第7話 クメール・ルージュ 3


3日後の朝。

サロットは1人で拳銃を撃っていた。


バンッ!


乾いた音を発した銃弾は的の中央を撃ち抜いた。


バチバチバチ


いきなり拍手の音がして少女の声が聞こえた。


「お見事。さすがね。やっぱりあなたはステキだわ。でも、もう実弾は使わないでね」


振り返るとターニャが微笑んでいた。

それは3日前の夜に機関銃を乱射した彼女では無く、パリのカフェで一緒にカフェオレを飲んだターニャだった。


「実弾は使うなって ? 」


サロットの問いに彼女は頷いた。


「ええ。今の腕前ならもう訓練は必要ないわ。実弾は貴重なのよ ? 手に入れるのはけっこう大変なんだから」


そう言ってターニャは悪戯っぽく笑った。


「問題は実戦ね。あなたに人が撃てるかしら ? あなたは優しいから」


「う、撃てるさ」


サロットは、ちょっと強がって言った。


「それが僕の理想の国家の為ならば」


そう言ってサロットは肩をすくめた。


「もっとも、今は生き延びたいって言う気持ちの方が強いけどね」


そう言ってターニャの真似をして悪戯っぽく笑った。


「ふふっ。そうね」


ターニャは心底おかしいと言うように笑った。

朝陽が眩しかった。

今日も暑くなりそうだった。


「でも」


ターニャは朝陽を見つめながら言った。


「皆、飲み込みが早くて助かったわ。さすがエリートさん達ね」


「皮肉かい ? 」


「そうじゃ無いわ。本当に感心してるのよ。やっぱり基本的に賢いのね。私が教えた事をすぐ理解してそれを実践できるんだもの。これで実戦を積めば私達は少数だけどかなり強くなるわよ」


サロットはそんなターニャを見つめながら言った。


「君の教え方がうまいのさ。要点のみを的確に教えてくれる。それに、皆は死にたくないと言う思いで必死なのさ。この前の夜の君の演説がかなり堪えたみたいだよ」


「いやだ、思い出させないでよ」


そう言ってターニャは恥ずかしそうに舌を出して、アカンベーをした。


サロットは一瞬、自分がパリの街にいるような感覚に捉われた。

カフェの待ち合わせ時間に遅れた自分を、ふざけながら怒っているようなターニャの態度。

あの夜の機関銃を乱射したターニャとは、まるで違っている。

ひょっとしたら別人ではないか ?

そんな事を本気で考えてしまう程、今のターニャはごく普通の可憐な少女だった。


「どうしたの ? 黙り込んじゃって」


ターニャが自分の顔を覗き込んで来た。

サロットは思わず、後ずさってしまった。


危険。


この少女は危険。


サロットの中の動物としての本能が、そう告げていた。


「なーによ ? 人をオバケみたいに」


ターニャは、膨れっ面をした。

しかし、サロットはターニャに対する警戒心を解く事が出来なかった。


「き、君はいったい何者なんだ ? 何の目的で」


そう言いかけて、サロットは目を見開いた。


目的。


この少女は何か目的があって、自分に近づいて来たのではないか ?

パリに留学していた時から。

そう考えると不自然な事が多すぎた。

何故、ターニャは初対面で自分のコンプレックスを知っていたのか ?

何故、人付き合いをしない彼女が自分だけに明るく話しかけて来たのか ?

