眩惑の瞳 〜美味しいごはんと彼女の好意の因果関係〜

橘 紀里

Chapter 1. First winter

1. ホットワイン

 その日は朝からとにかく冷え込んでいた。イルヴァが寝台から出ようと身を起こすと、びっしりと窓に霜が張り美しい結晶を見せている。指先でその結晶を溶かして外を覗くと、完全に雪に埋まっていた。意を決して窓を開けると、驚くほど冷たい空気が流れ込んできて、その冷気を吸い込んでしまった拍子に息が詰まった。


「……っ!」


 肺に届いたあまりに冷たい空気にゴホゴホと咳き込んでいると、部屋の扉が開く音が聞こえたが、咳が止まらず振り向くことさえできない。

「何やってんだお前」

 呆れたような低い声と共に窓が閉じられ、それから肩に毛布がかけられた。大きな手が彼女を抱き寄せて、背中をさする。顔に押しつけられた厚い胸板の煙草と本人の肌の入り混じった匂いは独特なのに、それでもどこか安心して思わず目を閉じる。

「おい、せっかく起きたんだから寝るなよ、イル」

「寝てない」


 顔を上げると面白そうに笑う顔が目に入った。伸び放題の黒い髪に、それでなくとも粗野な印象を受ける無精髭だらけの頬。なのに、その双眸そうぼうは目を奪われるほどに鮮やかな紫で、じっと見つめられると彼女は毎回、ほうけたように見入ってしまう。


「何だ、やっぱり俺に惚れたのか?」

「んなわけないだろ、ノアの馬鹿!」

「なら、毎回そんな熱い眼差しで見つめんなよ」

 笑って、もう一度その双眸がじっとイルヴァに据えられる。魂まで吸い取られるようなそんな深い色のそれになすすべもなく見惚れていると、その顔が間近に迫り、かすめるように唇が重なって、すぐに離れた。

「……何やってんだよ!」

「何って、接吻キスだろ。まあまだお子さまだから、今はこんだけだけどな」

 早く大きくなあれと、小馬鹿にするように言ってひらひらと手を振り部屋を出ていく。その後ろ姿が扉の向こうに消えた頃には、気がつけば咳は止まり、体も温まっていた。


 ため息をついてから、今度こそ起き上がって寝台から出る。火の気のない部屋の中は身震いするほど寒かったから、とにかく手早く着替えを済ませ、居間へと移動して暖炉の前に座り込む。すぐにまた呆れたような声が降ってきた。

「寒さに弱いにもほどがあるんじゃねえの?」

「誰かみたいにデカブツじゃないからすぐ冷えちゃうんだよ」

「人をでかいだけの無用の長物みたいに言うんじゃねえよ」

「有用なところなんてあったっけ?」

「本当にお前は可愛いなあ」

 言いながら両頬を引っ張られる。間近に迫った顔はそれでも楽しげに笑っていて、やはり不思議な気がしてしまう。

「なんで?」

 主語も目的語も何もない問いに、自分でも呆れる。当然の如く相手も首を傾げた。

「何が?」

「ノアは何で私を拾ってくれたの?」

 

 数週間前、イルヴァはノアに拾われた。


 流行病はやりやまいで親を亡くし、それからどうして生きて行こうかと悩む間もなく、住んでいた村が野盗に襲われて壊滅した。それが本当に野盗だったのか、それとも敵対する隣国の兵士たちが化けた姿だったのか、その動機も正体も不明だったが、ただ一つはっきりしているのは彼女が全てを失った、ということだった。住む家も知り合いも、何もかも。

 逃れられたのが幸運だったのか、それとも一人で生き延びる苦難を負った不幸だったのか、正直なところわからない。山の中でただ逃げ惑い、野盗らしい男たちに見つかって襲われていたところに通りがかったのがノアだった。


「……何でってなあ、そりゃ、可愛かったからだろ」

「あの状況でわかるわけない」

 数日間山をさまよい歩いた挙句、男共に地面に引き倒されていた彼女は、それは酷い姿だったはずだ。今は淡く輝く金の髪も、透き通るような肌も、当時は泥まみれで、何より荒んだ眼をしていた自覚があった。

「心の眼で見ればわかっちゃうわけよ」

 言いながら、手を伸ばしてきて頬に触れる。愛おしいものに触れるようなその優しい手つきに、胸の奥がじわりと熱を持った。それでも、あの日からどこかが凍りついたままの心は、その熱を閉じ込めて遠くに感じさせる。

「そんな怪我までして」


 ノアの左肩には大きな傷がある。イルヴァを庇って斬りつけられ、その傷ついた状態で追手を斬り払いながら彼女を背負って逃げたせいで、その傷はより深くなり、今も左腕が上がらない状態だ。もともと戦いが得意な方ではないと自分でも言っている通り、どちらかといえば創意工夫で乗り切る方だ。正面から大人数を向こうに回して戦うなど本来の彼なら絶対にやらないはずだと、彼女はもう知っている。


