第14話「片羽のマルハナバチ:後編」

 医師から告げられたのは、手術の成功だった。


 男の妻は、立ち会いに来ていた自分の母と泣きながら抱き合っている。男の横にいた彼の義父が無言で、男の背に手を置いた。


 ただ一人、男は、放心状態であった。助からないと思っていた。


 娘の容態は安定していたが、意識が戻るまで時間がかかる。

 男は一人、帰宅していた。食事や着替えなどをすませて夜には病院へと戻る。そこで妻と交代する予定だった。



 帰宅して、男が真っ先に向かったのは彼の小さな書斎だった。

 確かめたいことがあった。

 記憶を頼りに、クロゼットの奥から小さな段ボールを引っ張り出した。もう何年も開けていないそれは、くすみ、表面はざらついていた。

 机の上に乗せて上蓋を開ける。

 中に入っていたのは、黒表紙のダイアリー数冊。それは、男が自らの過去を知るための唯一の手掛かりであった。


 はやる気持ちを押さえながら、一番新しいダイアリーを、つまり最後の一冊を探した。


 『2021』の金の刻印。


 あった。両手に乗せて、ページをめくる。

 あるページで手が止まる。男は、震えるように息を吸った。


「殺して、いなかった」


 力が抜けたように椅子に崩れ落ちた。


 消え去っていた過去――部屋に迷い込んだ片羽かたはねのマルハナバチとの日々が、男の脳裏に蘇る。


「ハナちゃん……」



 襖の奥から羽音がした。台所の床に、片羽の黒い蜂がいた。

 男は、重い鉄のドアを開けて、ふらつくように表に出ると、チラシに乗せたそれを、コンクリートの通路に投げ捨てた。それでも蜂は、またよじ登ってこちらに近寄ってくる。


 一瞬潰してしまおうと思ったのは事実だった。


 近寄って、踵を踏んで、つま先を上げる。

 あとはひと踏みするだけ。

 

 全身の細胞が、なにかものを言う。


 できなかった。


 ため息をついて、もう一度チラシに乗せると、花群れの前まで来た。


 久しぶりの陽ざし。暖かだった。男は、まだ冬だと思っていた。

 閉め切ったカーテンの内側で、屍のように身体も意識も眠ったように過ごし、時間感覚もあいまいな内に、季節は巡り、世界には春がやって来ていたのだ。

 あれから、三年目の春。社会人として過ごしたのと同じ時間が、気が付けば巡っていた。


 いい加減に、もう。


 花群れの上に蜂を乗せようと、チラシを傾ける。

 けれど、蜂は一向に花に寄りつこうとはしなかった。


「どうした?おいしい蜜がたっぷりだぞ?」


 あたりを飛ぶモンシロチョウやらモンキチョウやらを見やって、小さくそう言った。

 けれど、蜂は、頑なにチラシの傾斜に逆らってよじ登ろうとしている。羽を震わせて何かを訴えているようだった。


「仕方ないな」


 男は、蜂をつれて部屋に戻った。



 こうして、男と蜂との日々が始まった。


 部屋に戻って、まず気づいたのは部屋の汚さだった。最後にまともに掃除をしたのは何カ月前のことだろうか。部屋の隅には埃が吹き溜まっている。


 まずは、掃除から始めた。


 河川敷や自然公園の野の花々を摘み、花瓶二つを買って来て花を生け、そこへ蜂を乗せた。


「そうか。お前、マルハナバチって言うのか」


 調べると、その蜂は、正式名称を小丸花蜂コマルハナバチと言うらしかった。全体に黒く尻が橙や黄色のものはメスらしい。


「名前つけないとな。女の子なら、ハナちゃんってのはどうだい?」


 そう言うと、蜂は、前足を懸命に動かして羽を鳴らした。喜んでいるように、男には見えた。


「気に入ってくれてよかった」


 三年以上笑うことのなかった男は、その日久しぶりに笑った。


 マルハナバチは、農家などで受粉にも活用され砂糖水などを与えても飲むそうだ。それを知った男は、時折、砂糖水やジュースやハチミツ水などを綿棒に染み込ませ、マルハナバチに与えた。すると、マルハナバチは、嬉しそうに吸うのだった。