考える程に疑問が沸き上がって来た。

目の前で微笑んでいる亜麻色の髪の少女が、とてつもなく恐ろしいものに感じられた。


「目的 ? そうね」


ターニャは微笑みながら近づいて来た。

サロットは動く事が出来なかった。


「それはね」


ターニャは、サロットのすぐ目の前に来ていた。


「あなたが歴史に名を残す人物になるからよ」


そう言ってターニャはサロットに優しく口づけをした。

ターニャの唇は甘くやわらかだった。


「でも、これだけは信じて。これは私の意思じゃない」


サロットは自分の意識が遠くなるのを感じた。


「出来る事なら、あなたが不幸になるのは見たくない。あなたはあなたの意思で自分の未来を変えて」


ターニャの最後の言葉はサロットの耳には届いていなかった。

サロットは気を失っていた。




「サロット!しっかりしてサロット!」


サロットは自分を呼ぶ声で目を覚ました。

ターニャが心配そうな顔で覗き込んでいた。


「タ、ターニャ ? 」


「大丈夫 ? 自分が誰だか判る ? 」


なおも心配そうに見つめるターニャを安心させるようにサロットは言った。


「僕は大丈夫だよ。でも、いったい何があったんだ ? 」


「憶えてないの ? 私と話してて急に倒れたのよ」


あぁ、そうだ。

射撃訓練をしている時にターニャと話し始めたのだった。

しかし、話し始めてからの記憶が無い。

何か、とても重大な事に気付いたような気がするが憶えていない。


「きっと2日間の射撃訓練で疲れていたのね。大丈夫 ? 立てる ? 」


「ああ、大丈夫だ」


サロットは立ち上がった。

自分の唇に何か甘いものを感じたが、それが何かは判らない。


「おおーい!」


そんな2人にイエンが大きな声で駆け寄って来た。


「斥候が帰ってきた。新しいしいアジトになりそうな場所を見つけたそうだ」


「本当か ? 」


「ああ、今日にでも移動したい。ターニャはすぐに来てくれ。僕達が安全に移動できるように君の意見が聞きたい。サロットは他の皆に伝えて出発の準備をしてくれ」


「判った」


「判ったわ」


ターニャはイエンと共にアジトに走り出した。

サロットはそんなターニャを見ながら、さっき感じた重大な何かを思い出そうとしたが思い出せなかった。

ただ、唇に残る甘い感触を感じるだけだった。





弾圧下にありながらも、クメール・ルージュはその勢力を拡大して行った。

これには、ターニャの力が大きかった。

新しくクメール・ルージュに加わった人々に適切な戦闘訓練を行い、戦力にして行った。

イエンやラットらと毎日のように作戦会議をして、次々と新しい戦略を提案した。

今や、ターニャが戦闘部門の実質的なリーダーとなっていた。

彼らは同じく独立国家となったベトナムのクメール人民革命党とも連絡を取り、緊密な関係を築いて行った。

それらの外交関係は主にサロットが担当した。

彼の話術と駆け引きの巧みさは、クメール・ルージュの勢力拡大に欠かせないものとなっていた。

彼は頻繁にサイゴンを訪れ協議を重ねて行った。


戦闘の中で彼らに捕虜として捕まった敵兵もいた。

敵兵から情報を聞き出すと、ターニャはその処刑を人を殺した事がない仲間に命じた。

クメール・ルージュはゲリラ活動であったから捕虜を生かしておく余裕は無かったし、人を殺した事がない人々を前線に送り込む事は出来なかったからである。


サロットは初めて人を殺した時の事を未だに忘れる事が出来なかった。

その捕虜は猿轡を嵌められていたが、その目は必死に助けを求めていた。

サロットは、どうしても引き金を引く事が出来なかった。

そんなサロットにターニャが囁いた。


「撃ちなさい」


サロットは動けなかった。


「理想の国家を作るんでしょう ? 殺らなければ殺られるわ。もう後戻りは出来ないのよ」


サロットは震える手で引き金を引いた。

運ばれていく兵士の死体を見ながらターニャが言った。


「あの兵士は死んだんじゃないわ。あなたの国家の礎になったのよ」


サロットの身体の震えは止まらなかった。


「内戦状態の国に理想の国家を作るとは、こういう事よ。覚悟を決めなさい」


「き、君の言った多少の犠牲とは、こういう事か ? 」


