アメリカ独立戦争(ヨークタウン方面作戦)-1
1780年12月までに、アメリカ独立戦争の北アメリカ戦域は重要な時を迎えていた。
大陸軍はこの年の早くに大敗を喫している。南部ではチャールストン市失陥とキャムデンの戦いの敗北で、大陸軍の南部方面軍は敵軍に捕らえられるか散開するかしていたのだ。
北部ではジョージ・ワシントン軍とイギリス軍北アメリカ総司令官ヘンリー・クリントンの軍が、ニューヨーク市周辺で睨み合いを続けていた。アメリカの通貨は事実上、無価値であり、開戦からおよそ6年間を経て、大衆の支持は窄まっていた。そのため、軍隊は給与と待遇について苦情を言うようになっていく。
アメリカ側にとって好都合だったのは、南部で募兵していたロイヤリストが、10月のキングスマウンテンの戦いで大きな敗北を喫し、その活動が途絶えたことだった。
ヴァージニアは1779年以前は軍事的な注目を浴びていなかった。この年、イギリス軍の襲撃によって造船所の多くが破壊され、重要な貿易品目であるタバコが大量に奪われるか廃却されている。
ヴァージニアの防御力と言えば、地元で結成された民兵隊と1779年の襲撃で実質的に一掃された小さな海軍があるのみだった。
史実では、民兵隊は大陸軍の将軍シュトイベン男爵の全体指揮下にあった。しかし、シュトイベン男爵は俺の策略によって、プロイセンに再雇用されてしまっているのでいない。
フランス軍の作戦参謀は、1781年の作戦について競合する需要の平衡を取る必要があった。アメリカ軍との協働作戦で幾つか失敗(ロードアイランドの戦いやサバンナの包囲戦)した後、北アメリカではさらに積極的な介入が必要ということを認識してする。
しかし、スペインとの協働作戦も考慮する必要があり、ジャマイカにあるイギリス軍の強固な拠点を襲うことに興味を示していた。だが、スペインは包囲しているジブラルタルの防衛軍をイギリス軍が補強しようとしていることに対処出来るまでは、ジャマイカに対する作戦に興味を持っていないことが分かる。スペインは単に西インド諸島の艦隊の動きを知らせてくれることを望んでいるだけだった。
フランス艦隊が1781年3月に、フランスのブレストを出港しようとしている時、幾つかの重要な決断が下されている。ド・グラス伯爵が率いる西インド諸島艦隊はウィンドワード諸島で作戦行動を行った後、スペインの作戦を支援するために求められる軍事資源を決定するためらキャップ・フランセ(現在のカパイシャン)に行く様に指示された。
フランスは輸送船が不足していたため、アメリカには援軍を送る代わりに、アメリカの戦争遂行を支援として、600万リーブルを送ることも約束していたのだ。
ロードアイランドのニューポートにいたフランス艦隊には、新しい指揮官としてド・バラス伯爵が指名される。ド・バラス伯爵はニューポートの艦隊を率いて、ノバスコシアやニューファンドランド島沖のイギリス船舶を攻撃するよう命じられる。そして、ニューポートのフランス陸軍はニューヨーク市港外でワシントン将軍の軍隊と合流するよう命じられた。
ド・グラス伯爵はワシントン将軍とは完全に行動を共にしないように配慮し、キャップ・フランセで碇泊した後、北アメリカにおけるアメリカ軍の作戦を支援するよう指示されている。
フランス軍の将軍ロシャンボー伯爵は、ド・グラス伯爵が支援できる「かもしれない」が約束はできないとワシントンに告げるよう指示されていた。ワシントンはパリに駐在するジョン・ローレンスからド・グラス伯爵が北へ向かう裁量権を持っていると知らされていた。
フランス艦隊は、3月22日にブレストを出港する。イギリス艦隊はジブラルタル防衛軍に物資を補給することに追われており、その出港を阻止しようとはしなかった。
フランス艦隊が出港した後、貨物船のコンコルドがニューポートに向かい、ド・バラス伯爵、ロシャンボー伯爵への伝言および貸付金600万リーブルを運んだ。ド・グラス伯爵はその後に送った別々の伝言で、2つの重要な要請をしている。
