アメリカ独立戦争(ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦)-1

 ワシントン将軍がボストン方面作戦に勝利したものの、イギリスからは更なる援軍がもたらされようとしていた。

 イギリス本国に、イギリス軍と植民地軍がバンカーヒルの戦いで激突し、その戦いでイギリス軍が勝利したものの、払った代償も大きかったという知らせが届く。すると、ウィリアム・ハウ将軍と北アメリカ植民地に対する担当官であるジョージ・ジャーメイン卿は、イギリス中から集めた部隊に加えて、神聖ローマ帝国諸侯からドイツの傭兵部隊を雇用し、ニューヨーク市に対して断固たる行動をとるべきであると決断する。


 第二次大陸会議から大陸軍の総司令官に指名されたばかりのワシントンは、ニューヨーク市が「絶対的に重要な地点」であると繰り返し語っていた。そのため、ボストン包囲戦の指揮を執るために、ボストンに向かう途中、ニューヨーク市に立ち寄った際に、ニューヨークの民兵隊の組織化を始めさせる。

 1776年1月、ワシントンは、チャールズ・リー将軍にニューヨーク防衛のための部隊を立ち上げ、指揮を執るよう命じた。リーはニューヨークの防御を固めていたところ、ワシントンがボストンからイギリス軍隊をさせたと言う報せが届く。

 ワシントンは、ハウ将軍がボストンからニューヨーク市に直接艦船で向かうことを心配し、ボストンから陸路部隊を急行させた。その中には、4月半ばにワシントンがニューヨーク市に到着するまで、部隊を指揮していたイズラエル・パットナム将軍も含まれている。

 4月末、ワシントンは芳しくないカナダ侵攻作戦を援護するため、ジョン・サリバン将軍指揮の下6個連隊から成る遠征軍を派遣した。


 その頃、ハウはニューヨーク市に直接向かわず、ノバスコシアのハリファックスに撤退し、イギリス軍をヨーロッパ中の港から乗せた輸送船団を迎え、軍隊を再編成する。

 6月、ハウ将軍は全ての輸送船が到着する前に、ハリファックスに集結した9,000名の兵士と共にニューヨーク市に向けて出港した。

 まだ到着していない援軍は、ヘンリー・クリントンが指揮するイギリス兵の部隊とヘッセン=カッセルを中心とする雇用したドイツ兵であり、両軍はカロライナに遠征を行った後に、ニューヨークでハウ将軍の艦隊と落ち合うこととされた。

 ウィリアム・ハウ将軍の兄であるイギリス海軍のリチャード・ハウ提督は、ハウ将軍が出発した後に輸送船団を率いてハリファックスに到着し、即座に後を追うこととなる。


 ハウ将軍の艦隊が、ニューヨークの外港に到着すると、7月2日には防御の施されていないスタテン島とロングアイランドの間のナローズを航行した。そして、その日の内に無抵抗のスタテン島への上陸を開始する。

 ワシントンは捕えた捕虜から、ハウ将軍が10000名の部隊を上陸させ、更に15000名の援軍がやってくることを知った。ワシントン軍の戦力は、イギリス軍が揃った場合の戦力より少ない19000名である。その上、イギリス軍側の作戦について、しっかりとした情報が無いため、ハウ将軍がニューヨーク地域のどこを襲ってくるかも判断しかねていた。

 結果的に、大陸軍はロングアイランドとマンハッタンおよび大陸本土の防衛陣地に軍を分けてしまう。更にはニュージャージー北部に「フライング・キャンプ」までも設けた。この部隊は、ハドソン川のニュージャージー川岸でならば、どこでも大陸軍の作戦を支援するように意図された予備隊である。


 ハウ兄弟は、イギリスの議会から休戦の使者として、紛争を平和的に解決する限定付きの権限を与えれてていた。イギリス国王ジョージ3世は、休戦の可能性について楽観的ではなく「私はやってみるべきだと今も思う。あらゆる活発な行動を絶え間なく実行すべきだ」と語っている。そして、ハウ兄弟の権限は「一般的および特別の恩赦」を認め、「国王の臣下である者と協議すること」に限られていた。