「そうよ」


「これが多少の犠牲だって ? 今まで何人の人を殺して来たんだ ? 」


「多少よ」


ターニャの声は冷たかった。


「まだまだこの程度じゃ済まないわ。大体、あなたがこうして生きていられるのも外交活動をしていられるのも誰のおかげだと思ってるの ? 」


「・・・・・」


「私達、戦闘部隊が敵を殺してるからでしょ ? それが嫌なら今すぐ逃げ出しなさい。最も逃げる途中で殺されるでしょうけど」


サロットは何も言えなかった。


「じゃ、私は次の戦闘の指揮を執らなきゃいけないから」


そう言ってターニャは去って行った。

サロットは、その後ろ姿を見つめる事しか出来なかった。


その日の夕刻、サロットはアジトの中で座り込んでいた。

ぼんやりと沈む夕陽を眺めていた。


「どうした、サロット ? 何をぼけっとしている ? 」


書類の山を抱えたイエンが通りかかった。


「なぁ」


通り過ぎようとするイエンに話しかけた。


「僕達のやってる事は正しいのかな ? 」


「何だって ? 」


イエンは驚いたように立ち止まった。


「いや、だから僕達のやってる事は」


「何を言っている ? 」


イエンはサロットの隣に座った。


「まぁ、完全に順調とは言えないが我らクメール・ルージュは着実に勢力を拡大している」


イエンは機嫌良さそうに言った。


「少なくとも10年後にはシハヌーク政権を倒して、僕らクメール・ルージュが政権を握りたいな。そうすれば、僕らの理想の国家の実現だ」


イエンは興奮したように言った。


「・・・理想の国家」


「そうとも!」


イエンはサロットの肩を掴んだ。


「貧富の格差が無い、皆が平等で自由な平和国家。お前の言ってる原始共産制の国家だよ!」


サロットは呟いた。


「今、僕達がやっている殺人は、その為の犠牲か ? 」


「お前、何を言ってるんだ ? 」


イエンは驚いたように言った。


「弾圧をしてるのはシハヌークなんだぞ ? 僕らには自分の身を守る権利がある」


イエンはきっぱりと言った。


「判ってるさ」


サロットは呟いた。


「ターニャにも同じ事を言われたよ」


「ターニャか!彼女は素晴らしい!」


イエンはサロットの肩に置いた手に力を込めた。


「しかし、いつも思うんだが毎回あれだけの武器や弾薬を何処から仕入れて来るんだろうな ? 」


それはサロットも疑問に思っていた。


「ベトナムか中国かソビエトか。ひょっとしてアメリカか」


しばし考えていたイエンは首を大きく振った。


「いや、そんな事はどうでも良い。武器の調達は彼女に一任している。へたに詮索しない方が良い。おっと」


イエンは慌てて立ち上がった。


「僕は忙しいんだ。お前も余計な事は考えずに他国との交渉に専念してくれ。これからも僕らの指示通りによろしく頼むぜ」


そう言って足早に走り去って行った。


「・・・理想の国家か」


1人残されたサロットは、うわごとのように呟いた。





それから数年の月日が流れた。

クメール・ルージュは着実にその勢力を増していた。

サロットは北京や平壌にも足を運ぶようになっていた。

ターニャも戦闘部門のリーダーとして奔走していた。

カンボジアに来てから10年は経とうとしているのに、ターニャはパリで会った時とまるで変わっていなかった。

あいかわらず可憐な少女のままだった。

しかし、それを指摘するものはいなかった。

ターニャは普通の人間では無い、と皆は思っていた。

しかし、今ターニャがいなくなったらクメール・ルージュが崩壊するのは火を見るよりも明らかだった。

皆は暗黙のうちにターニャに対する詮索をやめていた。

サロットもターニャと話す機会は殆ど無かった。

組織が大きくなった為、2人とも互いの業務で忙しく1年以上も顔を合わせない事もあった。

それでも稀に顔を合わせた時にはターニャはとびっきりの笑顔で手を振ってくれた。

サロットは、それだけで満足だった。


しかし、また情勢を一変させる出来事が起こった。

アメリカがカンボジアに介入して来たのである。

既にベトナム戦争を始めていたアメリカは、隣国であるカンボジアが敵対勢力となるのを恐れていた。

