アメリカ独立戦争(南部戦線)-2

 1778年、イギリス軍は再び南部に目を向けていた。南部には多くのロイヤリストが住んでおり、その募兵によって統治を回復できると想定していたのだ。南部のロイヤリストが支援してくれるという想定は、ロンドンに逃げてきたロイヤリストたちが、アメリカ植民地担当大臣ジョージ・ジャーメインに直接会って話した証言を元にしている。

 ロイヤリストたちは、イギリス軍が南部に侵攻することで失った土地を回復し、尚且つ王室に対する忠誠を示すことで、更なる報奨を望んでいた。そして、イギリス軍が南部で大きな作戦を展開する様に説得するための最良の方法は、潜在的なロイヤリストの支持を過大に言うことだと認識していたのだ。(彼らは集団となってロンドンのイギリス閣僚に大きな影響力を持っていた)。

 イギリス軍は、的を射た地域を解放しさえすれば、その行動で少なからぬ支援を見出せるという予測に基づいて、ほとんど戦争が終わり近くなるまで南部で作戦を展開することとなった。

 コーンウォリスは、サウスカロライナにいる間にニューヨークのクリントンに宛てて手紙を書き、「ノースカロライナにいる我々の可哀想な困窮した友人たちからの連帯感情についての確信はかってないくらい強い」と報せている。南部戦線の大半でこの想定は誤りであると、コーンウォリスは作戦が進行するにつれてそれを認識し始めていた。


 アーチボルド・キャンベル中佐指揮下の遠征軍3500名はニューヨークを発した後、1778年12月29日にジョージアのサバンナを抵抗を受けること無くを占領している。これはイギリス軍にとって重要な意味を持っていた。

 1779年1月17日、セントオーガスティンから途中の前進基地を通過し、オーガスティン・プレボスト准将の部隊が行軍していく。そして、キャンベル軍に合流するまでの間に、ジョージアの低地地方一帯はイギリス軍の支配下に入っていた。

 プレボストがジョージアにいる全軍の指揮を執り、キャンベルに1000名の兵士を付けてオーガスタに派遣することとなる。イギリス軍はオーガスタを占領し、ロイヤリストを徴兵しようとしたのだ。


 サバンナ防衛軍の残りは、サバンナから約12マイル (20 km) 上流のサウスカロライナのパリースバーグに後退する。そこで南部の大陸軍を指揮していたベンジャミン・リンカーン少将の軍隊と遭遇した。リンカーンは、チャールストンからプレボストの軍隊を偵察し、対抗する意図で部隊の大半を引き連れていたのだ。

 2月初旬、プレボストは数百名の部隊をボーフォートに派遣し、キャンベルの動きからリンカーンの注意を逸らせようとしている。リンカーンはその部隊を排除するためにムールトリー将軍と300名の部隊を送った。2月3日に起きたビューフォートの戦いはほとんど決着が着かず、両軍共にそれぞれの拠点に戻ることになる。


 一方、キャンベルは大きな抵抗も無くオーガスタを占領した。そして、ロイヤリストたちが表に出て来ることとなる。キャンベルは2週間以上掛けて、1000名以上のロイヤリストを徴募していた。

 キャンベルが徴兵を掛けている間、オーガスタから50マイル (80 km) しか離れていないところで、1779年2月14日にケトルクリークの戦いが起こる。その戦いでアンドリュー・ピケンズ指揮下の愛国者民兵隊に、かなりの数のロイヤリストが敗北することとなった。

 このことは、イギリス軍が南部地域でロイヤリストを守ることには限界があることを誰にも分からせることになったのだ。

 キャンベルはその後、突然オーガスタを去ってしまう。これは、オーガスタから既に川の対岸にいた1000名の民兵隊に、リンカーンが追加するために派遣したジョン・アッシュと1000名以上のノースカロライナ民兵隊が合流したことに反応したためだった。

