第25話「8月31日の夜に~ある少年の願い」

『8月31日』


 壁掛け時計が、今日の日付を表示しています。


 時計の音を聞いていると急に胸が苦しくなって、小学生のマサルくんは家を飛び出しました。


 近所の公園まで来ると、マサルくんは、一人でブランコに腰掛けました。夏休み、友だちと、よくここで遊んだものです。今日は誰もいません。


 あれだけ うるさかったセミたちも気づけば いなくなりました。空を見上げると、オレンジ色のトンボたちが飛んでいます。


 それを見ながら、マサルくんは、夏休みが終わらないように念じました。何日も前から念じています。


 夏休みが終わりませんように。夏休みが終わりませんように……。


「ボク」


 誰かがマサルくんを呼びました。


「こっちだよ。ボク」


 ブランコの後ろ──公園の林の中に、黒ずくめのおじいさんがいました。


「これを、キミにあげよう」


 マサルくんに近づくと、おじさんは言いました。

 そして ふところからガラスの小瓶こびんを取り出し、マサルくんの手に乗せました。コルクで栓がしてある小瓶です。よどんだ沼底のような色の液体が入っていました。


「それは、なんでも願い事を叶えてくれる毒薬だよ」

「どく?」

「ああ。マサルくん、キミには願いがあるね?強く強く願いつづけていることが」

「うん」


 夏休みが終わってほしくない。ずっと終わってほしくない。


「どうすればいいの?」

「入れるんだ」

「いれる?どこに?」

「水槽にさ」


 マサルくんは ドキリとしました。

 マサルくんの家には、玄関に水槽があります。その中には、白くて美しい金魚が一匹泳いでいました。


 お母さんの金魚です。とても長生きで、お母さんが子どものころから大切にしている金魚なのです。


「願いを、強く強く念じながら、金魚が泳ぐ水槽に、それを入れるんだ。そうしたら、キミの願いは叶うよ」

「だけど、どくなんでしょ?金魚は、どうなるの?」


 小瓶から顔を上げると、黒ずくめのおじさんは消え失せていました。


「願いを叶えたいなら、水槽に入れるんだよ、マサルくん。今日が終わる前に」


 木々のざわめきに紛れて、おじさんの声が降ってきました。おじさんは消えましたが、マサルくんの右手には小瓶が残りました。



 夜、マサルくんは、小瓶を握りしめ、ベッドから抜け出しました。


 そっと部屋のドアを開けます。

 外から虫の声が聞こえてきます。お父さんとお母さんの寝室からは、何も聞こえてきません。


 マサルくんの部屋は二階にあります。マサルくんは、真っ暗の中、ゆっくりと階段を降りていきました。


 気をつけていましたが、汗ですべって、足を踏み外してしまいました。慌てて手すりを掴みます。

 ですが、その時に小瓶を落としてしまいました。


 カン、コン、カカン──


 小瓶は下へ転がっていきました。


「マサル」


 急に声をかけられて、マサルくんは心臓が止まるほど驚きました。

 振り向きざまに、廊下の電気がついて明るくなります。

 お母さんが立っていました。


「なにをやってるの?」

「お、おトイレ」


 そう嘘をつくと、お母さんは首をかしげます。


「トイレ?二階のトイレを使えばいいじゃない」

「あ、えとね。のども かわいたから お茶ものみたくて……」


 もうヒヤヒヤです。すぐにでも小瓶を確かめたいと思いました。中身がこぼれていたり瓶が割れていたら大変です。それに もし瓶を見られて「これは何?」なんて訊かれたら、隠し通せる自信は ありませんでした。


 怪しむような目をマサルくんに向けたお母さんでしたが、「電気はちゃんとつけなさいよ。危ないでしょう」とあきれたように言うのでした。


「う、うん」と、マサルくんは うなずきました。

「お茶、飲みすぎないようにね。あと、トイレがすんだらすぐに寝なさい。明日から学校なんだから」

「はい」


 お母さんは、「おやすみ」と言って笑うと、寝室に戻っていきました。


 お母さんの姿が消えると音を立てずに、でも早足で階段を降ります。小瓶は暗がりに転がっていました。割れていませんし、こぼれてもいません。

 マサルくんは、ほっとしてため息をきました。



 玄関では、ブクブクと泡が湧きたつ水槽の中で、白い金魚が眠ったようにじっとしていました。

 金魚は、マサルくんが近寄ると、おびえたように水草の影に隠れました。


 マサルくんが生まれる前からいる金魚。お母さんが小さなころから大切にしている白い金魚。


 コルク栓を、開けます。


 夏休みが終わりませんように。夏休みが終わりませんように。ずっと終わりませんように────!


 目が心臓になったみたいにドクドクして、目玉が飛び出しそうです。震える手を水槽に近づけ……、そして、沼底色の毒は水に溶けていきました。


 マサルくんは、逃げました。

 部屋に戻ると、タオルケットをかぶって丸くなりました。



 朝、いつもより早く マサルくんは目が覚めました。

 ゆっくりと階段を降りていきます。


 恐る恐る玄関に近づきました。


 金魚は、死んではいませんでした。いつもどおりに水槽を泳いでいます。


 よかった……。


 マサルくんは、ほっとしました。


「おはよう、マサル」


 マサルくんがリビングに行くと、すでに朝食を食べ終えたお父さんがいました。


「おはよう」

「早いじゃないか。ここのところ寝坊助なのに」

「だって、今日から学校だから……」

「ははは、寝ぼけてるのか?まだ8月だよ?」


 お父さんは、可笑しそうに言いました。


「え!?」


 マサルくんは嬉しくなってきました。願いが、叶ったのです。


「それじゃあ、おトウさんは行くよ」

「うん!ねえ、お母さんは まだ ねてるの?」


 お父さんは、マサルくんの言葉を聞いて、戸惑ったように目をまたたかせました。


「おかあ、さん……?なんだい それは?」

「え?」

「どういう意味の言葉なんだい?なんかの暗号なの?」


 壁掛け時計が、今日の日付を表示しています。


『8月32日』


 今日も明日も、夏休みは終わりません。

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