第9話「噛み合わない」

 強い光と共に、轟音が空気を引き裂いた。それを合図に、微雨は、大粒の雨に変わって地を襲った。


 玄関前で、ソラは、肩を寄せ、真っ黒な空を見つめた。彼女が高校を出たころは まだ曇天だった。しかし今では、天を黒い雷雲が覆っていた。

 ハンカチで雨粒を払うと、ソラは家の中に入った。


「ただいま」

「おかえり」


 奥から声がする。母親だった。ソラがリビングに入ると、母親はキッチンに立っていた。


「雨ひどかったでしょ?濡れなかった?」


 オープンキッチンの腰壁の向こうから、母親は そう訊いてきた。


「全然。降ってるか分かんないくらいの雨だったから。軒先に入った途端に大雨に変わったよ」

「へぇ、ラッキーだったね。それにしても、天気予報じゃ晴れだったのに、にわか雨が降るなんてね」


 ソラがキッチンへ回ると、母親と共に暖かな空気が出迎えてくれた。その空気はシチュー味だった。


「えっ?もうシチュー作ってるの?」


 鍋の中でシチューがぐつぐつ音を立てているのを見て、ソラは驚いた。彼女の手には、買い物袋がぶら下がっている。中には、今晩の食材が入っていた。


「そうよ。なんで?」

「材料がないから買って来てって電話してきたじゃん。お昼に……。だから、私、スーパーまで寄り道したんだよ?」


 不満げにそう言うと、ソラは、買い物袋をワークトップに乗せた。母親から電話があった時、ソラは、友だちと昼食を食べていた。


『別にいいけど、なんでわざわざ電話するの?ラインでいいよ』


 そんな会話をしたことも憶えている。それなのに、電話をかけてきた当人は首をかしげている。


「何言ってるの?電話してきたのはソラの方じゃない。帰りに近くの公園で待ち合わせしようって」

「ええ?」

「ごめんね、先に帰っちゃって。雨が降りそうだったからさ。あっ!でも、ちゃんとライン入れてたでしょ。見てくれたよね?」


 母親は そう言って笑った。ソラは、訳が分からず、何度もかぶりを振った。


「いやいやいや、ちょっと待ってよ。それは、お母さんの方じゃん!買い物がすんだら、公園のオブジェのトコで待っててってさ。私も、雨になりそうだったから、公園には寄らずに帰って来ちゃったけど」

「え~?」


 ソラは、母親と互いに目を見合わせて同時に首を傾げた。


 雨音が、一段と激しくなる。地雨は世界を煙らせ、リビングのレースカーテンを薄青に染めた。

 そのレースカーテン越しに、大小二つの影が横切った。そして玄関ドアが開く音がした。


 父親と弟が帰ってきたのだと、ソラは思った。


「ソラ。早く二人にバスタオルを持っていって。濡れたまま上がられたら床が濡れるから」


 母親が、会話を中断して素早くそう言った。


■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


「お帰り~。お母さんが、玄関で身体を拭いてから上がれってさ」


 ソラは、そう言うと父親にタオルを渡した。


「うん」


 父親が、うなずいてタオルを受け取る。

 父親も弟も、全身ずぶ濡れであった。


「うわー、めっちゃ濡れてるじゃん!」


 ソラは、小学生の弟の頭にタオルを乗せると、笑いながら、乱暴にくしゃくしゃ拭いた。


「……」

「そんな怒んなくていいじゃん」


 ムスッとしている弟にソラは言った。

 弟は、黙ったまま横の父親を見上げた。その父親も、ソラに顔を近づけると、彼女の表情を覗き込んできた。


「なに?そんなに見ないでよ」

「うん」


 父親が小さく返す。弟と互いの顔を見合った。

 一瞬だけれど、男どうしで、なにやら意思疎通が行われる。


「どうしたの、二人とも?なんか変だよ?」


 その時、リビングから母親も姿を見せた。母親は、濡れ鼠な二人を見て呆れたように笑った。


「うわぁ、ずいぶん濡れたね。二人とも先にお風呂にしたら?身体、冷えると風邪ひくからさ」


 父親は、弟の手を引いて風呂場へ向かっていった。ソラは、母親と共にリビングに戻った。



「ソラ、もうカーテン閉めちゃって」

「は~い」


 風が強くなってきた。外では、激しい風音と共に、滝のような雨が降り続いている。どうやら、にわか雨では なかったらしい。外は暗く、時折 雷がレースカーテンを発光させる。


