5. アップルパイ

 自分の持ってきた白葡萄酒ワインをノアと二人で半分ほど空けた後、アクセルは機嫌よさそうにふらふらと帰って行った。イルヴァが唯一担当している後片付けを済ませて居間に戻ってくると、ノアはグラスを持ったまま暖炉のそばの長椅子で足を伸ばし、珍しく目を閉じていた。


 眠っているのかと思い、その手からグラスを取り上げると、ゆっくりとその鮮やかな紫の瞳が開いた。吸い込まれそうなほどに深いその色に見惚れていると、口元に笑みが浮かぶ。伸び放題の黒い髪に、あまり手入れのされていない無精髭。精悍といえなくもないが、どちらかといえば粗野な印象を与えるその顔は、今はひどく柔らかい表情でイルヴァの溶けきらない心をそのままに包み込んでしまう。


 戸惑いが顔に出たのか、ノアはイルヴァの手からグラスを取り戻すと、サイドテーブルに置き、それから彼女の腰を抱き上げて自分の上に下ろした。ぴったりと彼女の顔がノアの胸に密着するようにな形になり、逃れようとしたが、その腕は強くイルヴァを抱きしめていて身動きが取れない。安定した心臓の音が、その胸を通して伝わってくる。

「……何してんの?」

「あったかいだろ?」

 確かに、少し酔っているせいか、いつもより感じる体温が高い。普段はほのかに混じる煙草の匂いもしないところをみると、今日は吸っていないらしい。好きなわけではないが、慣れてしまったせいでその匂いがない方が何だか落ち着かない気がした。そのせいだろうか、問いが考えなしにこぼれた。

「煙草、吸わないの?」

「ああ……そういや今日は吸う暇もなかったな」

 そういえば、とイルヴァは朝から酔っ払って運ばれたのを思い出した。ノアに拾われて以来、どうにも自堕落な生活を送っている。以前はもう少し、まともな——とそこまで考えて、あまり変わらなかったか、と一つため息を吐く。


 イルヴァは実のところ本当の親の顔を知らない。森の中に捨てられているのを通りすがった木樵きこりに拾われた、らしい。らしいというのは、彼女の育ての親である木樵の夫妻は基本的に寡黙で、細かい経緯を話そうとはしなかったからだ。彼女がその事実を知ったのも、心ない子供たちの囃し立てる言葉からだった。


 実際、彼らはイルヴァをそれなりに大切に育ててくれたが、なぜだか彼女は村の暮らしに馴染めなかった。長ずるにつれ、村の中では何をしても浮いてしまい、友人の一人も作れない彼女に寡黙な義父母は何も言わなかったが、困っている気配はどうやっても伝わってきてしまったから、十六になった時に家を出て、村はずれに住まいを見つけて一人で暮らすようになった。

 家を出ても、同じ村の中だから会えば挨拶はするし、食事も差し入れてくれた。けれど、互いに積極的に会おうとはしない。親子として長年暮らしてきたはずなのに、その関係はどこか希薄で、それでもそれを寂しいと思うことはあまりなかった。それこそが、イルヴァが村の中で隔てられてしまう理由だとわかってはいたけれど。

 そうして、よくやくそろそろ詳細を訊いてみるかと覚悟を決めた矢先に二人は流行病はやりやまいで亡くなってしまった。さらにその直後に、村は襲われ、灰になった。今となってはイルヴァの素性を示すものがあったのかどうかさえわからない。


 一人で暮らすことに、寂しさを感じることはあまりなかったけれど、それでも雪の夜の寒さには難儀した。いくら火をおこして毛布にくるまっても、底冷えする寒さだけはどうしても慣れなかった。


 ——だから、誰かがそばにいてくれる温もりがこれほど心地よいものだと、イルヴァはノアと出会って初めて知ったのだ。


「イル?」

 半ば無意識にその胸元を掴み、額を押し付けると、低い声が彼女を呼ぶ。大きな手が髪を撫でて、それから背中、腰へとすべり降りてくる。いつもならただ慰めるように撫でるだけのその手が、どうにも妖しい動きをしている気がして視線を上げると、熱を浮かべた瞳とぶつかった。

 驚く間も無くぐるりと体を入れ替えられ、組み敷かれる形になる。重さを感じさせないよう、右手で体を支えながらも、間近にあるその紫の瞳がじっとイルヴァを見つめる。まだうまく動かない左手が、ゆっくりとイルヴァの服の裾から入り込もうとしているのがわかって、戸惑いと小さな恐れを感じたが、それでも自分に拒む権利などないのだと、どこかでそう諦めのような思いが浮かんで目を閉じると、その手がぴたりと止まった。


