8.庇うつもりじゃなかった(2)
しんと冷え渡った月夜、肩に載せていた
漆黒の羽に、闇色の瞳と
その姿は普通の烏よりも一回り以上大きく、尾も、まるで
単なる烏というよりは、まるで神獣のような風格を持った、独特な姿であった。
その大烏は大きな声で「カア」と鳴き、ばさりと翼を広げる。
そのまま宙で二回旋回し、再び肩に戻った愛鳥を見て、
「珠珠の呼び笛か」
ばさ、と翼を打ち付ける音が、その答えだ。
烏は再び旋回し、その動きで、彼らの今いる山のふもと、美しく整備された都の、とある方向を示す。
礼央は整った顔をしかめると、重い溜息を落とした。
「本当に、
樹々の合間から、その黒い瞳が見つめるのは、延々と続く壁に守られた、広大な城だ。
いや、厳密に言えば、天子がおわす至上の城は眼中になく、その奥の、夜なお灯の絶えぬ、華美な花園を見つめている。
――後宮。
あのおっちょこちょいは、本当に女官狩りに遭って、後宮に放り込まれ、あまつさえ、初日の選抜を勝ち残ってしまったらしい。
「律儀に呼び笛を鳴らしたところは褒めてやるが……
毒づいてはみせるが、おそらく薬を嗅がされたか、両手を縛られたのだろうとは、容易に想像がつく。
「連れ帰ったら、あの野郎は豚の餌だな」
人攫いは何人もの人間を介するのが常で、珠麗を最初に市で捕らえた男については、すでに半殺しにしていた。
半分生かしているのは、うかうかと珠麗を奪われてしまった自分への、自責の念を込めてだ。
無事に珠麗を連れ帰ったなら、願掛けの龍に両目を入れるように、男への処分も完遂させようと決めていた。
(……親父に気取られないようにしなくてはな)
後宮に忍び込むそれ自体よりも、そちらのほうがよほど難問だ。
皇帝のいる本宮に手出ししない限り、鉢合わせることはないだろうが、隣接した後宮で行動を起こすとなると、相応の覚悟がいる。
礼央の父や仲間は、あくまで現皇帝に忠義を誓い、その身辺を守っているわけだから。
主と仰ぐのは、一生に一人のみ。
その掟があるからこそ、皇太子につくかつかぬかの判断は、父ではなく、礼央自身に任されている。
(詩ばかり読んでいる軟弱な優男など、まずごめんだが)
眼下の都を行き交う、米粒ほどに見える人々は、誰もかれも、提灯を煌々と照らし、華やかに装っている。
門前町には活気があり、さすがは天華国の文化の中心地と言えたが、礼央はこの、きらびやかな都というものが、どうにも好きになれなかった。
華美な装いはうっとうしいし、なにもかもが迂遠で過剰だ。
それは、女性の好みにしても同様である。
そんなものよりもよほど、「肉が取れたわ、二欠片も!」と目を輝かせている姿のほうが愛らしい――。
礼央は、再び短く溜息を落とすと、口布を鼻先まで上げ直した。
彼の足であれば、山を下るのに数刻も掛からないが、後宮に潜入するとなると、それなりの用意が要る。
「やれやれ」
夜の闇に溶けるように、一言だけぼやくと、それに応えるように、肩の烏がばさりと翼を広げた。
***
子の刻近くになっても、あちこちの宮から聞こえる琴や
夜気にまぎれて焚いた香が漂い、敷地内に設えられた五つの舞台には、練習のためにやってきた
選抜二日目に備え、直前まで努力を重ねる女たちの姿を見て取り、巡回中の武官――
称賛ではなく、軽蔑の、である。
「そうまでして残りたいものかな、この檻に」
呟く声は、低く伸びやかだ。
通った鼻筋、薄い唇、切れ長の、けれど甘さを湛えた瞳。
すらりと精悍な体つき含め、この男を構成するものは、なにもかもが美しい。
じっと目を合わせて顔を寄せれば、たちまちあらゆる女が倒れ込んできそうなほどに。
けれど彼は、数多の女たちに視線を残すことすらせず、いつもの無感動な笑みを貼り付けると、優雅に道を進んだ。
異彩を放つ美貌も、存在感も、意識して気を殺せば、多少は削ぐことができる。
女たちからの視線を、今の彼は必要としていなかったし、それどころか、幼少時から過剰に憧憬を捧げられすぎて、女を疎んじている節すらあった。
武官だけが知る小道を、月明りだけを手掛かりに難なく進み、やがて敷地内の外れに位置する蔵へとたどり着く。
内務府が厳格に管理する宝物庫とは異なり、後宮内のこまごまとした調度品やがらくたを、一時的に保管するための蔵である。
出入りするのは、力仕事を任された
「やあ、
いかにも巡回の一部であると言うように、堂々と扉を開けてみれば――怪しまれないためには、常に堂々としているのが一番だと彼は熟知している――、相手はずいぶんと待っていたらしく、すぐに拗ねた返事があった。
「遅いですわ、
怒っているような内容のわりに、声自体はおっとりと上品だ。
「それに、後宮では、その名で呼ばないでくださいませ。禁忌の文字ですし、第一、正体が露見してしまいますわ」