 7月14日、ハウ提督はこれらの権限を遂行するため「ジョージ・ワシントン殿」と宛てた手紙を持たせた使者を派遣する。ワシントンの副官ジョセフ・リードは、そのような肩書きの者はこの軍隊に居ないとその使者に丁重に返答し、受け取りを拒絶した。

 ハウ提督は受け取りを拒絶されたことに困ったものの、今度は「ジョージ・ワシントン殿、等」と宛てて書いて使者を派遣する。そして、同じように手紙の受け取りを拒絶された。しかし、その使者はワシントンがハウの副官の一人と会う用意があると告げられる。

 7月20日、両者の会談が執り行われたものの、反逆者(アメリカ独立推進者)は恩赦を求めるような悪事を働いたわけではないので、ハウ兄弟が認められている限定付きの権限は何の用もなさないとワシントンが指摘し、物別れに終わった。


 同年8月、イギリス軍は約22000名の軍(ドイツ人傭兵9000名を含む)をロングアイランドに輸送する。8月27日のロングアイランドの戦いでは、イギリス軍が大陸軍陣地の側面を衝いて、ワシントン軍をブルックリン・ハイツの砦まで後退させた。

 ハウ将軍は砦に対する包囲戦の手配を始めたものの、ワシントンは夜陰に紛れてまだ抑えられていなかった後面のイースト川を渡って、マンハッタン島までの撤退を巧みに成功させる。ハウ将軍は、その陣地を固めるために一旦行軍を停止させ、次の作戦を検討しすることとなった。


 ロングアイランドの戦いの後、大陸軍のジョン・サリバン将軍がイギリス軍に捕らえられる。ハウ提督はサリバンに、フィラデルフィアの大陸会議に宛てた伝言を届けるよう説得し、仮釈放で解放した。

 ワシントンもそれを認めたので、9月2日にサリバンは大陸会議に行って、ハウ兄弟が交渉を望んでおり、実際に与えられているものよりも幅広い権限を与えられていると語った。このことで急進的とは見られたくなかった大陸会議では、申し出を直ぐに拒否することが、どのような事態になるかという外交上の議論が生じる。その結果、大陸会議は大きな進展は無いことを予想しつつ、ハウ提督との協議に代表団を送ることに同意した。

 9月11日、ハウ兄弟はスタテン島和平協議でジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン及びエドワード・ラトリッジと会見した。その結果はアメリカ側が予想していた通り、物別れに終わった。


 両者が会談をしている間に、大陸会議からニューヨーク市を死守するよう命令されていたワシントンは、マンハッタン島で自軍が包囲される可能性があるため、イギリス軍の罠から抜け出す方法を考える。北への脱出路を確保するため、当時はローワーマンハッタンを占めているだけだったニューヨーク市内に5000名の部隊を置く。そして、残りの部隊を率いてハーレムハイツに移動する。この時、潜水艇タートルを使ってイギリス海軍の旗艦HMSイーグルを沈めようとする新しい試みが行われたが失敗した。これは戦争に潜水艦が使われた最初の記録となっている。


 イギリス軍はロングアイランドを取った後、マンハッタンを取るために動きだした。

 9月15日、ハウ将軍は約12000名の部隊をローワー・マンハッタンに上陸(キップス湾の上陸戦)させると、素早くニューヨーク市を占領する。

 大陸軍はハーレム・ハイツまで後退し、そこで翌日に小競り合い(ハーレムハイツの戦い)があったものの、陣地は確保していた。

 ハウ将軍は、ワシントン軍の強固な陣地に対する2回目の攻撃でも側面を衝く戦術を選んだ。10月18日、ウェストチェスター郡に抵抗を受けつつも上陸した部隊を使って、再度ワシントン軍を取り囲もうとした。

 しかし、ワシントンはイギリス軍隊の動きに対抗するため、軍の大半をホワイトプレインズまで後退させる。10月28日、ホワイトプレインズの戦いの後に、さらに北に後退したのであった。

