3. 玉葱のスープ

 雪に足を取られそうになりながらも、何とか家に帰り着いて寝台にイルヴァを下ろして見れば、完全に寝入っていた。掛布をかけてやって寝台から離れようとすると、無意識なのか、その細く白い手が伸びてきてノアの服の裾を掴んだ。窓からの光を受けて淡くけぶるような金の睫毛に覆われた瞳は閉じたままだというのに。


 しばらく躊躇ためらってから、左手でその手を握り、右肘をその頭の脇について軽く唇を重ねた。氷の張った湖のような薄い青の瞳がうっすらと開かれて、こちらをぼんやりと見つめる。あくまで静かな感情の見えないその眼差しに、心臓がおかしな鼓動を打つのを自覚して、そのまま目を閉じて深く口づけた。頬に触れ、ゆっくりと舌を絡める。甘い吐息が漏れたのを感じて眼を開けて、青い瞳が彼の紫のそれを捉えた瞬間、すぐに後悔した。


 波ひとつない湖面のような瞳が、今は揺らめいて熱を浮かべている。純粋な欲望でさえなく、眩惑された人形のような、自我を失った色で。


 内心で舌打ちして、体を離す。なおもすがろうとする手を握り締めて目をそらすと、すぐにぱたりとその手が落ちた。ゆっくりと視線を戻すと、その瞳は閉じられて、また穏やかな寝息が聞こえてくる。

「……ったく」

 元々酒に強い方ではないが、そもそもまだ本調子ではないのだろう。右手で額を押さえて、もう一度深いため息を吐いた。


 幼い頃から、ノアは自分がどうやら人と違うらしいということには気づいていた。相手をじっと見つめると、どうしてだかぼうっとこちらを見つめ、何でもこちらの言うことを聞いてくれる。

 その違和感の理由にはっきりと気づいたのは、それでもずいぶん大きくなってからだった。悪戯をして叱られている最中に、近所の大人の眼をじっと見つめたら無罪放免になったとか、自分を殴りつけようとした連中を睨みつけたら急にふらふらとその場に膝をついてしまったりだとか。


 両親に相談したが、曖昧に首を傾げるばかりで、特に何も有効な助言は得られなかった。長じるにつれて、特に異性から好意を寄せられたときにその異質な力が働くことに気づいた。

 はじめのうちはいいように利用していたが、やがて人形を抱いているような気がしてきて空しくなっていった。どんなに彼が真剣に惚れ込んでも、相手からの反応はいつも同じだった。容易に彼の要求に応え、その身を投げ出してくる。


「贅沢言ってんじゃねえよ」

 唯一、彼のその眼の影響をなぜだか受けないらしい幼なじみは、そう言って笑った。

「いいじゃねえか。好きな女をいくらでも落とせるんだろ?」

「自分に真剣に惚れてもいない相手を抱いても楽しくねえんだよ」

「うわー、モテ男はやだねえ」

 自分も方々で浮名を流しているくせに、そんなことを言って笑うその男を殴りつけては憂さを晴らし、それでも日々は長閑のどかにすぎていった。


 ——あの日がくるまでは。


 どんどん、という乱雑に扉を叩く音で我に返る。扉を開くと、その幼なじみの男が立っていた。小脇に大きな袋を抱えて。

「ほらよ。長いパンバゲットと無花果の丸パン。それからこの白葡萄酒はおまけだ。全部で銀貨五枚な」

「高ぇよ」

 懐から銅貨を何枚か取り出して放り投げる。アクセルは肩をすくめたが反論はしなかった。

「嬢ちゃんは?」

「ぐっすりだよ」

「ずいぶん効いたんだな。っていうよりは、まだ本調子じゃない感じか」

 ちらりと寝室の方に目をやって、心配そうな表情を見せたアクセルは、ノアがイルヴァを拾った経緯を知っている数少ない相手だった。彼がイルヴァに執着する理由も。

「ほーんと、お前がねえ。まあ眼を閉じて眠ってりゃ風の妖精シルフィードみたいなお嬢さんだが。それにしても、奴らは見つかったのか?」

 不意に真剣な表情に変わったその鳶色とびいろの瞳に、彼は静かに首を振る。それを見て、アクセルもひとつため息を吐いた。


「そうか……。俺たちの村を襲った奴らと同じかどうかも、まだわからないわけだ」


 彼らの村もまた、かつて、謎の男たちに襲われて滅ぼされた。たまたま街へと遊びに出ていた彼とアクセルと、数人の大人だけが何とか難を逃れたが、戻った村は灰塵に帰していた。理由は今も不明のままだ。だが、その様子はイルヴァから聞いたものと酷似していた。


