2. 焼き立てのパン

 外は雪に埋め尽くされていたが、街の中心にはそれなりに人の往来があった。ノアは何か当てがあるのか、すたすたと歩いていく。それでもその歩幅の差が気にならないのは、ゆっくりと歩いてくれているのだと気づいて歩みを早める。


「どこ行くつもりだよ?」


 追い抜いたところで猫の子でも持ち上げるように襟首を掴まれた。見上げたその瞳は相変わらず面白そうな光を浮かべていて、それでも日の光の下ではどちらかといえば癖のある笑みの方に惹きつけられた。じっと見つめていると、当然のように顎を捉えられ、軽く口づけられて我に返った。

「この馬ッ鹿……!」

「いやあ、悪い悪い。あんまり隙だらけだからよ」

 言葉とは裏腹に、全く悪びれる風もないその様子に、拳を握り締めて左肩に狙いを定めたが、今回はその手首を握り込まれた。

「あのなあ、さすがに俺だってそう何度も傷痕を殴りつけられたら痛いんだよ」

 半ば笑いながらも、そう言ってイルヴァを掴む大きな手は、普段はあまり意識していないが力強く、彼女が身じろぎした程度ではびくともしない。


 ノアはなのだ、と改めて気づいてまだ凍りついたままの心のどこかが震えた。普段はそうは見せずにただ優しげに庇護してくれているとしても。


「はいはい、そんな顔すんなよ。別に怒ってるわけじゃねえって」

 小さな子供にするように頭をぽんぽんと撫で、それから街中だというのに気にもせずに抱き寄せられた。微かに煙草の匂いの入り混じったその腕の中は、もうどこよりも落ち着く場所になってしまっている。その感情を、何と呼ぶのかは判然としなかったけれど。

「……もういい」

「そうか?」

 不意に首筋にその顔が寄せられて唇が触れる。いつもと違うその感触に首を傾げると、近くからヒュウと口笛が吹かれた。目を向けると、ノアの知り合いの男が口の端を上げて笑っていた。

「街中で大胆だねえ」

「アクセル……何?」


 茶色い髪に、薄い色の瞳。一見優男に見えるが、ノアと殴り合いで引き分ける程度には腕が立つ男だ。イルヴァの側に近づいてくると、その首筋を覗き込んで指を差す。


所有印マーキングなんて、らしくねえじゃん?」

「本人が自覚なしだからいいんだよ」

 いつになく低い声と共に、後ろから引き寄せられる。がっちりとその腕がイルヴァを抱き込んでいて、見上げた紫の瞳は今はどこか獰猛な光を浮かべていた。見据えられたアクセルは、何かに驚いたように目を見開いていたが、ややして顔をしかめて低く悪態をつく。

「……ったく、冗談の通じねえ奴」

冗談そういうのは時と場合を考えてな」

「はいはい。それより、お前今日は俺のかまどを見にきたんだろ?」


 肩をすくめながらそう言ったアクセルに、ノアもようやくイルヴァを抱きしめていた腕を解く。それから、にっといつも通りの笑みを浮かべた。


「こいつの店で、新しい竃ができたって言うからな。お前にも見せてやろうと思って」

「竃? 全然興味ないけど」

「そう言うなって。小人妖精ドワーフの設計で、精霊の魔法の炎を火種にしたってえ逸品らしいぜ?」

「……魔法?」

 馬鹿な、とイルヴァは思わず小さく呟く。その声を聞き取ったのか、ノアはもう一度楽しげに笑って彼女の背を押すと、アクセルに頷いて彼の店へと入っていった。


 アクセルはこの街では評判のパン屋だった。その端正な顔と甘い言葉は、老若問わず女性客を惹きつけていたが、その評判は実のところパン自体が美味いのが一番の理由だ。普通は皆の共有の竃で焼くものだが、アクセルは自分の店に独自の竃を持ってさえいる。ノアの家で供されるパンも、基本的にアクセルの店のものだから、その評価についてはイルヴァも異論はなかった。


 ノアは、その新しくなったという竃を興味津々と見入っている。煉瓦れんがを組み上げた半球状で、表面はどう仕上げたものか、滑らかで美しい。中では白い炎が燃えていた。

「これが、魔法の竃……?」

「竃自体は煉瓦で普通に組み上げられてるだけだ。中の炎が特殊なのさ」

 どこか得意げに言うアクセルにイルヴァが首を傾げると、彼は竃の奥を覗き込みながら壁面に埋め込まれた突起を示した。赤、白、青と三つのその突起は何やら複雑な文様が刻み込まれている。アクセルがその一つ、赤い突起を押すと、竈の中の炎が赤に近い橙色に変わった。