「格好良かったろ?」

「馬鹿じゃないの?」

「素直じゃねえなあ」


 言いながらも、その顔は柔らかく笑っている。頬に触れる手はごつごつとしていて硬いのに、触れられているところから伝わる熱で、どうしてだか泣きたくなる。俯くと、その手が離れた。救われた感謝も、傷を負わせた申し訳なさも、何一つうまく伝えられなくて、そのくせ温もりが離れることだけは寂しくて、そんなぐるぐるとした想いを抱えていると、目の前に何かが差し出された。


 それは湯気を上げるグラスカップだった。ふわりと酒精アルコールの混じった甘い匂いが立ち上っている。受け取ると、ノアはイルヴァを後ろから抱きかかえるように座り込み、柔らかな金の髪の頭に顎を載せて、自身もカップに口をつける。

「何これ?」

「飲んでみろよ。一応酒だから、少しずつな」

 カップの中を覗き込むと、温められた鮮やかな赤い液体の中に、一口大に切られた果物がいくつか浮かんでいる。少しだけ口に含むと、控えめな葡萄酒の風味と強い甘味が口の中に広がる。

「甘っ……」

「好きだろ、こういうの?」


 見上げた顔は当然のように笑っていて、まだ知り合って数週間しか経っていないのに、どうしてこの人はこんなにも自分のことをわかってしまっているのだろうと内心で首を傾げる。


「お前は住むところと美味い飯が必要。俺は可愛い顔を愛でられて幸せ。相互利益関係WIN-WINだろ?」

均衡バランス取れてる?」

「まあ、愛なら圧倒的に俺の方が重いんじゃね?」

 片眉を上げてそう言いながら、カップの中身を飲み干す。近づいてきた唇からは、ほのかな葡萄酒と果物の甘い香りが漂っている。まっすぐに自分を見つめる紫の瞳に、魅入られたように動けないイルヴァに、だがその唇は額に触れるだけですぐに離れた。

 立ち上がったその裾を思わず掴んで見上げる。

「何だ?」

「ノアは、こんなんでいいの?」

 相変わらずの足りない言葉を、それでもノアは正確に把握したらしく、口の端を上げて人の悪い笑みを浮かべる。

「何、俺ともっと先まで進みたくなったか?」

「ちが……! でも、何か色んなこと、してもらってばっかりだし、その……」


 抗議の声を上げかけて、それでも語尾がしぼんでいくのは自分でもどうしていいかわからないからだ。何かを返さなければ、と思うけれど、どうすればいいかわからない。


 俯いたイルヴァの手に大きな手が触れ、彼女が握っていたカップをその口元に運ぶ。

「まずはあったまって、食って、よく寝て、それからだ。そんで、お前が俺を、考えてやるよ」

 ふわりとカップから香るその葡萄酒の香りが、ノアの唇の印象と重なる。これから、この香りをかぐたびに、そう思うのかもしれない、と思うと、心臓がずれた鼓動を打った。

「どういう意味……?」

「俺のこの眼に眩惑まどわされてるようじゃ、手を出す気にもなれねえってこと」

 その言葉の意味はわからないままだったが、口にあてがわれたままのカップから少しずつその液体を飲み干すと、ようやく解放された。喉から腹へと流れ落ちたそれのおかげで全身がぽかぽかと暖かい。

「さて、少し出かけるか」

「え、やだよ、寒いし」

「ちゃんとあったまったろ? 今日はお前に見せたいものがあるんだよ」


 常に寒さを言い訳に出かけるのを嫌がる彼女のために、わざわざ体の温まる飲み物を用意してくれていたのだと気づいて、イルヴァは渋々立ち上がる。


「つまんなかったら、多分あとですごく毒づくよ?」

「じゃあ、気に入ったら

 面白がるように笑った紫の瞳にまたぼうっと魅入られていると、顎をすくい上げられた。今度はその顔が近づいて、食らいつくように口づけられる。温められた葡萄酒の香る舌が絡みつくようなその口づけに、くらりと目眩めまいがしてふらついた腰を抱き寄せられ、耳元で笑う気配がした。

「まだまだだねえ」

 揶揄うようなその笑みに、それでももう一度惹き込まれそうになって、腹立ち紛れに左肩の傷をえぐり込むように殴りつける。

「いってえ……!」

 冗談でなく悲鳴を上げたノアを尻目にイルヴァは外套を羽織ると外へと歩き出す。


 振り返って見れば、肩を押さえながらも、やはりその紫の瞳は面白そうに笑っていて、それにどこかで安堵している自分を自覚して、イルヴァは深いため息をついたのだった。

 

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