第5話
「あっ……」
僕は自分の身が自由になったことに、ようやく気づいた。身体を縮こませるようにして、両腕を組む。手首を擦ってみたが、軽く赤い筋が入っている以外は、特に異常はないようだ。
それよりも、僕の関心はある一点に向かっていた。あの星の輝きが瞼の裏から離れない。
無論、地球のことである。
だが、僕は自分が、いささか冷静さを失っていたことは自覚していた。
地球に行くには、まずスペースプレーンを使う必要がある。だが、一体誰が操縦するのか? 僕たちの中で、そんな操縦技術を有する者はいないだろう。
さらには、スペースプレーンの無断使用が、そもそも重罪だということも思い出される。
確か、その場で射殺されても文句は言えないほどの大罪ではなかったか。
地球への羨望を高めておいて、一体あのHMDは何がしたかったのだろう。
ひとまず、誰か気がついた人と話をしてみる必要があるな。僕はゆっくりとソファから腰を上げた。
「おっと」
座りっぱなしで身体の重心が歪んでいる。
幸い、このフロアにも人工重力が働いており、僕の身体はすぐにこの場に馴染んだ。
まずは、隣席だったポールから。
「気がついたかい、ポール――」
と言って近づき、僕は真正面から彼の姿を捉えた。そして、恐ろしさのあまり、勢いよく尻餅を着いた。
「う、うわぁ、うわあああああああ!」
そこには、確かにポールが座っている。否、いた。
今、その身体は脱力し切って、生命力の欠片も感じられない。完全な、制服を纏っただけの肉塊と化していた。
どうしてそんなことが分かったのか。一目瞭然である。
自慢の眼鏡はフレームが曲がり、片耳からぶら下がっている。その耳、目、鼻、挙句は口からも、真っ赤な鮮血が滴り落ちていた。
きっちり着こなされたブレザーも、胸元から膝に至るまでが、どす黒い染みになっている。
僕は大慌てで、誰かに助けを求めなければと思った。
しかし、誰に? ここには生徒たちしかいないようだし――いや、そもそも、一目でポールは死んでいるのだと判断したばかりなのに、どうして助けを求める必要があるのか?
僕は、酷く倒錯していた。そうと自覚できないほどに。
「な、何なんだよ、これ……」
そんな僕を現実に引き戻したのは、低い呻き声だった。ポールの隣席から聞こえてくる。
そこには別な生徒が座り、しかし彼もまた完全に脱力していた。
彼が存命であると判断できたのは、彼が呼吸をし、また、出血はしていなかったからだ。
だが、この無力感漂う雰囲気はポールと似通っている。まさか、脳に障害を負ったのではあるまいか。
あちらこちらから呻き声がしだす頃になって、僕は思わず、はっと声を上げた。
レーナ。そう、レーナだ。彼女は無事なのか?
「レーナ! レーナ、どこにいる!」
傍から見たら、気が狂っているように見えたかもしれない。僕は肩を震わせながらソファの間を闊歩する。あの綺麗な金髪は、そしてあの青い瞳はどこへいった?
そうして歩き回っていくほどに、僕はどんどん絶望の淵に追い込まれていった。ソファに座っている生徒たちは、二種類しかいなかったのだ。
一つは、焦点の定まらない目をして呻き声を上げている、脱力しきった生存者。
もう一つは、一つ目に流血を加えた死亡者だ。
さっきのHMDは、本当は何だったのか。こうして生きている僕は異常なのか。
そんな考えが頭をよぎる。
左右に視線を飛ばしつつ、僕の心はだんだんと冷たさに侵されていった。
生存者が僕一人だけだったとしたら、一体これからどうすべきなのだろう?