指を突きつけ、悪戯っぽく付け足した少女は――蓉蓉であった。
玄、ではなく、自誠と呼ばれた男は、口の端を持ち上げて嘆息した。
「君こそ、僕の名前を間違っているよ。ここでは自誠ではなく、玄だ。皇太子の乳兄弟というだけで運よく後宮武官の座を射止めた、郭氏の三男坊」
「皇太子が後宮に潜入するというだけでも軽率ですのに、よくもまあ、人数が多く紛れやすい太監ではなく、少数精鋭で注目も集めやすい武官なんかに、扮したものですわねえ」
「君だって、
悪びれもなく肩を竦める兄に、蓉蓉は溜息を落とした。
「玄様も、乳兄弟というだけで、皇太子の影武者を演じる羽目になるだなんて、不運なことですわねえ」
「本人は喜んでいるさ。日がな離宮に籠って、趣味の詩を書き散らしていればいいのだから」
「あまり上手とは言えないあの詩のせいで、お兄様の評判は大暴落中ですわよ」
「願ったりだ」
軽く
「無能で離宮から離れぬ皇太子、という印象が強いおかげで、僕はこうして、自由に後宮内の情勢を調べられる」
「皇族の男子が住まうのは、本宮か、都外の離宮。結局のところ、後宮からすれば、皇帝とて『部外者』にすぎませんものね」
「ああ。太監を通じてしか把握できない後宮の実態を知るには、潜り込むのが一番だね」
そう。
自誠――天華国の皇太子が中級貴族の三男坊である郭 玄と入れ替わり、武官なんかに扮しているのは、ひとえに、彼自身の目で、後宮を見極めたいとの思いからであった。
儀の直前に潜り込んだのでは怪しまれるとの計算から、四年以上も前から、徐々に頻度を増やしては、武官として後宮に出入りしているのである。
蔵の窓越しにも届く楽の音を聞き取り、自誠はそっと目を細めた。
「妃嬪の『下げ渡し』が伝統となって以来、陛下が年老いてなお、後宮は若い女を延々と受け入れつづけ、肥大化するばかりだ。いくら揺籃の儀を設けたところで、審議を司る太監に権力が集中しただけのこと。才能と忠節のある女ではなく、太監を手なずける財や甘い声を持った女たちだけが、生き残る」
女たちがそうするのは、ある種自然の摂理だ。
処世術もまた、妃嬪に求められる才覚の一つのはずで、それを頭から否定するつもりは、自誠とてない。
しかし、中身が空疎な甘い花は、後宮中にはびこって、この百年でずいぶんと腐敗した。
そしてまた、太監長には権力が集中しすぎた。
後宮から皇帝を操れると、思い上がってしまうほどに。
「花園はしょせん、花園だ。花は人の目を楽しませるために咲くものであって、人を操るものではない。百花の園の持ち主としては、思い上がった管理人も、腐った花も、きちんと見極めて、『整備』しなくてはね」
「お兄様のお考えは承知しておりますし、だからこそこうして協力しているのです。そんな健気なわたくしにまで、冷気を浴びせないでくださいませ」
薄く微笑む兄を見て、蓉蓉は寒さを感じたように腕を擦る。
麗人というのは、ほんの少し目に力を込めただけで、言いようもない迫力を漂わせるのだから、厄介なことだ。
あるいは、生まれたときに都中に瑞雲がかかったと言われるこの兄が、特殊なのかもしれないが。
自誠の異母妹、そして公主として、多少は耐性のある蓉蓉は、軽く咳払いをすることで、なんとかその威圧から逃れた。
「さて、そんなお兄様に、早速ご報告ですわ。仰るとおり、太監長を中心とした後宮の腐敗は随分と進行しているようです。本日見た限りでも、彼に
お気に入りの少女を巻き込まれた苛立ちも込め、蓉蓉は祥嬪の名をあえて出した。
「祥嬪は本日、教養高さで知られる純貴人に、あえて自分の鏡を割らせ、悪評を立てようとしたようです。さらには、やり返されたことを理由に、画が得意な明貴人のことも牽制してきました。折しも明日は、画才の競い合い……あるいは彼女は、選抜の内容すらも、すでに聞き出しているのかもしれません」
「彼女も入内したばかりの頃は、奥ゆかしかったのに、毒殺されかけてからは、ずいぶんと攻撃性を露わにするようになったね」
さらりと「毒殺」などと不穏な言葉を吐く兄に、蓉蓉は軽く眉を寄せた。
「……後宮は、ずいぶん殺伐としてしまいましたのね。わたくしが十の年で離宮を賜り、ここを出ていくまでは、お
「ここが殺伐としてなかったときなんてないさ」
「ですが四年前、お兄様が潜入しはじめてすぐのころは、『意外に愉快な場所だった』と笑いながら仰っていたではありませんか。女たちは、争いもせず楽しくやっていると」
蓉蓉が反論すると、自誠は口の端を歪めた。
「……愛らしい豚がいたんだ」
「え?」
「あんまりの愛嬌に、周りの毒気が抜けてしまう、愛玩動物がね。それで後宮も穏やかだった。でもそれも、ほんのわずかな期間のこと。その豚も、結局は野心に溢れ、権力に媚びへつらう雌豚の本性を晒して、追放された。やはりここには、その手の女しかいないのさ」