1つ目はキャップ・フランセで北アメリカの情勢を知らされることであった。それで北アメリカの作戦をどのように支援出来るかを判断するためである。
2つ目は北アメリカの水域を知悉した水先人30人を補充することであった。
クリントン将軍は、来るべき1781年の作戦のため、その年の初期には何を目標とすべきか、明確なビジョンを打ち出すことはなかった。
その問題の一部は、同じニューヨークにいる海軍指揮官で老齢のマリオット・アーバスノット海軍中将との人間関係が難しいことである。2人とも頑固であり、怒りっぽく、棘のある性格だったのだ。両者の衝突は何度も繰り返されたため、2人の関係は最悪の状態だった。
1780年秋、クリントンは自身あるいはアーバスノットのどちらかが本国に呼び戻されることを要請している。しかし、アーバスノット解任の命令が届いたのは1781年6月になってからだった。アーバスノットはトマス・グレイブス卿と交代し、クリントンはグレイブスとは幾らかマシな関係を築くことが叶う。
アメリカ植民地南部におけるイギリス軍は、強固に要塞化したサバンナとチャールストンの港、及びジョージアとサウスカロライナの内陸部に築いた一連の前進基地で構成されている。
その前進基地の中で最強のものは、パトリオット民兵の攻撃からも比較的安泰であった。そのため、パトリオット民兵はその地域内、小さな前進基地、更に物資輸送隊や伝令を標的にする型通りの抵抗をするだけとなる。それらの活動は、トマス・サムターやフランシス・マリオンなど民兵指揮官に率いられていた。
ヴァージニアのポーツマスは、1780年10月にイギリス軍アレクサンダー・レスリー少将が指揮する部隊によって占領されている。そのため、一番新しい前進基地だったが、南部の全体指揮を執るチャールズ・コーンウォリス中将は、11月にその部隊にサウスカロライナに来るよう命令を出していた。
12月下旬、ポーツマスにいるレスリー将軍の後任として、クリントンはアーノルド将軍に1600名を付けてバージニアに派遣する。ベネディクト・アーノルドは、1780年秋に大陸軍からイギリス軍に寝返った後、准将の任官を受けたばかりだった。
12月30日、アーノルドとその部隊を運んだ艦隊の一部は、チェサピーク湾に到着する。アーノルドは残り部隊の到着を待たず、ジェームズ川を遡って、1月4日にはウェストオーバーで900名の兵士を上陸させた。
アーノルドはその部隊に夜通しの行軍をさせ、翌日ヴァージニアの首都であるリッチモンドを襲撃している。そこでは、民兵から最小限の抵抗を受けただけだった。
アーノルドは、その地域でさらに2日間襲撃を続けた後に船に戻り、ポーツマスに向けて出帆する。そこに要塞を築き、部隊を送り出して、襲撃と食料調達を行わせたのだ。
地元では民兵が招集されたが、勢力が整わなかったので、イギリス軍に対抗できなかった。襲撃隊が抵抗勢力と衝突することもあり、1781年3月にはウォーターズ・クリークでの小戦闘が発生している。
アーノルドがヴァージニアで活動しているという報せが、ジョージ・ワシントンのところに届くと、ワシントンはアーノルドに対応する必要があると判断した。
ワシントンはフランス海軍が、ニューポートの基地から遠征隊を派遣してくれることを望んだ。しかし、フランス海軍の提督であるシュバリエ・デトーシュは、1月22日に起こった嵐でイギリス艦隊の一部に与えられた損傷に関する報告が届くまで援助ができないと返答する。
2月9日、アルノー・ド・ガルデュール・ド・ティリー海軍大佐がニューポートから3隻の艦船(戦列艦のエベイユ、フリゲート艦のサーベイラントとジャンティーユ)を率いて出帆した。この船隊が4日後にポーツマスに到着すると、アーノルドはフランス艦よりも喫水が浅かったその船舶をエリザベス川を遡って後退させている。そこまではフランス船隊が行くことができなかったからだ。