「雨、すごいな……」


 ソラは、窓辺で独り言ちた。後ろでは、母親がテレビを付けていた。


「えっ!さっきの雷って、あの公園に落ちたんだ……」と驚く声が聞こえる。


 地元のニュースがやっているようだ。


 夕食の時に、さっきの電話の件の白黒をつけよう。


 ソラはそう思った。すっとぼけているのかド忘れしているのか知らないが、スマホの着信履歴を見れば分かることなのだ。

 ソラは、緑色のドレープカーテンに手をかけた。そこで レースカーテンの隙間から外が見え、手を止めた。


「……ねぇ」


 ソラは、声をひそめて母親に呼びかける。


「外に誰かいる」

「えっ、誰が?」


 母親も、驚いた様子で窓辺に近づく。

 ソラは、ゆっくりとレースカーテンを開けた。



 誰かいた。

 薄っすらと人影が見える。でも真っ暗で、ソラが、その人物を知覚するまで数秒を要した。

 そして、その数秒のあわいに、一瞬の雷光が周囲を明るく照らした。その刹那せつなに、ソラは、はっきりと顔を見た。驚きのあまり声が出なかった。

 それは、大粒の雨に打たれながら目を見開き、物凄い形相でこちらを見ている、だった。

 後ろにいた母親が、引きつった悲鳴を上げる。ソラの服を強く引っ張った。それでソラは、半ば強制的に、室内に視線を戻した。次いで、ソラも悲鳴を上げた。

 どうやら、母親の悲鳴は、外の二人に対してのものではなかったらしいと、ソラは気づく。

 真後ろに、ずぶ濡れのままの父親と弟が突っ立ち、外の二人と全く同じ形相でソラたちを見ていたからだ。

 ソラも母親に抱き着いて、二人は、バランスを崩し、床に後ろ倒しに転んだ。


「「…………」」


「あなた……」と母親が声をかける。

「なに、二人とも?やめてよ」と言ったソラの声も震えていた。


 二人は、ゆっくりと窓辺に近づいていった。父が窓を開ける。


 強い風が雨粒と共に吹き込み、カーテンが暴れる。

 父と弟は、裸足のままベランダに降りると、外の二人に歩み寄っていった。家族写真のように四人が並ぶさまを、ソラは、母親と抱き合ったまま ただ見ていた。


 突如、空から仄暗い光の柱が降り注ぎ四人を照らした。そして次の瞬間には、光は天高く吸い上げられ、自分たちによく似た四人は光と共に消えた。


■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


 ソラは、母親と床に座り込んで呆然としていた。

 どのくらいそうしていたのだろうか。気づけば、家の前にパトカーが横付けしていた。


 私服の刑事と制服の警官が、傘を差して窓辺に近づいてきた。二人は、こんな夜に窓を開けっぱなしの家人を見て驚いていた。


 玄関に通して用件を聞く。ソラも、母親の横に並んだ。母親の顔は、死人のように青ざめていた。

 自分もこんな顔をしているのだろうかと、ソラは感じた。


 刑事が言う。


「近くの公園に雷が落ちまして――園内のオブジェに落ちたんですが、死傷者は今のところ確認されていないのですが、実は、父親と息子らしき二人の人物が、落雷があった時にオブジェ付近にいたのが目撃されているんですよ。

 それで、目撃された方によると、ここのご主人と息子さんとよく似ていたそうなので、念のために伺った次第です。お二人は、戻られていますか?」

「…………」

「あの、大丈夫ですか?」


 黙ったままの母親に、刑事が訊く。


「はい」

「それで、旦那さんと息子さんなんですが、いらっしゃいますかね?」

「いえ、戻ってません」


 母親が小さくそう言うと、刑事と警官は顔を見合わせた。

 刑事の指示で、母親が父の職場に電話をかける。手分けして、刑事も、弟の学校や塾に電話をかけていた。しかし二人ともいなかった。「帰った」とのことだった。

 その後、行方不明者を探す手続きなどについて話を聞いた。だが、ソラも――多分母親も、もう二人は戻らないのだとわかっていた。


 あの時の父と弟のその目、その顔――いや、あの四人の表情から滲み出ていたのは、悔しさや憎らしさといった感情だったのかもしれない。振り返って、ソラはそう思う。

 後日、電話の件を確かめた。母親の方にも自分の方にも、着信履歴は残っていなかった。

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