第6話 ホラーとの遭遇



 人混みを抜け、だんだんと住宅が増えてきたあたりで、千景にくっつく気配センサー二匹が小さく反応した。


 これまでの軽い空気とは一変、それなりに不穏な空気が漂いはじめた。

 悪霊が棲み憑いているであろう少女の家が近い証拠だ。

 

 千景と志摩の間にもピリリと緊張が走る。

 お互い飽きもせず無駄話に興じてはいるが、周囲への警戒は怠らない。

 より一層足取りが重くなった少女からは決して目を離さない。



 距離にしてちょう100メートルほどだろうか。

 先を行く少女が角を曲がった。


「……なんか、やばくね?」


「やばいね」


 志摩は千景の背に隠れるように若干歩調を緩め、パーカーのフードを目深に被った。

 明らかに邪気を放つ場所に近づくにつれ、志摩の中でも不安が増していく。


 同じ人間相手であればこの男が物怖じすることはまずあり得ないし、かなり腕っ節が強いことも知っている。

 しかし今回は相手が相手だ。

 普段から霊は見慣れているだろうが、志摩は自分で対処する術を持っていない。不安や恐怖を抱くのは当然だ。


「志摩、どんなにヤバくなっても絶対に一人で逃げんなよ。たぶん死ぬから」


「んな自殺行為しねえわ。頼むから近くにいてくれ」


「大丈夫。ちゃんと守ってあげるよ」


「……やばい惚れそう」


「知ってる」

 

 少女が曲がった角を同じように曲がれば、その先には自宅の門扉を押し開ける少女が見えた。

 それと同時に、周囲を取り巻くドス黒い瘴気をより強く感じ取る。


(…あー…この気配、絶対ホラーの予感)


 できることなら視たくない。

 しかしここまで来たら姿を確認しないわけにもいかない。


 防衛本能と好奇心とがせめぎ合うなかで、少女が家に入ったのを見届けてから、意を決して門扉に近づいた。

 そのあとを、怖がりながらも好奇心に突き動かされた志摩が追う。


 少女やその家族との直接的な接触は極力避けたい。

 千景がそういった類を祓える人間だと無闇やたらと知られたくはないからだ。何より、おそらく視えないであろう人間に現状を説明するのが面倒だ。


 すでにこの家に質の悪い悪霊が棲み憑いていることは確実として、できることなら屋外に、家に入らずとも見える場所にいてほしいと願う。



《……おお、バッチリおるなぁ》



 千景よりも感知に優れた銀が早くも悪霊を見つけたようだ。

 それに続くように、千景と志摩も二匹が向く方を門扉の隙間から覗き見る。


 この時、もっと心の準備を整えてから見ればよかったと後悔する羽目になるのだが、完全にあとの祭りである。



 覗いた先、庭に面した大きな窓には黒い”何か”が張り付いていた。



 カタカタカタカタカタカタカタッ。



 頻りに窓ガラスが揺れる。

 見るまでもない。その音だけでわかる。その”何か”が必死に中に入ろうとしているのだ。


 じっと息を殺して様子を窺う千景は、得体の知れない悪寒からすぅーと血の気が引いていく。

 その肩を掴む志摩の緊張も痛いほど伝わってきた。

 