ド・ティリーはアーノルドの陣地を攻撃するには地元の民兵隊が「完全に不十分」と判断したため、ニューポートに戻ることを決断する。その帰途、ニューヨークのイギリス軍がド・ティリーの動きを探らせるために派遣していたフリゲート艦HMSロムルスを捕獲した。
2月20日、大陸会議は大陸軍の分遣隊をヴァージニアに派遣することを承認した。ワシントンは、その遠征隊の指揮官にラファイエットを指名する。そして、ラファイエットは同日にニューヨークのピークスキルを出発した。
ラファイエットの部隊は約1200名であり、ニュージャージーとニューイングランド出身の大陸軍連隊から引き抜かれた3個軽歩兵連隊で構成されている。これら連隊のそれぞれをジョセフ・ボーズ、フランシス・バーバー及びジャン=ジョゼフ・スールバデ・ド・ジマーが率いていた。
3月3日、ラファイエット隊はにメリーランドのヘッド・オブ・エルク(現在のエルクトン、チェサピーク湾の航行可能な北限)に到着したする。アナポリスで部隊を乗せる輸送船を待つ間、ラファイエットは南に移動し、3月14日にヨークタウンに到着して情勢を吟味した。
デトーシュはド・ティリーの遠征の結果を受け、事態を進展させるためにニューポートに来たワシントン将軍に強く勧められたこともあり、より大きな行動に移ることを決断する。
3月8日、デトーシュは全艦隊(戦列艦7隻と数隻のフリゲート艦及び捕獲したばかりのロムラス)にフランス陸軍を乗せて、バージニアでラファイエット隊と合流すべく出発した。
アーバスノット提督はデトーシュの出発を知らされ、アーノルドにフランス軍の動きを警告する伝令を派遣した後、3月10日に出港する。アーバスノットの銅板装甲の艦船は、デトーシュの艦船よりも速く帆走できた。そのため、フランス艦隊よりも早く3月16日にケープヘンリーに到着している。
その後起こった海戦は、ほとんど決着が付かなかった。しかし、アーバスノット艦隊は自由にリンヘイブン湾に入り、チェサピーク湾への航路を支配している。
デトーシュ艦隊はニューポートに帰還した。ラファイエットはイギリス艦隊を視認し、受けていた命令に従って、部隊をニューヨーク地域に戻す準備を行った。
4月初旬までにヘッド・オブ・エルクに戻ったが、ワシントンからヴァージニアに留まれという命令を受け取ることとなる。
デトーシュ艦隊がニューポートを出て行ったことで、クリントン将軍はアーノルドに援軍を送ることにした。アーバスノット艦隊が出て行った後、ウィリアム・フィリップスの指揮下の2000名の部隊を輸送船に乗せ、チェサピーク湾に向かわせている。
3月27日、フィリップスの部隊はポーツマスでアーノルド隊と合流した。フィリップスの方がアーノルドより上級の将官だったため、部隊の指揮を執ることとなる。そして、ピーターズバーグやリッチモンドを標的とする襲撃を再開した。
この時までに、ヴァージニア民兵隊の指揮官だったピーター・ミューレンバーグは、民兵部隊が劣勢であるにも拘わらず、部隊の士気を維持するために抵抗しなければならないと決断する。彼らはピーターズバーグに近いブランドフォード(ブランドフォードは現在ピーターズバーグ市の一部になっている)に防衛線を構築し、4月25日に統制の取れた戦闘を行ったが敗北した。
ミューレンバーグは前進してくるフィリップス隊を前に後退する。フィリップスは再度リッチモンドを襲撃できると期待していた。 しかし、ラファイエットが一連の強行軍を行い4月29日にリッチモンドに到着したのだ。それは、フィリップス隊が到着する数時間前のことだった。
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