 ワシントン軍の行動で、アッパーマンハッタンに残っていた大陸軍の部隊が孤立することとなる。そのため、ハウ将軍はマンハッタンに戻り、11月半ばにはワシントン砦を占領して守備隊約3000名を捕虜にした。その4日後、ワシントン砦からハドソン川を隔てて対岸のリー砦も占領する。

 ワシントンは、軍隊の大半を率いてハドソン川を渡りニュージャージーに入ったが、イギリス軍が攻撃的に進軍してきたため、更なる後退を強いられることとなった。


 ハウ将軍はニューヨーク港周辺のイギリス軍の位置づけを確固としたものにした後に、部下であるヘンリー・クリントンとヒュー・パーシーの2名に、6000名の部隊を預けて、ロードアイランドのニューポートを占領するために派遣した。12月8日、両名率いる部隊はニューポートの抵抗を受けることなく占領している。

 ハウ将軍は、更にチャールズ・コーンウォリス将軍にワシントン軍を追わせ、ニュージャージーに向かわせた。そのため、12月初旬に大陸軍はデラウェア川を渡ってペンシルベニアに退却している。


 大陸軍、ひいては革命そのものの将来性は風前の灯になっていた。ワシントン軍の中で任務遂行に適した者の数は5,000名以下に減り、その年の暮れに徴兵期間が過ぎた後は更に減ずることになる。

 ワシントン軍の士気は低下し、植民地の民衆の支持は揺らいでいた。大陸会議は、イギリス軍からの攻撃を恐れてフィラデルフィアを放棄している。

 ワシントンは、失敗に終わったカナダ侵攻作戦から戻った部隊の一部に自軍へと合流するよう命令した。また、ニューヨーク市の北部に残していたリー将軍の部隊にも合流するよう命令している。

 当時のリーは、ワシントンとの関係が難しくなっており、口実を作ってニュージャージーのモリスタウンまで移動しただけに留まる。12月12日、リーが部隊から離れていたところ、ロイヤリストの裏切りにあって、バナスター・タールトン中佐の率いるイギリス軍中隊によって、泊まっていた宿屋を取り囲まれ、捕虜になった。

 リーが率いていた部隊の指揮はジョン・サリバンが引き継ぐことになり、トレントンから川を渡って、ワシントンの宿営地に合流することとなる。


 ハウ将軍はリーと言う問題のある捕虜を抱えたことになった。大陸軍の多くの指揮官たち同様、リーはかつてイギリス軍に所属している。そのため、ハウ将軍はリーを当初は脱走者として扱う。それは軍隊の制裁を課する恐れがあった。

 しかし、ワシントンが調停したことで、リーを捕虜として扱うこととなる。リーの待遇は良くなり、イギリス軍の指揮官に如何にしてこの戦争に勝つかを助言することもあった。大陸軍にはリーに匹敵する高官の捕虜がいなかったため、捕虜の交換が出来なかったので、そのままニューヨークに留まることになる。


 大陸軍がニューヨーク市を守れなかったため、ロイヤリストの活動が活発になった。イギリス軍は、植民地民兵の連隊を作るためにニューヨークやニュージャージーで積極的に徴兵を行う。

 11月30日、ハウ提督は英国王室に反抗して武器を取った者でも、英国王室に対する忠誠を誓えば恩赦を与えるという声明を出した。これに対しワシントンは、そのような誓言を拒否しなかった者は即座にイギリス軍前線の背後に行くべきだということを示唆する宣言を発する。その結果、ニュージャージーは内戦状態となり、戦争の間、民兵の活動と共にスパイや逆スパイの活動が続くことになった。


 ハウ将軍がニューヨークを占領したという知らせは、イギリス本国で好意的に迎えられ、その功績に対してバス勲章を与えられる。更にケベックが回復したという知らせもあり、イギリス本国の指導者層には、この戦争が短期間で終わるものと考えさせる状況にあった。

 ハウ提督が恩赦を与えるという声明を出したという知らせは、その条件が政府の強硬派が予測していたよりも寛大だったので、幾らかの驚きをもって迎えられる。戦争に反対していた政治家は、この宣言が議会の判断の優先に言及していないことを指摘した。更にハウ兄弟が行った様々な和平努力について、議会に報告していなかったことを責められることとなった。

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