1970年。

アメリカはロン・ノル将軍を支援してクーデターを起こさせた。

その結果、シハヌークは追放されロン・ノルによる軍事政権が誕生した。

北京に亡命したシハヌークはサロットと接触した。

シハヌークは仇敵であったが、サロットは元国王の支持を取り付ける事でクメール・ルージュの正当性を主張できると考え本部に連絡をした。

本部では激しい議論が交わされたがターニャの「共闘すべし」の一言で共闘が実現した。

同年、アメリカ大統領ニクソンはカンボジアへの攻撃を許可しカンボジアへの激しい空爆が始まった。

この空爆によってカンボジア国内では2000万人が国内難民となった。

ロン・ノル政権は汚職が蔓延し都市部しか配下に出来なかった為、元国王のシハヌークの人気もあってクメール・ルージュへの加入者は激増した。

ターニャの読み通りだった。

1973年にアメリカが撤退すると共にロン・ノル政権は崩壊した。

その結果、カンボジア国民の大多数の支持を得ていたクメール・ルージュの政権掌握は時間の問題となっていた。




そんな、ある日の夜。

サロットは膨大な書類と格闘していた。

満月のきれいな夜だった。

サロットは興奮していた。

本当にクメール・ルージュが政権を掌握しようとしている。

とても信じられなかった。

パリ大学でクメール共産主義グループの皆と語り合った理想の共産主義国家がついに自分達の手で実現するのだ。

サロットは書類から目を離すと外の景色を眺めた。

満月に照らされてその景色はとても幻想的に見えた。

サロットは目を閉じた。

これまでの様々な事が脳裏に浮かんで来た。

しかし、真っ先に浮かんで来たのはパリのカフェでターニャと見た雪だった。

自分の中では、あの日から全てが始まったように思えた。

しばしの静寂があった。

その静寂の中を誰かが近づいて来る気配がした。

イエンか ?

サロットがそう思った時、その人影は月の光りの中に現れた。

亜麻色の長い髪が月の光りに照らされて美しく輝いていた。


「・・ターニャ」


ターニャは優しい微笑みを浮かべていた。

パリのカフェでお気に入りのカフェオレを飲んでいたターニャだった。


「おめでとう。サロット」


とても穏やかな口調だった。


「ついにあなたの夢が実現するのね」


「ありがとう、ターニャ。すべては君のおかげだ」


サロットはターニャに駆け寄ろうとしたが動けなかった。

今のターニャには何者をも近寄らせない力が働いているようだった。


「近いうちにクメール・ルージュが正式に政権党となるでしょう。そして、あなたがそのリーダーとなるのよ」


「え ? 何を言ってるんだ ? イエンかラットがなるのが妥当だろう」


「大丈夫」


ターニャは微笑みながら言った。


「そうなるように私がしたから」


サロットは唖然とした。

僕がリーダー ?

それはこの国の最高権力者を意味する。


「・・僕が最高権力者 ? 」


「そうよ。あなたは憶えていないはずだけど私は言ったわ。あなたは歴史に名を残す人物になるって」


そう言うとターニャは哀しげな顔になった。


「僕が歴史に名を残す ? 」


「お願い!歴史を変えて!」


ターニャは叫ぶように言った。


「・・歴史を変える ? 」


サロットは訳が判らなかった。


「判らない。君が何を言っているのか」


ターニャはうつむいていた。


「わかってる。歴史は変えられない。決して」


ターニャはゆっくりとサロットを見つめた。


「でも、あなたは。あなただけは・・・」


ターニャはふっと小さなため息をついた。


「ごめんなさい。私、ばかな事を言ってるわ。とにかく私がいなくなっても道を踏み外さないで。お願いよ」


「いなくなる ? どういう事だ!」


サロットは混乱した。

そんな事は考えた事も無かった。


「どういう意味なんだ ? 僕の事が嫌になったのか」


「私には使命がある」


ターニャは静かに言った。


「その使命は終わったわ。そして私は去らねばならない」


「使命ってなんだ!もっと判りやすく説明してくれ」


サロットは焦っていた。

ターニャがいなくなったら自分はどうなってしまうのだろう ?