「これで火力の調整ができるってわけよ。精霊の炎を火種としてるから、消えることもない」

「……もし消えたら?」

 普通の炎でないなら、いざというときの再点火は難しそうだ。

専門家ドワーフ保守点検メンテナンスに来てもらうしかないな」

「でも、魔法って大戦以来、ほとんどこの国では使われなかったんじゃないの? 小人妖精に精霊だなんて……」


 およそ三百年ほど前、この世界は戦乱の炎に包まれていたのだという。はじめは妖精の悪戯から始まったという小さな騒乱は、気がつけば人間とそれ以外の種族との深刻な対立となり、局地的なものからやがて世界中へと広がっていった。

 人間たちは魔力を持つ者たちに対抗するため、多くの強力な銃火器ぶきを生み出し、精霊たちはそれに対抗するために、魔力を濫用した。結果、世界は大いに乱れ、森は焼き払われ、川も海も濁り、風は病を運ぶようになった。


 このままでは世界が滅びるという予言を携えた先見視さきみの男の働きかけにより、当時随一の力を持つ精霊の長が人間の長と交渉の末、和平条約が結ばれた。だが、一所ひとところに魔力を持つ者とそうでない者たちがすまうとその意識の違いからまた同じことが繰り返されないとも限らない。それを避けるため、当時の人間と精霊のそれぞれの長たちは、『盟約』と呼ばれるいくつかの禁止事項を定め、世界を三分することに同意した。


 精霊をはじめとして強い魔力を持つ者たちが住む世界。

 人間たちのみが住む世界。

 その狭間を生きる者たちが住む世界。


 それぞれの世界は結界と高い壁とで隔てられ、基本的には行き来はできない。そうして分割された世界で、互いに干渉することなく、それぞれの種族はそれなりに平穏な日々を享受していた、と聞いている。

 実際のところ、イルヴァの村のように閉じられた世界の中での悲劇は少なくなかったのだけれど。


「その世界の分割と禁忌を定めた『盟約』が破棄されたらしいんだよな」

「破棄された? 何で?」

「さあ? 俺たちにわかってるのは、同時に世界を分けていた結界も壁も取り払われて、今じゃ禁呪きんじゅ銃火器ぶきも使い放題だって話だ」

「禁呪って……」

「人を呪い殺したりとかまあそういうヤバイやつだな」

「どう考えてもよくない状況に思えるけど……?」

「まあ、盟約が破棄されたからって、いきなり隣人を殺しまくるとか、世界を滅ぼしたいと思う奴はいないことを祈りたいね」

 それよりも、とアクセルは笑って言う。

「壁が取り払われたことで、種族を越えた行き来がまた増えてきてる。俺たち人間には到底不可能な技術があれこれ入ってきやすくなってるってわけだ」

「でも、人間だって銃火器を作ったり、まあまあいろいろできるんでしょ?」

 世界を滅ぼしかけるほどに。だが、イルヴァの問いにノアが首を横に振った。

「銃火器は月晶石げっしょうせきがなければ発火しない。基本的には小人妖精ドワーフたちが試作したものを発展させただけだな。魔法を含む鉱石や宝石の取り扱いは、人にはまだまだ神秘の領域だ」

「へえ……」


 何にせよ、新技術が平和的に利用されるならそれに越したことはないが、故郷を同族にんげんに焼き払われたイルヴァは懐疑的にならざるを得なかった。人は、皆が善良にできているわけではない。

 だから、その新しい「魔法の竃」にもそうそう好感を持てなかった。

「普通の火の竃でよくない?」

「それが素人の浅はかさよ」

 ニヤリと自信ありげに笑って、アクセルは奥からいくつかのパンを持って戻ってきた。


 表面はしっかりと焦げ茶色、並んだ割れ目クープが美しい肘から手首くらいまでの長さの細長いもの、表面は白っぽく粉のふいた、両手でぎりぎり掴めるくらいの丸く大きなもの、それから拳大のふんわりした様子のものがいくつか。


「ついさっき焼き上がったばかりのもんだ」

 言ってまずは細長いパンを指一本分ほどの厚さに切って、イルヴァに差し出してくる。ノアを見上げると、口の端を上げて頷く。

「食ってみろよ」

「うん」

 まだほのかに温かいそれを口に入れると、表面は固く、歯応えがあるが内側は気泡が多めでふんわりと柔らかい。噛みきるとじんわりと香ばしい匂いとともにしっかりとした味わいが広がる。噛めば噛むほどその風味が口の中で広がって、あっという間にその一片を食べ切ってしまった。