 キャンベルはサバンナに戻る途中で、部隊の指揮権をプレボストの弟であるマーク・プレボストに渡す。マーク・プレボストは、イギリス軍を追って南に向かっていたアッシュの部隊に矛先を向け、3月3日のブライアクリークの戦いでその1300名の部隊を急襲し、ほとんど全滅に近く追い込んだ。


 4月までに、リンカーンは大勢のサウスカロライナ民兵隊の増援を受け、チャールストンに着いたオランダ船から軍需物資の追加を受け取っていた。そして、オーガスタへ向かうことを決める。オーガスティン・プレボストの動きを警戒するため、ムールトリー将軍指揮下の1000名をパリースバーグに残し、リンカーンは4月23日に北への行軍を開始した。

 リンカーンの動きに反応したプレボストは、4月29日に2500名の部隊を率いてサバンナからパリースバーグに向かう。ムールトリーは、戦うよりもチャールストンに後退することを選んだ。

 プレボストは、5月10日にはチャールストンから10マイル (16 km) 以内に近付く。そこで初めて抵抗に会うようになった。2日後に、プレボストは大陸軍の伝令を捕まえて、リンカーンがプレボスト軍の進行に驚き、チャールストン防衛のために急ぎオーガスタから戻ってきていることを知る。

 プレボストはチャールストンの南西にある島に後退し、その後退を遮蔽させるためにストノフェリー(今日のランタウルズ近く)で塹壕に入った後衛を残した。

 リンカーンはチャールストンに戻ると、大半が戦闘経験のない民兵ばかり約1200名を率いてプレボストの後を追う。この部隊は6月20日のストノフェリーの戦いでイギリス軍に撃退されている。プレボストの後衛部隊はその目的を果たし、数日後にはその砦を棄てた。


 1779年10月、フランス軍と大陸軍は共同してサバンナを奪還しようとする。ベンジャミン・リンカーン少将が指揮を執り、デスタン伯爵率いるフランス海軍の戦隊が支援した。しかし、この作戦は見事な失敗に終わる。

 イギリス軍の損害が54名に過ぎなかったのに対して、米仏両軍の損害は901名に達していた。フランス海軍は、1776年にチャールストンでイギリス海軍のピーター・パーカー提督の攻撃を退けたのと同程度の防御力をサバンナが持っていることを思い知らされることとなる。

 クリントンは、ムールトリー砦に対する砲撃は、ほとんど効果が無かったため、砦に対する陸側からの攻撃を取りやめた。しかし、デスタン伯はクリントンと異なり、艦砲射撃が失敗に終わると陸軍の強襲を強要したのだ。この強襲の際に、ポーランド人の大陸軍騎兵部隊指揮官カジミール・プラスキ伯が致命傷を負ってしまう。

 サバンナの安全を確保したクリントンは、1776年に失敗に終わっていたサウスカロライナのチャールストンへの攻撃を再開できる様になった。一方、リンカーンは残存部隊を退いてチャールストンの防御を固めることとなった。


 1780年、クリントンはチャールストンに対して動き出す。3月には港を封鎖し、地域の部隊を10000名に増強した。チャールストンへ向かうクリントンを遮るものは何も無かった。

 大陸海軍の指揮官エイブラハム・ウィップル代将は、8隻のフリゲート艦のうち5隻を港で自沈させ、防衛の用に供している。市中では、ベンジャミン・リンカーンが2650名の大陸軍と2500名の民兵を指揮して守っていた。

 イギリス軍のバナスター・タールトン大佐が、4月のモンクスコーナー及び5月初旬のレナヅフェリーで勝利している。そのため、市の補給路を抑え、チャールストンは包囲されることになった。クリントンは3月11日に建設し始めた包囲線から、町への砲撃を開始する。