サロットは自分が立っている地面が崩れ落ちる感覚に襲われた。

それほどまでにターニャはサロットにとって必要不可欠な存在だった。


「風が命じるの」


そして、意を決したようにサロットを見つめた。


「さようなら。あなたに会えて私は幸せだった。これだけは憶えておいてね」


そう言うとターニャは月明かりの中で消えようとしていた。

亜麻色の髪が美しく輝いていた。


「待ってくれ、ターニャ!君がいなくなったら僕はどうしたら良いんだ!」


ターニャはゆっくりと微笑んだ。

そして、月明かりの中で消えていった。





1975年4月17日。

クメール・ルージュがプノンペンを占領。

国名を民主カンプチアに変更。

サロット・サル、名前をポル・ポトに改名。



1976年5月13日。

ポル・ポトが首相に就任。




ターニャが去った後のポル・ポトは明らかに人格が変わっていた。

ギラギラとしたその目は常に狂気に満ちていた。

彼はまず、大都市の住民、資本家、技術者などから一切の財産と身分を剥奪し、農村に強制移住させ農業に従事させた。

学校、病院も閉鎖した。

銀行も閉鎖し、貨幣制度を廃止した。

それらに従事していた人々も、すべて農村に送り込んだ。

ポル・ポトはこれを「原始共産制の実現」と称した。

カンボジアの経済は破綻した。

農村に送り込まれた人々は強制労働と飢餓で、その殆どが死滅した。

その残虐さから、人々はいつしかクメール・ルージュとは呼ばず、ポル・ポト派と呼ぶようになっていた。

ポル・ポトは自らの政治体制の矛盾を見抜きうる知識階級を恐れて弾圧して処刑した。

眼鏡をかけている者、本を読もうとした者も、それだれの理由で処刑された。

ポル・ポト派は「腐ったリンゴは箱ごと捨てなくてはならない」をスローガンとしていた。

ポル・ポトは自分に少しでも敵対心をもつ疑いのある者はすべて処刑した。

それはクメール・ルージュ内の人物でも例外では無かった。

ポル・ポト派はすべての国交を断絶していたので、この大量虐殺は他国に知られる事は無かった。

後の調査でポル・ポト政権下での死者数は300万人と発表された。

1979年。

ベトナム軍の協力を得たカンプチア救国民族統一戦線によってポル・ポト派は失脚した。

ポル・ポトはジャングルに逃れクメール・ルージュの残党らと共に、19年の長きに渡って抵抗活動を続けた。

しかし、1998年に捕らえられ収容所に送還された。





収容所でポル・ポトは、ぼんやりと宙を見つめていた。

自分が処刑されるのは判っていた。

あれだけの人を殺した自分が処刑されるのは当たり前だと思っていた。

彼はある人物を待っていた。

かならず来るという確信があった。

彼は待ち続けた。

真夜中すぎにその人物は現れた。

鉄格子の向こうに亜麻色の髪の少女が立っていた。

パリで初めて会った時の姿だった。


「おひさしぶりね。サロット」


彼の愛した少女が言った。


「まだ僕の事をサロットと呼んでくれるのかい ? ターニャ」


「だって今のあなたは、ポル・ポトじゃないもの」


ターニャは微笑んだ。

サロットの愛した微笑みだった。


「君はこうなる事が判っていたのかい ? パリで初めて会った時から」


「ええ」


ターニャは哀しげな顔になった。


「第2次大戦の後、多数の共産主義国家が誕生したけれどその殆どが独裁国家になってしまったわ。産業革命後の人類に共産主義国家を作る事は出来ないのよ。その理念は否定しないけど」


「君は大量虐殺をやらせる為に僕に近づいたのかい ? 」


ターニャは無言だった。


「・・いや。違うな」


サロットは首を振った。


「虐殺を行ったのは僕自身だ。君のせいじゃない」


ターニャは静かにサロットを見つめていた。


「誰も歴史を変える事は出来ないのよ。あなただけは、って思ったけど」


そう言って、またサロットを見つめた。


「信じてもらえないかも知れないけど」


サロットは続けた。


「今の僕にはポル・ポトだった頃の記憶が殆ど無いんだ。言い訳に聞こえると思うけど」


「それは今のあなたがサロット・サルだからよ」


ターニャの顔に微笑みが戻っていた。


「自分の理想を信じていたサロットよ」


サロットの顔に笑みが浮かんだ。


「ありがとう、ターニャ。最後に君に会えて良かった。これで思い残す事はない」


そう言ってサロットは目を閉じた。

ずいぶん長い時間が流れたように思えた。


「目を開けて。サロット」


ターニャの言葉でサロットは目を開いた。


雪。


雪が降っていた。

2人はパリのカフェにいた。

カフェの中は大勢の客で溢れていた。


「メリークリスマス、サロット。今夜はクリスマスイヴよ」


目の前の席に座ったターニャがカフェオレのカップを持ちながら楽しそうに笑った。


クリスマスイヴ ?

じゃあ、ターニャは僕の誘いを受けてくれたんだ。


サロットはとても幸せな気持ちになった。


「メリークリスマス、ターニャ」


サロットもカフェオレのカップを持った。

そして2人はカフェオレで乾杯した。


「ふふふ」


ターニャも幸せそうだった。


「愛しているよ。ターニャ」


「私も。背の低いあなたが大好きよ」


そう言ってターニャはこれまでで一番美しい微笑みを見せた。

2人はいつまでも見つめあっていた。

パリの街に雪が降り続いていた。





翌日、見回りの兵士がポル・ポトが死亡しているのを発見した。

それはとても安らかな顔だった。








亜麻色の髪の乙女第1部  完




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