「美味しい」

「だろ? あの高温の炎で焼き上げるからこそ、外側はカリッパリッと、中はふわっとなるわけよ。で、これつけて食っても美味いんだぜ」

 アクセルはそう言って小皿に瓶から薄緑の透き通った美しい液体を注ぐ。

「オリーブの実を絞った油だ。それから塩と」

 もう一枚切り分けられたそれを浸して口に運ぶと、爽やかな香りと塩味がさらにパンの旨味を引き立てた。

「これ、すごく美味しい」

「だろ? 焼き上がりには、いい音がするんだぜ」

「音?」

「そう、焼き上がりにしか聞けない儚いパンの歌声さ」

「ちょっと何言ってるのか意味わかんないんだけど」


 うっとりとパンを撫でながら歌うように言う姿を、イルヴァが冷ややかに見つめていると、ノアが傍らで吹き出して、もう一つの大きな丸いパンを細く切って、その半分をちぎって差し出してきた。

 その中には何かの実が混ぜて焼き上げてあるようだった。口に含むと、つぶつぶとした食感と甘い味が広がる。


「これ……無花果いちじく?」

「好きだろ、これも。お前、干し果物ドライフルーツは皿の上に置いておいたらこっそり食ってるもんな」

「え……知ってたの?」

「他に誰が食うんだよ?」

「鼠とかイタチとか」

「俺の家はそんなに荒れてねえよ」

 呆れたように言うノアに肩をすくめる。つまみ食いがバレているとは思わなかった。

 そんな二人の会話に仲のよろしいこって、と茶々を入れながらも、自作のパンを褒められたアクセルは嬉しそうに窓際に歩み寄り、冷え切った外から一本の瓶を取り出す。

「前にいい無花果が手に入ったからな。あと胡桃くるみの食感もいいだろ? これにはこの白葡萄酒も合うんだぜ」


 グラスに綺麗な透き通った液体を注いで手渡してくる。もう一度ノアを見上げると、少しだけな、と笑って頷いた。口をつけるとよく冷えたその白い葡萄酒は種類の違う強い甘みが無花果の甘みとパンに確かによく合う。

 気がつけば、パンもグラスの中身もあっという間になくなっていた。胃のあたりがふわふわと熱を持ち、頭を振るとくらりと目眩がした。


「空きっ腹に飲みすぎたか?」

「ああ、まだお子さまには早かったか」

 揶揄からかうようなアクセルの言葉に、うるさい、と言い返そうとしたが、ぐるりと地面が回るような感覚が襲ってくる。暖かい腕がイルヴァを抱き留めて、引き寄せられた。すぐそばでノアの怪訝そうな声が降ってくる。

「……おい、お前この酒……何だ?」

「ごく甘い葡萄をじっくり発酵させた奴。甘さに誤魔化されたかもしれないが、嬢ちゃんにはちょっときつかったかもな」

「だからか」


 やれやれというため息と子供扱いに抗議の言葉を上げたかったが、イルヴァの瞼は今にも落ちそうなほど重い。まだ朝だというのに。


「イル、大丈夫か」

「……眠い」

 その胸にもたれたままそう呟くと、もう一度盛大なため息と共に抱き上げられた。

「家まで運んでやるから、せめてしがみついとけ」

 言われるままにその首に両腕を回す。だがすぐに、ノアの左腕が上がらないのを思い出して降りようとしたが、ぐいと逆に強く引き寄せられた。

「これくらい何ともないから大人しくしてろ」

 額に触れる頬がざらざらとして若干不快だったが、ふわふわとした酩酊感と、包まれる腕の暖かさにすぐに意識が遠のいていく。イルヴァは耐えきれず目を閉じた。遠くに低いノアの声が聞こえる。

「……アクセル、その長いのと丸いの二つずつ、後で届けてくれ」

「うち、配達デリバリーはやってねえんだけど」

「お前があんなもんこいつに飲ませるからだろうが」

「へいへい。これに乗じて嬢ちゃんを襲うなよ」


 何を馬鹿な、と声を上げたつもりだったが、重い瞼に加えて舌もうまく回っていないようだった。ほんのわずか、イルヴァを抱く腕の力が強くなる。


「そんなことするわけねえだろ。俺は、こいつの簡単になびかないところが気に入ってんの」

「うわー、めんどくせえ」

 呆れたような声は、だがふと、真面目な響きを帯びる。

「お前、まさか嬢ちゃんが、お前に惚れるのを待ってんのか?」

「人の恋路に口を出す奴はろくな死に方をしないらしいぞ?」

 笑みを含んだ、それでもどこか鋭さを増した低い声にアクセルが押し黙る。それ以上は何も言わず、ノアはイルヴァを抱いたまま外へと出た。


 冷えた空気に少し意識が浮上して、しばらく逡巡してから口を開く。

「ノア」

「……寝とけよ」

 雑踏を避けて人気のない道を歩いているのが目を閉じていてもわかる。だから——酔った勢いにも任せて——イルヴァは小さく呟いた。

「別に、惑わされてないと思うよ」

「……お子さまは、大人しく寝てろっての」


 そう言って笑みを含んだ声がわずかに熱を持ち、もう一度首筋に触れた唇が先ほどより鮮やかな赤い痕を残したことを、イルヴァはまだ知らなかった。

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