「異質な力を持つお前がいた村が襲われ、今度は、その力を受け付けない嬢ちゃんがいた村がまた滅ぼされた。……何か関係があるんだかないんだか」

 ただの偶然だと言えばそれまでだが、ノアは、どこか引っかかるものを感じていた。あのときイルヴァを襲っていた男たちは、欲望に駆られているという様子ではなかった。

「イルヴァの話では、村が襲われてからあいつは数日間、山の中をさまよっていた。なのに、あの連中はなお山狩りをして、あいつを捕らえようとしていた」

「嬢ちゃんが狙いだった……?」

「わからんが、嫌な感じだ」

「……ここがかぎつけられなきゃいいけどな」

「不吉なことを言うんじゃねえよ」

 少なくとも、まだ本調子でないイルヴァに余計な心配をかけたくはなかった。

「ま、考えても仕方のないことは気にしないことだな」

 それより、とアクセルはいつもの調子のいい顔に戻ってどっかりと椅子に腰を下ろす。


配達料金デリバリーフィー代わりになんか食わせろよ」


 さも当然と言わんばかりの顔に、肩をすくめつつ、ちょうど昼時であることもあり、台所へと向かう。テーブルのパンの山を眺め、少し考えてから吊り下げられている玉葱をいくつか取り出して、薄切りにする。鍋を熱して牛酪バターを溶かし、そこに切った玉葱を放り込んでゆっくりと炒める。


 同時に小さめの鉄鍋に以前にアクセルから分けてもらったオリーブ油を多めに注ぎ、刻んだ大蒜にんにくを入れてゆっくりと香りを立たせ、塩と茸と芽花椰菜ブロッコリーを入れて火を通した。それから雪室から豚肉を取り出し、小鍋から大蒜の香る油を少し移し、薄く切って塩と胡椒をした肉を炒める。途中で余計な油を古布で拭き取って焦げ目をつけたら、皿に盛りつける。


 鍋の玉葱がいい茶色になったところで、水を注ぎ、沸騰したら塩と胡椒で味を調えた。最後にほんの少し香り付けに白葡萄酒をたらしておく。

 豚肉の残りの数枚をさらに鉄鍋に投入して、そろそろ仕上げかと取り皿を取ろうとしたところで不意に声が聞こえた。


「いい匂い」


 驚いて振り返ると、イルヴァがまだどこかぼんやりした瞳でこちらを見つめていた。

「起きたのか」

 少し迷ってから、その顎をすくい上げてまっすぐに視線を合わせる。イルヴァはほんのわずか眼を見開いて、それでもその瞳は穏やかなまま、惚けたように彼を見つめ返している。確かにことに満足して、その顔を引き寄せて唇を重ねる。柔らかいその感触と、戸惑い、しかめられるその綺麗な顔に自分でも驚くほど心臓が高鳴った。まるで初めて恋に落ちた若造のように。

 抵抗がないのをいいことに、腰を引き寄せてさらに深く口づけているうちに、自身の熱が高まるのを自覚する。あとほんの少しだけだと内心で自分に言い訳して、腰を抱いている手を、さらに奥へと進めようとした時、その匂いに気づいた。


「ノア、焦げてる」

「やべ」

 黒焦げになった数枚を恨めしげに眺めながら、やむなくごみ箱へと放り投げる。残りの無事なものを皿に移していると呆れたような声が聞こえた。

「何してんの?」

「誰かさんが可愛すぎてな」

 あえてそう言ってやれば、湖面に小波さざなみが立つように瞳が揺らぐ。以前よりは明らかに反応を返すようになってきたその様子に、ますます欲しいと思う自分を自覚しながらも、何とか自制する。

「……お腹すいた」

 視線をそらしてそう言う淡い金の頭に、ひとつ口づけを落としてから、鍋に残っている玉葱のスープを小皿にとって手渡す。首を傾げながらも受け取ったイルヴァは、口に含んで、ふわりと笑った。


「香ばしくて、あと、牛酪バターの香り……かな? すごく……なんて言うか優しい味だね。あの固いパンと合いそう」


 屈託のないその笑顔に、気がつけばノアはその体を抱き寄せて、また深く口づけていた。


 隣の居間からうんざりしたような、わざとらしいため息が聞こえたが、とりあえず無視して、しばらくそのまま待たせることにしたのだった。

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