 5月12日、リンカーンは5000名の兵士と共に降伏した。これはアメリカ独立戦争の大陸軍では最大の降伏となる。その後、南北戦争までこれを上回るものは無かった。

 イギリス軍に損害はほとんど無く、クリントンは南部最大の都市と港を抑えたのである。こうして、アメリカ独立戦争におけるイギリス軍最大の勝利を収めたのであった。

 そして、リンカーンの降伏は、南部におけるアメリカ軍の構造を破滅に追い遣ることとなる。


 南部の大陸軍残余部隊は、ノースカロライナ植民地に撤退を始めた。しかし、イギリス軍のタールトン大佐が撤退する残余部隊を追撃する。

 5月29日、ワックスホーの戦いで、タールトンは大陸軍を再度破った。ワックスホーの後で植民地人の間に、タールトンは大陸軍の兵士が降伏しても多くを虐殺したという噂が広まる。そのため、タールトンは「血塗られたタールトン(Bloody Tarleton)」、あるいは「血塗られたバン(Bloody Ban)」という仇名を憎しみをもって呼ばれることとなった。 

 そして、タールトンには慈悲が無いと評判になったことで、大陸軍では「タールトンの慈悲」が間もなく鬨の声になる。

 この戦闘が言われているように虐殺であったか否かに拘らず、それに対する悪感情がこの方面作戦の間を通じて抱かれたままになっていた。ロイヤリスト民兵隊がキングスマウンテンの戦いで降伏した際、愛国者の狙撃兵が「タールトンの慈悲」と叫びながら射撃を続け、ロイヤリストの多くが殺されることとなる。

 タールトンは後に、アメリカ独立戦争についての証言を出版し、アメリカ人捕虜に対する不法行為に関する告発について取り繕い、自身を恥ずかしげも無く、肯定的な光の中に描いた。


 南部地域の一連の戦闘によって、南部の大陸軍は組織だった作戦行動が出来なくなってしまった。しかし、それぞれの植民地政府は機能し続ける。そして、戦争はフランシス・マリオンなどのパルチザン活動によって続けられた。

 クリントン将軍は南部の指揮をコーンウォリス卿に委ねる。大陸会議はサラトガでの勝利者であるホレイショ・ゲイツ将軍を新たな部隊と共に南部に送った。

 しかし、1780年8月16日にゲイツは、キャムデンの戦いで、大陸軍始まって以来の大敗を喫してしまう。そして、コーンウォリスにノースカロライナへ進軍する道を与えてしまった。こうして、南部における戦争はアメリカ側が著しい退潮になった。


 しかし、コーンウォリスにも事態が変わり始めた。10月7日、キングスマウンテンの戦いで彼の一翼を担っていた部隊が完敗してしまう。この戦いはロイヤリスト民兵と愛国派民兵の戦いだった。

 イギリス軍はノースカロライナで大きなロイヤリスト軍を作ろうと思っていたが、その計画が挫折することとなる。志願してくるロイヤリストの数が減り、志願してきた者もイギリス軍がいなくなると覚束ないものになった。

 キングスマウンテンの結果とサウスカロライナ民兵による打ち続く通信線や供給線への嫌がらせ攻撃によって、コーンウォリスはサウスカロライナで冬季宿営を張るしかなくなったのだ。


 大陸軍ではゲイツは罷免され、ジョージ・ワシントンの一番の片腕ナサニエル・グリーン将軍が南部の指揮を執ることとなった。グリーンは、ダニエル・モーガン将軍に約1000名の兵士を預ける。モーガンは1781年1月17日、カウペンスの戦いで、タールトンの部隊を打ち砕いた優れた戦術家であった。

 グリーンは、「ダンへの競争」と呼ばれる一連の小競り合いや軍事行動(ギルフォード郡庁舎の戦い、ホブカークスヒルの戦い、ナインティシックスの戦い、ユートースプリングスの戦い)によって敵軍の消耗を図る。

 一方、コーンウォリスは、キングスマウンテンの後と同様に、部隊の一部を適切な支援も無しに派遣したことで批判された。これらの戦いは、戦術的にはイギリス軍の勝利であったものの、戦略的には何も得るものはなかったのである。

 コーンウォリスは、グリーンがその軍隊を分割していることを知っており、モーガンとグリーンの部隊が再結合する前にどちらかの部隊と会戦を挑みたかった。しかし、迅速に行動する愛国者達を追跡する中で、自軍の過剰な物資を全て捨てて行った。