 晴れた日などは、窓を開けた。ずっと室内だとマルハナバチにとって良くないかもしれないと、そう思ったからだった。

 こうして男の生活に風と光が戻った。


 男は、自らと向き合い、大切にしてきた怨念を手放した。

 週三日程度、小さな工場のデータ入力業務のアルバイトを始めた。外の環境や人に慣れるための、半ばリハビリであった。

 一方、高望みは止めて、簿記の資格の勉強を始めた。地道に一歩ずつ歩くことにしたのだ。



「ハナちゃん、ただいま」


 帰ってくるなり、男は窓際の花瓶の前に胡坐をかいた。

 男が花瓶の前に座ると、マルハナバチは、花のてっぺんに顔を出して羽を鳴らすのだった。


「簿記初級、受かったよ」


 男がそう言って嬉しそうに笑うと、マルハナバチは手足をばたつかせて、ぽとりと下に落ちた。

 下には柔らかなクッションが敷かれていてその上で、仰向けになってころころと転がる。


 男は、指をマルハナバチに近づけた。その指を掴んで、マルハナバチは指にとまった。男の指先で、マルハナバチは、じっと男を見つめているようだった。



 はじめのころは考えられないことだった。

 マルハナバチのメスには、毒針がある。性格は大人しく、毒性も強くはないようだが、それでもふいに刺されたらやはり腫れて痛いようだ。だから餌をやったり花を変える際も素手では触れぬようにしていた。


 だが、おっちょこちょいな性格なのだろうかそれとも飛べないせいなのか、マルハナバチは、時折花から落ちることがあった。

 怪我をしたらいけないと、男は、できるだけ柔らかなクッションを買って、花瓶の周囲に敷いた。


 そして、ある時、男は気が付いた。どうやら遊んでほしいときなどに、わざと落っこちている節があるのだ。


「甘えんぼさんだね」と言って、手を近づけると、マルハナバチは、手のひらに乗り、嬉しそうに転げまわった。

 良くも悪くも、触れるのに慣れてしまい幸運なのか刺されたことはまだなかった。



「初級は受かったけれど、初級じゃ、まだまだ仕事にならないからね。次は3級を目指すよ」


 指先にとまったマルハナバチを見て男はそう言った。マルハナバチは、それに羽を震わせて応えた。


 勉強しているときにも、応援しているように羽を鳴らしてくれる。

 花の奥に隠れていても呼びかけると顔を出す。話しかけると、まっすぐにこちらを見る。まるで本当に言葉を理解しているようだった。


 少なくとも、男はそう確信していた。種族は違えど、同じ生きとし生けるもの。細い糸だとしても確かに繋がり、結び合っているのだと。

 それでも一度歪み変質した性格は、そう易々と元には戻らなかった。この先もずっとそうなのかもしれない。でも、それでもいいと思えた。

 そんな、光ある日々だった。



「じゃあ、ハナちゃん、頑張ってくるよ」


 3級の試験当日、準備をすませてバッグを肩にかけると、男は立ち上がった。


「……ハナちゃん?」


 いつも家を出るときは花のてっぺんから見送ってくれるのに、姿が見えない。


 近づくと、花瓶の裏、マルハナバチは仰向けで落ちていた。

 いつもと様子が違う。足の先をわずかに動かしている。


「ハナちゃん!」



 試験当日。男は試験に行かなかった。マルハナバチのそばにずっといた。

 時折、弱々しく羽を震わせる。


「だいじょうぶ。心配しないで」


 ささやくように、男は言った。


「次があるから。試験は、次に受ければいいから。次がダメでも、その次もある。心配しないで、だいじょうぶだから」


 そう男は語りかたりかけた。


「ずっとそばにいるからね。だいじょうぶ、怖がらないで。ずっと一緒だから」


 日が、暮れ始めた。動かなくなったマルハナバチを、男は手のひらに乗せていた。いつも確かに伝わっていた生の温度は、すでになくなっていた。


 肩口で止まらない涙を何度もぬぐい、真っ白なハンカチに花びらを敷き詰めてマルハナバチをそっと包んだ。


 ハナちゃん。君は本当に、僕と一緒にいてよかったの?楽しかったの?君にとってもっと良い選択をしてあげられたのかもしれない……。

 でも僕は一緒にいられてよかった。楽しかったよ。


「ハナちゃん、ありがとう。忘れないよ」


 男は、アパートの敷地にある花群れの下に、マルハナバチを埋めた。


 心配しないでね、ハナちゃん。見てて。これからも、ちゃんと生きるから。


 それから男は、会社の事務員として働き始め、簿記の資格も3級2級1級と順当に進み、ついに簿記の上級資格ともいえる税理士の資格まで取った。今では大手の税理士事務所で働いている。