女性を躊躇いもなく「雌豚」と呼んでしまえる兄を前に、蓉蓉は天を仰いで嘆いてみせた。
「……大当たりですわよ、珠珠さん」
「なんだって?」
「いいえ、なんでも。それって、『白豚妃』のことですわよね」
溜息をつきながらごまかす。有能な兄のことは尊敬しているが、この根深い女性不信は、どうにかできぬものかと悩んでいた。
一度彼に心を開かせ、その後裏切ったという白豚妃とやらを憎んでしまうほどだ。
四年ほど前までは、擦り寄ってくる女性に関心を持たぬ代わりに、ここまで蔑みもしなかったはずなのに、今や彼の女性観は氷のように冷え切っている。
だが蓉蓉は、まさに今日、それを解決する希望の星を見つけたのであった。
「ですがお兄様、世にはそんな女性ばかりではありませんわ。わたくし出会いましたの。強烈な光を放つ、素敵な女性に。珠珠さんですわ。お兄様も今日、惹きつけられたでしょう?」
楽しげに語る蓉蓉の瞳が、月光を弾くようにきらりと光る。
彼女はときおり、このような瞳をするのだった。
人の真価を見極め、
「姿は麗しく、教養高く、その魂は天に座す月のように
珠珠と名乗る少女の姿を思い出して、蓉蓉はうっとりと目を閉じた。
頭抜けた美貌、掠れて密やかな声、そして貞淑さに満ちた言動。
彼女が優れた教養をもって、下級妃の窮地を救ったことも、その後、純貴人本人から詳しく聞き出した。
静雅もまた、祥嬪の横暴を凛として受け止めた少女の姿に、いたく感動していたのだ。
だが自誠は、少女に惹きつけられたことは否定しないまでも、
「教養高さと美貌、そして今時珍しい奥ゆかしさは認めるが、なぜ彼女はそれを隠そうとしたんだろうね。本人は『自分ごときではふさわしくないから逃げようとした』と言い張っていたが、やたら噛んでいた。怪しいとは思わないかい?」
「簡単なことです。郷里に思い定めた相手がいるのでしょう。けれど既婚ではないから、強固には言い張れなかった。わたくしたちにとっては幸いなことですわね」
もし蓉蓉の発言を聞いていたら、珠麗は地に崩れ落ちていたことだろう。
その設定なら自然だったし、既婚者だと言えば放免されていたのにと。
だが、ここ数年あまりに色恋から離れていた彼女にその発想はなく、すべては手遅れだった。
「もっとも、結婚していたとしても、戸籍をいじればすむ話ですけれど」
ついで蓉蓉は、花が綻ぶようにふんわりと笑う。
彼女はその穏やかな佇まいとは裏腹に、欲しいものはなにがなんでも手に入れる、まさしく皇家の女なのであった。
(いずれ珠珠さんが、わたくしの義姉となったなら、どんなに楽しいことでしょう)
従順で温厚な人間などつまらなくて、風変わりだったり、こちらの意表を突く人間にこそ、そそられる。
その気質は、さすが兄妹と言うべきか、自誠とそっくり同じである。
なので、彼女はにっこりと笑みを浮かべ、美貌の兄へと向き直った。
「引き続き、わたくしは後宮の内側から、誰がどの程度、腐敗に関わっているのかを調べてまいりますわ。ですから、その褒美として、お兄様。わたくしと賭けをしませんか?」
「賭けだって?」
「ええ。珠珠さんは、自分が後宮に残れるかどうかは、天命次第と仰っていました。逆に言えば、彼女が選抜に最後まで残ったなら、それは天の意思です。そのときには、どうか彼女を上級妃に立て、世には素晴らしい女性もいるのだということを、認めてくださいませ」
「それはもちろん、優秀な女性なら、取り立てることもあるだろうね。心根が善良かどうかは別問題として」
眉を上げてみせた兄のことを、軽く睨み付ける。
「女性は、欲望を競わせ合い、種を孕むだけの無力な生き物ではありませんわ。きっと、お兄様と対等に渡り合い、ときに守ってさえくれる女性がいるはずです」
「おお、怖い。巫女の化身と言われる公主に睨まれては、かなわないな」
まったく怖がっていないような素振りでそう告げて、自誠は妹へと尋ねた。
「では、君が賭けに敗れたときにはどうするんだい?」
「わたくし、負ける賭けはしませんの。大丈夫、すぐに珠に夢中になって、おろおろとそれを追い回す龍の姿も
ふん、と不機嫌に鼻を鳴らすと、蓉蓉は踵を返す。
「そうだ、貴人用の新しい衣を一着手配してくださいな。至急ですわよ」
そして去り際、振り向いて指を突きつけると、扉を叩きつけるようにして、蔵を去った。
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脱字修正させていただきました!
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