 よくよく観察していれば、その”何か”が人間の形をしていることに気づく。

 腰下まで伸びきった真っ黒い髪は乱れて絡まり、血の気を一切感じさせない生っ白い手足には、血のようなものが飛び散っている。


 容貌からすでにその”何か”が悪霊であることは明確だった。



《───…、……ケヒヒヒッ……早くッ……早く開けロヨォ…、ヒヒ…》



 不意に、甲高い女の声が脳内に流れ込んできた。


 言語機能がはっきりしている。

 声が、意思を持っている。



「…志摩っ、これはやばい! 逃げ、」








《───ドコにぃ…?》







 逃げるよと、そう言い切る前に、窓に張り付いていた悪霊が、グリンッと頭を捻ってこちらを向いた。


 目が、合った──…。



「……っっ、」


「うおっ…!!」


 思わず短い悲鳴が漏れた。

 二人揃ってパッと目を逸らす。


 一瞬で脳裏に焼き付いてしまった悪霊の目は、瞳孔を極限まで開ききって狂気に満ち溢れていた。

 鮮血を彷彿とさせる真っ赤に染められた口元は弧を描くように歪んでいた。


 題して、『今にも包丁を投げ付けてきそうなヒステリック女風悪霊』。

 もはや恐怖でしかなかった。


 ドクドクドクドク、と早鐘を鳴らす心臓が、今の一瞬でどれほど驚いたのかを物語る。

 おそらく千景にくっついていた朱殷と銀にも、千景の驚きようははっきり伝わったことだろう。今頃内心で笑われているはずだ。


 しかしそんなことはどうでもいい。

 今一番に考えなければならないのは身の安全だ。


「…っ逃げるよ!」


 ひとつ深呼吸で平常心を取り戻した千景は志摩の手を引いて走り出す。


「……もうやだ。霊怖え。ほんっと怖え…」


「私もああいうのは普通にムリ」


 人間の反射機能として二人とも一瞬驚きはした。

 だがそもそもこういうホラー的存在を日常的に祓っている千景と、日常的に引き寄せている志摩にとってはあくまでも日常の一部だ。


 ただ、慣れているとはいえその時々で怖がらなくなるかといえば、それはまた全く別次元の話となる。


「…なあ、アイツあのまま置いてきちまってよかったのか?」


「誰に見られるかもわかんないあんな場所で祓うわけにはいかないし場所が悪い。それに心配しなくても、ああいう類の悪霊は目が合ってこっちにそれなりの霊力や呪力があると分かれば追ってくるよ」


「えっ」


 志摩の顔が一瞬で青褪めた。


「あれ、知らなかった?」


「……知らなかった。てことはもしかして今、追ってきてんのか?」


「さあ。気になるなら振り返ってみれば」


「ムリムリムリッ!」


 走れど走れど悪霊の気配がまったく遠ざからない。

 後方の警戒は朱殷と銀に任せているため、とりあえず背後からいきなり襲われる心配はない。


 とにかく今は心置きなく術を使える場所を目指すのみ。


「なあチカ、とりあえず走ってっけどこれどこ向かってんだよ」


御津前みづさき神社」


「ウチかよ!」


 そう、今向かっているのは志摩の父親が神主を務める御津前みづさき神社。つまりは志摩の家だ。



 今回の悪霊レベルを千景の規準で考えると、甘めに見積もって中の上。

 平均を越えればそれなりに厄介な相手となる。


 こういう場合に重要なのは呪術を使う場所だ。

 例えば神社やお寺などの清められた神聖な場所。他にもパワースポットのような自然界の力を秘めた場所でも断然扱いやすくなる。


 もちろん力でゴリ押しすれば祓うことはできるが、そのぶん呪力の消耗も大きくなる。

 もしも近くにそういった場所があるのなら、千景はできる限り好条件の場で術を使うようにしていた。


 ただ、これはそれなりの力を持った悪霊を調伏ちょうぶくする際の話だ。

 千景の場合は、低級悪霊の調伏や息災・除災といった祈祷を行う際には必要としない考えである。


「確かに走って行けない距離じゃねえけど、いいのかよ。休日のこの時間帯だと、たぶん人いるぞ?」


「本殿じゃなくても人目につかない敷地を貸してくれれば十分だから」


「だったらいろんな場所あっから。好きに使っていいと思うぜ」


「さんきゅ」


 自分の身を守るために赤信号を避けつつ全力で走るが、やはりというかなんというか、度々行き交う人々に好奇の目を向けられる。


 こんな街中を脇目も振らず疾走する自分たちの姿はひどく不思議なものに映っていることだろう。

 どうせならカメラマンでも追っ掛けてきてほしいものだ。そうすれば撮影か何かだと勘違いしてくれるだろうに。


 そんな現実逃避の思考には蓋をして。

 神主の息子から神社敷地内の使用許可が勝手に降りたことだし、とりあえずは全力で向かうことに専念した。


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