 すべてを思い出し、書斎の窓から空を見上げた。

 なぜ忘れていたのか。あの日々を……。


 妻と出会い、働きながらも資格試験に臨む忙しくも充実した日々をすごすうちに、いつしか忘れ去っていた。

 忘れないと誓った共に過ごした光ある日々のこと。自らを今へ導いてくれた一つの命のこと。


 どんなにか細い糸でも、繋がっている。今も繋がっているはずだ。


「ごめん、ハナちゃん。君のこと、ずっと忘れていた。ごめんね」



 連絡が入った。

 娘が意識を取り戻したらしい。荷物を持って病院に急ぐ。


 途中、男は今日のことを思い出した。

 あの時、病院の通路で、視界の先に、確かに見えていた傾く天秤。

 思う。

 罪とは反対の皿に乗るものは一体なんなのだろうか?

 善良?正義……?



 病室のドアを開けると妻と娘の顔が同時に男を見た。義父母はすでに帰った後だった。

 妻は、憑き物がとれたように普段の穏やかな表情に戻っていたがだいぶ疲れた様子だ。今日は家に帰してゆっくりと休ませた方がよいだろう、と男は思った。

 娘の方も、首を巡らせて笑顔を見せられるくらいには元気なようだ。


「お父さん、わたしね、ずっと不思議な夢を見てたよ」


 男が近づくなり、彼を見つめてそう言った。まだ弱々しくもはっきりと聞き取れる声だった。


「どんな夢を見てたの?」


 妻の横に座り、白くて冷たいシーツの隙間からのばされた小さな手を握る。


「うん、あのね。わたし、夢の中でね、蜂になってたの。でもね、がんばって飛ぼうとしてたけど飛べなかったの。だけどね、お世話してくれた人がいたの」


 男の内に起こった激しい乱れ、波。だが、男は、ただ黙って、娘の手を握り話を聞く。


「でも最初、その人ね、わたしをお外に出そうとしたの。だから、わたし、待って待ってよ~、置いてかないでよ~って、必死でその人を追いかけたの。だって、わたしね、その人と一緒にいたかったの。そしたら、その人お家に入れてくれたの。

 それから、その人、色んな花を摘んできてくれたよ。わたしはね、その花の蜜を食べたり、その人も砂糖水とかハチミツとかいろいろ作って食べさせてくれたの。おいしかったよ。

 あ!そうだ!その人ね、わたしにハナちゃんって 名前をつけてくれたよ。ハナちゃんって呼ばれてたんだ。

 それで、その人ね、毎日お勉強頑張ってたんだ。だから、わたしも、お花の上で羽を鳴らしてね、応援してたんだ。がんばれーって!

 それから、その人は、わたしを、手とか肩とかに乗せてくれたよ。わたし嬉しくて転げまわっちゃった。

 だけどね、だんだん身体が重くなってきて眠くなってきたの。だけど怖くなかったよ。その人がね、ずっとそばにいてくれたから。それで、気が付いたらね、フワフワお空に浮いてたんだ。その人がお花の前で泣いていた。

 その人ね、なんだか、お父さんにそっくりだったよ」

「優しい人だったのね」


 男の妻が静かにそう言った。


「うん!それでね……。お父さん、ねぇ、泣いてるの?」


 そう問われて、男は肩口で涙をぬぐった。笑ってみせた。


「不思議な夢だったね。でも明日花は甘えんぼさんだから、わざと花から落っこちたりしたんじゃないのかい?」


 そう言われて娘は目を丸くした。


「してた!何で知ってるの?」

「なんとなく、そう思っただけさ。明日花。ハナちゃんは、その人といれてよかったと思うかい?楽しかったのかな?」

「思うよ!だって、わたしもね、その人、大好きだったから」

「そうか」


 男は、そう言って娘を抱きしめた。


 どういうことなのだろうか?男にはわからなかった。ただ、あの日あの瞬間の自分は選択を間違っていなかったのだ、とその確信は持てた。

 最後の最後、すべてを失うその手前で、あと一歩を、どうにか踏みとどまれた。そして、あの日々がここへ繋がったのだ。


 あの古いアパートを去るまでの日々、重たいドアを開けたらまず、男はそこを見た。花群れの前の何もない地面。

 花は散り、どんなに季節が巡っても、まずはそこを見た。時間のある日は、その前にしゃがんで地に手のひらをつけて。嬉しそうに転がるマルハナバチを思い浮かべて。



 祈り。

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