 グリーンはコーンウォリスのこの決断を知った時、「それなら彼はわれ等のものだ!」と嬉しげに反応している。コーンウォリス軍の物資が欠乏したことは、後の困難な状況に陥ったときに決定的な役割を果たすことになった。


 グリーンはまずウィリアム・リー・ダビッドソンに900名の部隊を付けてコーワンズフォードに派遣する。そこでコーンウォリスと対戦し、この戦闘はダビッドソンが川で戦死し、大陸軍は撤退した。

 グリーンの戦力は弱まったが、その後も遅延戦術を貫き、コーンウォリスとその士官たちに対してノースカロライナとサウスカロライナで数多くの小競り合いを続けることとなる。これらの戦闘で約2000名のイギリス兵が戦死した。

 グリーンは、後に有名となるモットー「戦い、撃たれ、立ち上がり、また戦う」という言葉でその行動を要約している。その戦術は緩りとした消耗戦で、カルタゴのハンニバルの優勢な軍隊を倒したクィントゥス・ファビウス・マクシムスの採ったファビアン戦略に似ていた。

 最後にグリーンは、ノースカロライナのグリーンズボロでコーンウォリスと直接対決できるだけの戦力を感じ取る。コーンウォリスはギルフォード郡庁舎の戦いで、戦術的な勝利を挙げたものの、その際の損失を補給と援軍を求めて、ウィルミントンまでの撤退を強いられたのであった。


 グリーンの軍隊を完璧に打ち破ることが出来ないでいたコーンウォリスは、大陸軍への物資の大半がヴァージニアから送られてきていることを知る。ヴァージニアは、この時点でイギリス軍はまだ手を付けていなかった。

 コーンウォリスはクリントンの意に反し、カロライナへの補給線を抑えることで、大陸軍の反攻を封じ込められると期待して、ヴァージニアへ侵攻することに決める。

 この考え方は、本国のジャーメイン卿の一連の手紙では支持されていた。しかし、このことは全軍の事実上の総指揮官であったクリントンを南部軍の意思決定の埒外に置いたことになった。

 クリントンに情報を送ることもなく、コーンウォリスはバージニアでの襲撃作戦のためにウィルミントンから北へ向かう。ヴァージニアでは、その地域の襲撃に携わっていたウィリアム・フィリップスとイギリスに寝返っていたベネディクト・アーノルドが指揮する部隊と会することが出来た。


 コーンウォリスがグリーンズボロを離れてウィルミントンに動くと、グリーンにとってはサウスカロライナの再制圧を始める道が開ける。

 4月25日、ホブカークスヒルの戦い(カムデンからは2マイル (3 km) 北)でフランシス・ロードンの反撃もあったものの、グリーンはサウスカロライナの再制圧を6月の終わりまでに成し遂げた。

 5月22日から6月19日まで、ナインティシックスの町を包囲していたが、ロードンが包囲を解くために部隊を率いて来ているとの報せに接したため包囲を諦めている。しかし、グリーンとフランシス・マリオンのような民兵隊指揮官の行動で、最終的にはロードンにナインティシックやカムデンの町を放棄させた。そして、サウスカロライナのチャールストン港までの支配を弱めさせることとなったのだ。

 オーガスタの町も5月22日に包囲され、6月6日にはアンドリュー・ピケンズやライトホース・ハリー指揮下の大陸軍の手に落ちる。こうして、イギリス軍によるジョージアのサバンナ港までの支配を弱めさせることになった。


 その後、グリーンはサンテー川のハイヒルズで部隊に6週間の休暇を与えている。

 9月8日、ユートースプリングスの戦いでアレクサンダー・スチュワート中佐指揮のイギリス軍と相見えた。この戦闘は戦術的には引き分けだった。しかし、イギリス軍の戦力は弱まり、チャールストンに撤退することとなる。グリーンは戦争のその後、イギリス軍をチャールストンに釘付けにした。

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