しかし、そんな心配は唐突に打ち消された。よく知った生徒の声が聞こえてきたからだ。はっとしてそちらに駆けていくと、その生徒が別な生徒に向かい、声を荒げているところだった。
「大丈夫か! おい、返事をしてくれ!」
「フィン、フィン!」
彼女の名を連呼すると、その生徒、フィンは勢いよく振り返った。
「ああ、アル! 無事だったのか!」
「僕は何ともないみたいだ。でも、他の皆が――」
そう言いかけた時、フィンは僕の肩越しに向こうを覗き込み、そして短い悲鳴を上げた。
僕も首を巡らせると、視界に入っただけでも二、三人の生徒が、ポールと同じ末路を辿っていた。
「おい、お前ら!」
「待つんだ、フィン!」
僕は彼女を引き留めようと腕を差し出した。が、彼女の俊足の方が、僕の腕よりずっと速かった。
仕方ない。遅かれ早かれ、彼女にとっての大切な人――ポールの死は、隠し通せることではないのだ。
痛々しい想像を打ち消し、僕はレーナの捜索を再開した。
フィンという友人の生存が判明し、僕はだんだんと落ち着きを取り戻した。それでも、レーナがまともな状態で生きていてくれる保証はどこにもない。気は滅入ってくるばかりだ。
「レーナ……レーナ!」
僕は自分の声が掠れていることに気づいた。嗚咽が混じっていることにも。
レーナは僕に、好意を示してくれたのだ。地球オタクと揶揄され、時には後ろ指をさされていたであろう僕のことを。
告白された時、僕は尋ねた。一体僕の、どこがよかったのか。
すると、彼女はこう即答した。
『何かに熱中して努力できる人って、素敵じゃない?』
そうだ。レーナは僕の、執拗ともいえる地球への想いを『努力』と捉えてくれた。
そして、彼女の瞳は――夕日の加減もあったのかもしれないけれど――紛れもなくコバルトブルーに輝いていた。
僕はそこに、自分の憧れの星を重ねて見ていたのだ。
恋愛にまで地球を持ち込むなんて、我ながら救いようがないと思う。それでも、僕はレーナに、完全に惚れ込んでしまった。そして、守りたいと思ったのだ。
地球とレーナ、どちらが大切なのかと問われたら、僕は永遠に答えを出せないだろう。
そんな彼女が、命の危機に瀕している。しかし、それは彼女が死んでしまったことと同義ではない。
たとえ僅かであろうと、彼女が生きている可能性があるのなら、自分の喉などどうなっても構わない。
それから、どれほどその名を叫び続けただろう。僕の左耳が、微かな空気の振動を捉えた。
はっとしてそちらに振り返る。僕の視線の先には、取り外されたHMDがある。それがだらりと配線からぶら下がって、ソファにぶつかるところだった。
そのソファから、がっくりと倒れ込む人影がある。
僕は、そこに金色の輝きがあるのを確かに認めた。
「レーナッ!」
そちらに方向転換しようとして、足をもつれさせる。ばったりと倒れる自身の上半身を、何とか掌で支える。そしてそのまま、今度こそ駆け出した。短距離走のクラウチングスタートのような姿勢で。
何故か分からない。しかし、その時の僕は完全に高揚し、興奮し、そして殺気立っていた。
誰が僕を止められるものか。誰にも手出しはさせない。
僕が、他でもない僕こそが、レーナを守ってやる。
僕は我ながら、信じられない速度で、レーナの下へと駆けつけた。倒れ込む彼女の上半身。その両肩を、僕はギリギリのタイミングで支えた。
危うく彼女の美麗な顔が、床面に叩きつけられるところだった。
僕は両肩をぐいっと押し返し、レーナの身体をソファの背もたれに押し付けた。力任せになってしまったが、僕は自分を止められない。
そのまま怒鳴りつけるような勢いで、彼女の名前を連呼した。
まるで、宇宙で唯一残された言語が、それだけになってしまったかのように。
やがて、微かに彼女の唇が動いた。すっ、と息を吸い込むように。
「あ、ああ……」
僕はまるで、レーナの下に陽光が差したかのように思われた。彼女自身は、さしずめ天使といったところか。
はっとして、僕はそっとソファに載せていた片膝を下ろした。レーナはもうじき目を覚ます。
そう自分に言い聞かせて、そっと彼女の肩から手を離した。この期に及んで、ようやく僕は気づかされたのだ。自分が握っていた肩が、いかに華奢であったかということに。
「レ、レーナ?」
今度こそ、そっと声をかける。彼女の睫毛がぴくり、と動いた。
僕は震える手で、そっと彼女の手を取った。
大丈夫だ。彼女は生きてる。無事だ。出血もない。彼女の手には、温もりがある。
「……あれ? あなた、アル? 私、一体……何がどうして……」
「よかった、レーナ……君が無事で……」
気づいた時には、僕は彼女の手の甲に額を当て、止めどない涙を流していた。
彼女の存在が、これほど僕自身の中で大きな割合を占めていたとは。
しかし、ここで立ち止まっている時間的猶予はなかった。フロアの前方から、鋭い悲鳴が響き渡ってきたのだ。
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