第17話「春―卒業―」【ブラックコメディ】

 桜の花びらが舞っている。


 運動場の隅で、同じ制服に身を包んだ二人組が空を見上げていた。一人は壁に背をもたれながら、もう一人は、草地に寝そべって後頭部に腕を組んで……。


「もうすぐ卒業か……」


 寝そべっている方がそう言った。


「先輩がいなくなったら、寂しくなります」


 立っている方がそう返す。

 そう言われて、先輩は笑った。


 二人は目の前の建物を見やった。二人が日々を過ごしてきた場所は、今 日差しを受けて白く輝いている。


「ここに入った時は、あの建物もこの壁も、俺たちを閉じ込める檻のような気がしていたけど、卒業を前にすると寂しいもんだな」

「ええ、そうっすかねぇ。俺には そうは思えないな……」


 後輩が、不満げに言葉を漏らす。忌々しそうに制服の襟を引っ張った。


「意味もなく厳しい不条理な規則で俺たちを縛るこの場所を、自分はそんなふうに思えないですよ。先輩が羨ましいっす」


 そんな後輩を、先輩は「若いな」と微笑ましく眺めた。


「俺は、ここにいれてよかったと思うよ。だって ここに来なかったら、お前にも出会えなかったしな」

「それは、確かに」

「社会ってのは厳しいもんさ。この場所や俺たちを縛りつける規則は、俺たちを守るためにも存在していたんだなって、それに気づくさ」

「そんなもんすかね……」

「ああ。そんなもんさ。それに、たとえ ずっとここにいたくても、お前も、いつかここを巣立つ日が来る。いつまでも ここには いられないだろ?」

「そうですね。自分は、一日でも早く卒業したいって思ってますよ」

「だけどな。ここから出たら、俺たちは独りだ。庇護してくれる人なんざ いないだろ?独りになった時、自らを律して規則正しく日々を送るってのは、思った以上に大変なもんさ。怠惰に、自暴自棄に。堕ちようと思えば、人は簡単に、どこまでも堕落できるからな。お前にも、いつか分かるさ」


 すっかり変わってしまった先輩を見て、後輩の心に、どうしようもない憂愁ゆうしゅうが広がっていく。

 卒業という単なる物理的な別れとは違うなにか。互いの心が遠く離れてしまったような、本当の別れ。そんな惜別せきべつの情で胸が苦しくなった。


 後輩は、空を仰いだ。真っ青な春の空は高く、風に桜の花びらが泳ぐ。

 息を吸い込むと、菜の花の香りが肺を満たした。この壁の向こうの通りは河川敷になっている。桜と共に菜の花畑も見ごろを迎えているらしい。


 「よいしょ」っと先輩が立ち上がる。腰に手を置いて背伸びをした。


「先輩。卒業したらどうするんです?」

「俺か?なに、やることは変わらないよ」

「えっ!?そうなんすか」

「ああ。たとえ ここを出ても、俺は俺のままだ」


 先輩の力強い笑顔に、後輩は嬉しくなった。


「それ聞いて、安心しました。すっかり変わっちまったのかと」

「だれが変わるかよ!」


 やっぱり、先輩は自分の知っている先輩だ。たとえ卒業して会えなくなったとしても、それは別れではないんだ。


「また会えますか?いや、会いましょう」

「ああ、待ってるよ。お前も、変わんなよ?」

「変わりませよ!先輩こそ、自分が卒業するまで しくじんないでくださいよ?」

「俺を誰だと思ってんだ?伝説の谷ヤンだぞ?」


 二人は笑い合った。硬く握手を結ぶ。


「俺たちは、変わらない!」

「はい!」


 建物の近くで、青い制服を着た男がこちらに手を振っている。


「時間か。いくわ」

「お元気で」


■■■■■


 強面こわもての刑務官が、先輩を前にして彼を呼んだ。


「109番!」

「はいっ!」


 囚人服から私服に着替えた先輩が背筋を伸ばして返事をした。


「今日で刑期終了だ。もう戻って来るんじゃないぞ?シャバに出たら、いい加減に真面目に働くんだ」


 刑務官の言葉に、先輩は、意味深な笑顔で返した。

 その意味を悟ってか、刑務官は、無言のまま ため息を漏らした。


 刑務所の前通り。

 桜並木を見上げて、先輩は気持ちよく伸びをする。バッグを肩に引っ掛けると、右手をクルックルッと回して指の準備運動をはじめる。


 腕はなまっちゃいない。


 伝説的スリ師・抜き手の谷ヤン・58歳。嬉々として街へ繰り出していった。

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