第13話「片羽のマルハナバチ:前編」
静まり返った病院の通路で、男が一人、長椅子に腰を下ろしていた。
男の五歳の娘が手術を受けている。男の妻や義父母らは、今も、家族控室の明るい小部屋の中にいることだろう。
「トイレに」
そう断って、控室を抜け出し、男はここに来た。
独り、待っている。
静寂の中、ゆるゆると忍び寄るのは、自らの過去だった。
男は、過去を振り返ることなどなかった。特に十年前のことなど一度も思い出したことがない。職場で妻と出会い夫婦となった。そして娘が生まれた。その前と後には、大きな断絶があった。
それなのに、娘が生まれる前の、妻と出会う前の――埃をかぶりざらついた日々が、今になって男を捕らえようとしていた。
近頃、男は、毎晩ある夢を見ていた。後味の悪いその夢は、忘れ去っていた過去のあるの罪の記憶だった。
今、男には、はっきりと目の前で揺れる天秤が見えていた。
過去に犯した罪。それらを、大いなる存在が――それは神や仏なのか、あるいは悪魔や死神の類なのかは男にも分からないのだが――天秤に乗せていく。
十数年前、男は三年いた会社を辞めた。
最初の職場で陰湿な嫌がらせを受け、二年目の途中に内部異動をした。異動先では、実質的な嫌がらせはなかったものの、陰惨な日々で男は変質していた。およそ人という人を信用しなくなった。
退職後、男の内燃機関を動かし続けたのは憎しみや恨みといった怨念であった。その燃料を喰い、公認会計士を目指して勉強をはじめた。
なぜか?見下すためである。蔑むため嘲るためである。だから高収入で上級資格の取得を目指したのである。
しかし二年もたたぬうちに、男は崩れた。
元より寄る辺などない孤独の身。男に安らげる場所も頼れる人もなかった。
意欲はすでになく、毎日だらだらと酒を飲み、屍のように日々を送っていた。アルバイトをしても長続きしなかった。それは、自らの強烈な他者侮蔑の心裏に隠した人間への恐怖が原因だった。
ゆっくりと、貯えを食い潰す。このままでは、ジリ貧――文字通りに屍となるよりほかはなかったのだが、動き出す気力もなかった。
もう、いい。
と思っていた。完全なる自暴自棄。男は、自らを棄てていった。
そんなあの日。
男は、昼過ぎに、酔いの果ての惰眠から目が覚めた。机の上には酒の缶やらつまみやらが散乱している。何日もろくな食事をしていなかった。
分厚いカーテンの隙間からチラチラと目障りな陽光が揺れている。不機嫌にため息を漏らし、男は、のそりと起きた。白い光線は、机の上の黒表紙のダイアリーを墨色にてからせていた。
背後から羽音のようなものが聞こえる。
男は這うように、襖を開けて台所を見やった。床に五百円硬貨くらいの焦げたような跡があって、それがもぞもぞと動いていた。
最初、男は大きなハエかと思った。だが、よく見るとそれは蜂のようだった。もこもことした丸っこい黒い蜂で、尻だけがオレンジ色をしていた。
おそるおそる近づき、あることに気づいた男は、警戒心を解いたように蜂の前にしゃがみ込んだ。
その蜂には、左の羽がなかった。衝撃で抜けたり破れたというよりも元からのように思われた。それに右の羽も、ずんぐりとした身体に対して、とても小さいように思われた。
その蜂は、それでも必死に飛び立とうと小さな片方の羽を震わせていた。当然飛び立てるはずもなく、男の鼓膜を不快に震わせるだけであった。
ため息ひとつ、立ち上がる。蜂をチラシに乗せてサンダルをはくと、重い鉄の玄関ドアを開けた。
陽ざしの奥に春の花群れ。チョウたちが飛び交っている。
花を一瞥し、コンクリートの上に蜂を放る。蜂は、転がりながら通路の向こうに落ちた。
恨めしそうに、男は光の中を見ると、また重いドアを開けた。
後ろから、またあの羽音がする。
振り返ると、コンクリートの段差を蜂が登ってきていた。必死に羽を鳴らしながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「…………」
その蜂は、コロコロとしていて可愛らしくも見えた。そんな蜂が、
意地らしい甘えたような仕草は、男に加虐心を抱かせた。
無表情のままに近寄る。もしかすると、一瞬の躊躇などは、あったのかもしれない。
ゆっくりと蜂を踏みつぶした。
コンクリートの感触がするまでに時間がかかった。その間に、色んなものが捻じ切れ、破裂し、弾けていった。
男は、無感情のはずの全細胞が髪の毛先に至るまで、ほんの一瞬、虚ろになるのを感じた。
男の中で、何かが終わり何かが始まる音がした。
その日を境に、過去の記憶は薄れていった。アルバイトで事務の仕事に就いて、そこで知り合った女性と結婚した。
男は、自分は大した人間ではない、と思っている。
良くも悪くも、大したことはしてきていない。だからこそ、天秤のその皿の上に置かれるものは、針の先に乗るほどの僅かなものしかないはずであった。
だがあの罪が、あの日のあの罪だけが、なぜか大きなものに感じられて仕方がないのだ。
天秤が揺れる。揺れる。ゆっくりと傾いていく。
あの日の罪の、その罰が男に近づいてくる。
処刑台に乗るのは、自分ではなく……。
誰かが男に近づいてきた。娘の手術が終わったのだ。
あの日の罪の、それを贖う瞬間が来た。
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