 そのままその大きな体に似合わずしなやかな動きで起き上がり、あっという間に離れてしまう。半身を起こして見れば、頭をがりがりとかきながら、外へと出ていく後ろ姿だけが見えた。


 呆気にとられたまましばらくその扉を見つめて、それから膝を抱えた。暖炉が近いからその長椅子は暖かいはずなのに、より近い温もりがないだけで何だか寒々しい気がしてしまう。小さな子供のようだ、と思い、逆に小さな子供の頃でさえこんな感情おもいには覚えがないと気がついて、ますます途方に暮れた。


 どこか行くあても、することも特に思いつかず、そのままぼんやりと火を眺めていると、負の感情でさえもどうやら曖昧になってきて、気がつけばうとうととしていたらしい。扉の開く音とともに、冷たい風が吹き込んできてようやく顔を上げると、こちらを見下ろすノアの姿が見えた。

「また寝てたのか?」

「……寒かった」

 視線を逸らしてそう呟くと、大股に近づいてきて大きな手がイルヴァの頬に触れる。

「家の中でか?」

 その手は驚くほど冷えていて、思わずもう一度顔を上げると、先ほどまでの熱を浮かべた瞳など嘘のように、いつも通りの癖のある笑みが見えた。そのまま唇が軽く触れて、すぐに離れる。きつい煙草の匂いで、いつもなら反射的に出るはずの憎まれ口も出てこず、わずかに眉をしかめた彼女に、ノアはただ笑うばかりでくしゃりと一度その金の頭を撫でると台所へと姿を消した。


 間も無く戻ってきた時には、香草茶ハーブティーの香りと、何かこんがりとした香ばしい匂いが漂ってきた。長椅子からテーブルを見れば、湯気の立つカップと茶色い何かが皿にのっているのが見えた。その匂いに吸い寄せられるようにテーブルに近づくと、甘い匂いが更に強くなる。

「これ何?」

林檎のアップルパイだとさ」

 促されるままに椅子に座り、フォークを突き立てるとサクッといい音がする。砕けた欠片かけらがもったいないような気がしたが、そのまま口に運ぶと確かな歯応えと、牛酪バターの香り、それから甘酸っぱい林檎の風味が広がった。

「美味しい……この匂い、なんだろう?」

 林檎とも牛酪バターとも異なるそれは、何かの香辛料スパイスのようだったが、馴染みのないものだった。

「ああ、肉桂シナモンだな。茶に入れても美味いらしいぞ」

 体を温める効果があるそうだ、と言いながら自分も口に運ぶ。確かに美味いな、と言うその顔に、言いたいことも言うべきこともたくさんあった気がしたけれど、結局冷めないうちにとそのつややかな茶色いパイを黙々と食べて、穏やかな香りの香草茶を飲み切る頃には、何を思い悩んでいたのかもよく分からなくなってしまった。

「これ、アクセルの?」

 こんな焼き菓子を焼けるのはアクセル以外ないだろうとは思ったけれど、すでにだいぶ酔っ払っていた彼が仕事をしていたとは思い難かった。ノアはただ肩を竦める。

「昨日焼いたやつを温めてもらっただけだけどな」

「……どうして?」

「美味かったろ?」

「うん」

 そればかりは素直に頷くと、ノアはどこか安堵したような笑みを浮かべる。それで、これが彼なりの気遣いなのだと気づかずにはいられなかった。本来なら、彼がそんな風に気遣う必要はないはずなのに。

「……ノアの馬鹿」

 俯いてそう呟くと、それでも笑う気配が伝わってくる。立ち上がり、その横に立つと鮮やかな紫の瞳がこちらを見つめる。動いたものの、どうしていいか分からず立ちつくすイルヴァの頬に手が伸びてくる。引き寄せられて思わず眼を閉じたが、ぬるりとした感触が唇のすぐ横を舐めて、離れた。

「パイだらけだぞ。子供ガキみたいに」

 パイの欠片を払うように頬をごしごしと撫でる大きな手は、もう温まっていた。

「どうせ、子供だよ」

 言いながら、その首に腕を回す。ほんのわずか、何かをためらうような間のすぐ後に、右腕が強くイルヴァを抱きしめる。それから低い声が耳元に届いた。

「……どういう風の吹き回しだ?」

「わかんない」

 わかんねぇのかよ、とその声は呆れたような響きを宿していたけれど、それでもいつも通り柔らかく髪と背中を撫でるその手に安堵して、イルヴァは、ざらざらするその頬に軽く唇を寄せた。


「……どっちなんだよ?」


 わずかに戸惑いの浮かぶその問いには答えず、イルヴァは自分でも気づかぬうちにふわりと無邪気な笑みを浮かべて、その首をもう一度強く抱きしめた。

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