?」

「……嘘でしょ?」

 心底驚いたように目を見開いたその顔に、さすがにノアが渋面をつくる。

「どういう意味だよ」

「てっきり三十代後半くらいかと思ってた」

「あのなあ……いくらなんだってお前、そんなおっさんに接吻キスされたり何だりされていると思ってたのか?」


 言葉を失って、頬を赤く染めながらぱくぱくと口を開けたり閉じたりしているイルヴァに、思わずアクセルもにやりと笑って追撃する。


「何、お前らどこまで進んでいってんの?」

「何にもないよ!」

「何にもないってこたねえだろうが」

 顎をすくい上げて、それはそれは楽しそうに笑ったノアに、イルヴァが一瞬またその瞳に見惚れ、だがすぐに我に返ったのか、手頃なところにあった長いパンバゲットでその顔を殴りつけた。

「痛ぇ! なんだこれ固すぎじゃねえか⁈」

「あ、それ昨日焼いたやつだから。熟成されて美味いぞ」

「そういう問題じゃねえだろ」

「そうだな、食べ物で遊ぶんじゃねえよ、イルヴァ」

「……ごめんなさい」

「問題はそこじゃねえだろ……」


 呆れたようなノアの声には構わず、そればかりは素直に頭を下げるところを見れば、根は素直なのだろう。とりあえずその手からパンを取り上げて薄く切り、イルヴァの玉葱のスープの中に浮かべる。すぐにスープを吸って柔らかく広がったその上に、つまみとしてにこっそり持ってきた青黴の乾酪ブルーチーズを小さくちぎって載せてやる。


「食ってみ?」

 イルヴァは少しためらうようだったが、匙で少しほぐした後、ゆっくりと口に運ぶ。すぐに、その眉が少ししかめられた。

「美味しい……けど、少し癖が強いね」

「お子さまにはまだ早かったか?」

「こいつは匂いのきついものがあまり好きじゃないからな」

 ノアはそう言いながら、自分の器とイルヴァのものを取り替える。イルヴァは少し目を見開いて、それから俯いて小さくありがとう、と言った。その表情に、またノアの顔が笑み崩れ、アクセルが目の前にいることなど気にかけずに顎を持ち上げて口づけている。


 もう一度、今度は拳で殴られていたけれど、アクセルはもうただ視線をそらして一人葡萄酒を呷ることにしたのだった。

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