第7話 怨敵調伏



 次第に変わる周囲の景色。

 目的地である御津前みづさき神社が近い。


 これだけ走れば、そろそろ千景の心肺機能にも限界というものは訪れる。


「はぁ、はぁ、きつい、心臓痛い歩きたいっ…」


「大丈夫か?」


「大丈夫じゃ、ないっ。…はっ…お前のスタミナ半分寄越せっ」


「はは、もうちょいだから頑張れ」


「わかってるよっ…」


 ぜえぜえと息を切らせる千景とは対照的に、未だ変わらず涼しい顔で走る志摩に殺意が湧く。



《……イヒヒヒヒッ…、……ねェ…、殺して……イイッ……?!》



 ずっと後を追ってきていた悪霊が、先ほどから何やら不穏な質問と勧誘の言葉を投げかけてくる。


 途中、気になって背後を振り返ってみたが、正面から見た悪霊は衣服を血で汚し、白い肌も血が飛んでいた。

 しかしその体には目立った怪我や傷はどこにもない。

 つまりはあれは彼女本人のものではなく、他者の血ということだ。

 

 『殺していいかしら』。

 『あなたの血が見たいわ』。

 『一緒に死にましょう』。


 投げられた言葉のラインナップを見るだけでも、この悪霊が悪霊たる所以が垣間見えた気がした。


「ああいう病んでる女ってほんと怖ーんだけど」


「あれはっ……、病んでるっていうより、ただのサイコパスだろっ」


「そろそろ俺ら殺されそうだよな」


「その前に祓ってやるから安心しなよ」


 だんだんと過激化していく悪霊に面倒さを感じつつ、やっと辿り着いた神社の長い階段を駆け上がる。

 これを登れば本殿へと続くのだが、もちろん一般人の前で呪術を使うつもりのない千景は志摩の案内で脇道に入り、スギの木が茂る森林を進む。


 適度に陽の光を遮ってくれる林はひんやりと涼しい。

 雑音の混じらない静かな空間に自分たちの足音だけが木霊する。



 ある程度周囲が木々で覆われたあたりで千景は足を止めた。


 ゆっくり深呼吸を繰り返して息を整える間にも背後の木々が不自然に揺れる。

 喚き叫ぶような金切り声が近づいてくる。余裕そうに笑っていた声には気付けば苦しげな呻きが混ざっていた。


 やはり神主である志摩の父親が毎日欠かさず清め祓いを行なっているこの神社一帯は、中級程度の悪霊にとっては苦しい空間となるようだ。


 狂った笑みを貼り付けていた先ほどまでとは打って変わり、半分自我を失いかけた悪霊は意味を伴わない言葉を喚き散らしながら、こちらへ襲いかかってくる。


 正気を失った悪霊ほど面倒なものはない。

 なんせ何をしでかしてくるかわかったものではないのだから。


「朱殷」


《ああ》



 幾分か整った呼吸でその名を呼ぶ。

 短く言葉を返した朱殷は千景の体を滑り降り、悪霊と対峙した。


 これでしばらくは朱殷が悪霊の動きを止めてくれることだろう。

 並大抵の力では朱殷に対抗などできはしない。だから朱殷のやる気が続く限りはこちらに悪霊がくる心配はない。



 その隙に、若干顔を強張らせていた志摩の力を抜くようにその両肩をぽんぽん、と二度叩いた。


「じっとしてて。清めるから」


「……一応お前から護符はもらってっけど…」


「あんなのに散々追われたらもう真っ黒だよ」


「…あー…そりゃそうか」


 こういう状況にもだいぶ慣れた、というか問答無用で慣らされた志摩はおとなしく目を閉じた。


 あの悪霊を調伏ちょうぶくする際に、志摩にまでその怨念が飛び火するとは考えにくいが、万が一があってからでは遅いのだ。

 だから毎度、近くに引き寄せ体質の志摩がいる場合は自他共に清めてから祓うようにしている。



「天清浄、地清浄、内外清浄、六根清浄、心清浄にして諸の穢れは無し。吾が身は六根清浄にして天地…──────所、行う所、────。─────、吾れ今具足して心清浄なり」



 再び志摩の肩を叩く。

 目を開けていいよの合図だ。


 静かに瞼を上げた志摩の目にはもう恐怖はない。

 静謐とした落ち着きだけが宿る。


 その様子に軽く笑いかけてから千景は背後を身を翻した。

 悠々と悪霊を足止めしていた朱殷が首元に戻ってくる。



 さわさわと森林全体が揺れているような感覚を全身で感じながら、目の前の悪霊と目を合わせる。


 彼女がどれほどの人を殺し、どれほどの怨みを買い、どういう経緯で命を落としたのかはわからない。

 わからないけれど、知ろうとも思わないけれど、この場で心身ともに滅却してあげることが、術師としての最低限の慈悲だ。



 人差し指を立てて両手を組み、彼女に笑いかける。

 どうかその強い念が今後悪霊として体現しないことを願いながら。



「オン、キリクシュチリビキリ────」



《……ッアアアアアアアアアアアアア゛ァァァァッ…!! ォオオオオウウゥゥゥオオオオオオアアアッッ………!!!》



 耳を劈く金切り声を上げて叫ぶ悪霊。

 その哀れな姿をじっと見据えながらも、決して読誦はやめない。


 木々を揺らしていた風は辺り一帯に集約し、囲むように渦巻く。


 悪霊はしばらく耳障りな叫び声を上げ続けていたが、次第に喉から絞り出すような潰れた声になり。


 千景が呪文を唱え終わる頃には、黒い煙霧となって跡形もなく消滅した。



 周囲を舞っていた枝葉は風がおさまるのと同時に地面に落ちる。

 先ほどまでのけたたましい噪音は、一瞬にして静寂へと変わった。


 どっと押し寄せる疲労感。

 そこまで大きな呪術を使ったわけでもないのに一気に体が重く感じる。


「………疲れた…」


 心の底からの疲労を、長く深い溜め息に乗せる。


「おいおい大丈夫か?」


「…まあ、平気」


 この疲労感は九割がた先ほどの全力疾走によるものだ。

 体育を全力で取り組んだがために後の授業で屍になった時のような疲労感に近い。そんな経験はないけれども。


「それで、あの霊は消えたのか?」


「うん、祓ったよ」


「怨みが強けりゃまた悪霊になる可能性もあるって、前に聞いた気がすんだけど。今回のやつは……」


《そら心配あらしまへんよ。千景はんに限って、祓い損ねるなんてありえへんわぁ。なぁ?》


「私のことを舐めてもらっちゃあ困るね。ばっちり祓ったし、この世に再び体現することは有り得ないよ」


「そっか。お疲れさん」


「お前もな」


 悪霊退散ということでこれにて一件落着。


 志摩の体からも力が抜けた。

 こちらは体の疲労はあまりないようだが、普通の人には視えない存在に追われるということは想像以上に精神的疲労が大きい。

 今回は千景と一緒だったために命の危険までは感じなかったと思うが、志摩自身もかなりの疲れが溜まっていることだろう。


「とりあえずウチで休んでけよ。親父にも聞きたいことあんだろ」


「あー…そういえばソレが本題だったね。お邪魔するよ」


「どーぞ」


 コキコキと首の関節を鳴らしながら本殿の方へと向かう志摩の後を、千景も欠伸を零しながらついていった。


 

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