アメリカ独立戦争(ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦)-2

 1776年の作戦が明らかに終わりを告げた時、イギリス軍はパースアンボイからボーデンタウンまで伸びる一連の前進基地を設立し、冬季宿営に入った。ニューヨークとニュージャージーの大半を支配しており、春に攻撃を再開し、反乱軍の首都であるフィラデルフィアを討つには格好の位置づけである。

 クリントン将軍に占領させたニューポートは、ボストンやコネチカットに対する作戦の基地として使用することが出来た。ハウ将軍は翌年の作戦として、ニューポートに10000名、オールバニへの遠征に10000名、ニュージャージーを越えてフィラデルフィアを脅かすために8000名、およびニューヨークを守るために5000名と見積る。もし、外国の軍隊を使えるならば、南部の諸邦に対しても作戦を実行可能であるとも想定していた。


 ワシントンは軍隊を纏めていくかを大いに苦慮する中で、比較的無防備なイギリス軍前進基地への攻撃を計画する。そこは民兵と軍隊による襲撃が続いたために常に不安定な状況になっていた。

 ドイツ人指揮官カール・フォン・ドノープとヨハン・ラールが率いるヘッセン=カッセル方伯の旅団が前進基地の並びの外れにある。彼らは襲撃の目標にされることが多かったため、イギリス軍のジェイムズ・グラント将軍に繰り返し警告するとともに、支援を求めたが、無視されていた。


 ワシントンは12月半ばからトレントンにあるラールの前進基地を2方向から攻め、ボーデンタウンにあるドノープの前進基地を3番目の部隊が陽動攻撃する作戦を立てる。

 この作戦は、偶然ある民兵中隊がドノープの全軍2000名をボーデンタウンから南に引き付け、12月23日のマウントホリーでの小競り合い(アイアンワークスヒルの戦い)に繋がったことで助けられた。アイアンワークスヒルの戦いでは、後にプロイセンと戦うヨハン・エーヴァルトも参加している。その結果、ワシントンがトレントンに攻撃を掛けたときは、ドノープ隊がラール隊を助けられない状況となった。

 クリスマスの夜、ワシントンと2400名の部隊が密かにデラウェア川を渡り、12月26日朝のトレントンの戦いでラールの前進基地を急襲する。1000名近いドイツ人傭兵を殺害あるいは捕獲することとなった。この勝利で大陸軍の士気を著しく上げることが出来たものの、コーンウォリスをニューヨークから引き出すことにもなってしまう。

 コーンウォリスは6000名以上の部隊を集結させ、その大半を率いてトレントンの南に布いていたワシントンの陣地に向かった。コーンウォリスは1200名の兵士をプリンストンの守備隊として残し、1月2日にワシントンの陣地を攻撃する。しかし、この攻撃は3度撃退される。ワシントンは夜間に再び密かに軍を動かし、コーンウォリス軍を迂回してプリンストンの守備隊の攻撃に向かった。

 大陸軍の前衛隊を指揮していたヒュー・マーサー将軍は、チャールズ・モーフッドの指揮するプリンストンからのイギリス部隊と遭遇する。そこで起こったプリンストンの戦いで、マーサーは致命傷を負ってしまう。

 ワシントンはジョン・カドワラダー将軍の下に援軍を送り、モーフッドとプリンストンからの部隊を追い返すことに成功した。イギリス軍部隊はトレントンのコーンウォリス隊の元へ逃亡することとなる。この戦闘でイギリス軍は、その勢力の4分の1以上を失い、大陸軍の士気はさらに上がることとなった。


 ハウ将軍はトレントンの戦い敗北によって、イギリス軍の大半をニュージャージーから引き上げさせることを決断する。そして、ニューブランズウィックとパースアンボイの前進基地のみを残すこととした。

 ワシントン軍はニュージャージーのモリスタウンで冬季宿営に入り、ニュージャージーの大半をイギリス軍から取り戻すことに成功する。

 しかし、両軍共に糧食が足りなくなり、各指揮官は部隊を派遣して、食料などの物資を略奪させた。その後の数ヶ月間は「まぐさ戦争」と呼ばれ、互いに物資を求める敵部隊への襲撃を続けることとなる。そのため、ミルストーンの戦いなど多くの小競り合いや小戦闘が発生した。

 イギリス軍は糧食の問題で仲間内でも問題が発生する。パーシーはニューヨークとニュージャージーに物資を供給するため、ニューポート基地の補給について、ハウ将軍と意見の不一致が続いた後、その任務を辞することとなった。


 イギリス軍はニューヨーク港とその周辺の農業地帯を支配下に収め、ニューヨーク市とロングアイランドは1783年の終戦まで保持することとなる。

 大陸軍はかなりの損失を出し、重要な物資を失ったものの、ワシントンは大陸軍の中核を維持し、この戦争を終わらせかねないイギリス軍との決戦を避けることができた。また、トレントンとプリンストンでの大胆な攻撃と勝利によって、戦場での主導権を取り戻し、軍隊の士気を上げている。

 こうして、ニューヨーク植民地のニューヨーク市周辺、ニュージャージーおよびコネチカットは独立戦争の間、常に戦場となった。


 トレントンとプリンストンの戦いに関して、ハウ将軍はイギリス本国へ報告書を送っている。しかし、その報告書は、重大性を最小化しようしたものだった。トレントンの戦いの場合はラールを非難し、プリンストンの戦いの場合は防衛に成功したような印象を与えようする。

 この報告に対してジョージ・ジャーメインを始め、誰もが騙されたわけではなかった。

 ヘッセン=カッセル方伯軍のレオポルド・フィリップ・フォン・ハイスター将軍に宛てた手紙でジャーメインは、「(トレントンで)指揮を執った士官と、この不運が帰せられる者がその無分別で命を失った」と記している。ハイスターは君主であるヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世に報告しなければならず、1個旅団全てが失われただけでなく、16の連隊旗と6門の大砲も失われたと報告した。この報告に方伯は激怒し、ハイスターに、軍の帰国を提案したとされている。結果としてハイスターは、ヘッセン=カッセル方伯軍の指揮をヴィルヘルム・フォン・クニプハウゼンに引き渡す。

 方伯は更に1776年の事件に関する広範な査問も命じ、1778年から1782年まで査問が行われた。これらの査問によりこの方面作戦に関する特徴ある史料が生み出されれることとなる。


 ワシントンが戦いに勝ったという知らせは、重要なタイミングでパリにもたらされた。

 駐仏イギリス大使ストーモント卿は、フランスの外務大臣ヴェルジェンヌ伯爵に、フランスがアメリカの反乱軍に対して資金と物資を公然と支援していることに関して苦情を申し立て様としていた。ストーモントは、アメリカ向けの物資が以前はアメリカの旗を掲げた船に積まれていたが、今ではフランスの旗を掲げた船に積まれるようになったことを知ったためである。

 ストーモントは、フランスの宮廷が大陸軍の勝利に著しく満足しており、フランスの外交的立場は大いに強化されたと記す。また、「ヴェルジェンヌ大臣はその心中で敵対的であり、反逆者のの成功を切望していることは疑いが無い」と記していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る