第6話 クメール・ルージュ 2
それから2年の月日が流れた。
サロット達の留学期限も終わり帰国の日が近づいていた。
クメール共産主義グループの面々は帰国を前に異常な盛り上がりを見せていた。
それは、熱気と言うより殺気だっていた。
自分達の手で富裕の格差の無い皆が平等な理想の共産主義国家を作り上げてみせる、という使命感に燃えていた。
その為には武力闘争も辞さず、というのが大多数の意見だった。
サロットは始めはそれに難色を示していたが、今では彼らの意見に同調していた。
あれから、ターニャとは何回も議論を重ねた。
真の理想国家を作る為には犠牲を恐れてはいけない、と彼女は熱っぽく語った。
そんなターニャの瞳を見ているうちにサロットの考え方も変わっていった。
彼女の言う通り、大きな改革を成す時には沢山の血が流される。
それは過去の歴史が証明している。
ならば、自分の手を血で汚してもやらねばならないのではないか ?
最近のサロットは、そんな風に考えていた。
帰国を数日後に控えたある日。
サロットはターニャをいつものカフェに誘った。
別れの言葉を言う為に。
「珍しいわね。あなたがカフェオレを飲むなんて」
ターニャはいつものようにカフェオレを飲みながらサロットに尋ねた。
「まぁ、最後くらいはね。君のお気に入りのカフェオレを飲みたかった」
そう言ってサロットはカフェオレを口に運んだ。
それは、とても美味しかった。
「最後って ? 」
ターニャは不思議そうに言った。
「君も知ってると思うけど僕たちの留学期限は終わった。僕たちは帰国しなければならない。君とは、もう会う事も無いと思うけど」
「それなら大丈夫よ」
ターニャは、あっけらかんと言った。
「私も一緒に行くから」
「ええっ!」
サロットはびっくりして立ち上がった。
「君も僕たちの国に来るって言うのか!何故 ? 」
明らかに狼狽しているサロットを見上げてターニャは明るく言った。
「言ったでしょ ? ずっとあなたの側にいて、あなたを見守るって」
そう言ってカフェオレをすすった。
サロットは混乱していた。
この日の為に考えたカッコイイ別れの言葉がぶっ飛んでいった。
ターニャが僕の国に来る ? 僕たちと一緒に ?
まるで予想もしていなかった展開に思考回路が止まり、ただ自分の目の前でニコニコと笑う少女を見つめていた。
しばしの時間が流れた。
サロットはようやく自分の頭の中を整理するとターニャに喋り始めた。
「あのね、ターニャ。僕たちの国はまだまだ発展途上でインフラだってろくに整備されていない地域が殆どだ。とても、このパリのような快適な暮らしは出来ない。大体まだフランスに支配されている状況で独立国家にはなっていない」
「それなら大丈夫よ。フランスは近いうちにインドシナから手を引くわ。あなただって知ってるでしょ ? フランスの影響力は今では無いに等しいわ。国際世論の風当たりも強くなってるし」
ターニャは涼しげに言った。
「し、しかしそうなったら完全に無秩序状態だ。おそらく内戦が起きる。そんな危険な所に君を連れては行けない」
「ご心配なく」
ターニャは事もなげに言った。
「そう思って、かなり前から銃火器の訓練を受けてるのよ ? 闇のルートで機関銃も手に入れたわ。いざという時には、あなたを守らなくちゃいけないから」
サロットは唖然とした。
機関銃 ? こんな可憐な少女が ?
しかも僕を守るだって ?
話しの展開に付いていけなかった。
立ちすくんでいるサロットにターニャは微笑みながら言った。
「とにかく私はもう決めちゃったの。あなたが嫌だって言っても付いて行くわ。もうイエン達とも話をして、クメール共産主義グループに正式に入る事を許可してもらったわ」
「・・本当かい ? 」
「本当よ。これで私はあなた達の同志、仲間よ」
そう言ってターニャはサロットに手を伸ばして握手を求めた。
サロットは少しためらったが、その手を握った。
「きっと後悔するよ。僕たちはまだ、ただの学生で何の力も持ってない。理想の国家を作ると言っても、それが実現できるかどうか」
「何とかなるわよ」
ターニャは明るく言った。
「フランス革命のロベスピエールだってロシア革命のレーニンだって、最初から力を持ってた訳じゃないわ。それに私たちが志半ばで倒れたとしても、共産主義の芽ぐらいは残せるでしょう。そしたら誰かがその志を継いで、あなたの理想の共産主義国家を作ってくれるかも知れないじゃない」
サロットは苦笑した。
そして、彼女の考え方に感銘を覚えた。
自分は心配ばかりしていた。
国に帰っても何が出来るか判らない。
政情不安で、すぐに殺されてしまうかも知れない。
しかし、今それを考えても仕方がない。
とにかく、行動しなければ。
行動しなければ何も始まらない。
サロットは改めてターニャの手を強く握った。
「よろしく。同志ターニャ」
3日後、サロット達は船着き場に来ていた。
帰国の船に乗る為である。
ターニャは大きな木箱を持ち込んで来た。
そして、桟橋で載せろ載せないで船の関係者と一悶着おこしていた。
「彼女は何を載せようとしてるんだ ? 」
仲間の1人がサロットに話しかけて来た。
「機関銃だろう」
サロットがあっさりと答えると仲間はびっくりしたように言った。
「き、機関銃 ? なんでそんなものを ? 」
サロットはイエンの姿を見つけたので、その男の問いには答えずイエンの元へ向かった。
「ターニャが僕たちのメンバーになる事を許可したんだってな ? 」
「あ、ああ」
イエンはバツが悪そうに言った。
「いきなり乗り込んで来て自分をメンバーに入れろ、って言うんだ。もちろん皆は反対したさ。でも彼女の瞳を見たら何も言えなくなってしまったんだ」
「そうか」
サロットはターニャらしいな、と可笑しくなった。
「お前に言わなかったのは、彼女に堅く口止めされたからだ」
「わかった、わかった」
サロットは甲板の方へ移動した。
船は汽笛を鳴らし出航した。
ターニャの機関銃は無事に載せられたようだった。
サロットは自分の運命を変えたフランスの地を感慨深けに眺めていた。
1ヵ月後にサロット達は祖国の土を踏んだ。
ターニャの言う通りフランスの影響力はかなり薄れてはいたが、フランスの統治下である事は間違いなかった。
彼らはメンバーの1人である、ラット・サムオンの家を拠点とする事にした。
ラットもイエンと並ぶリーダー格の人物だった。
「えー、それでは我々の名称はカンボジア共産党で良いですか ? 」
ラットの声に皆は拍手をした。
いよいよ自分達の理想の共産主義国家を作る第一歩が始まるのだ。
サロットは気分が高揚するのを感じていた。
「あのー、ちょっと良いですか ? 」
皆の拍手の中でターニャが手を挙げた。
「どうぞ」
ターニャが立ち上がった。
「正式名称はそれで良いとして、もう1つ別の愛称のようなものを付けたらどうでしょう ? 」
皆がざわつく中、ターニャは続けた。
「ここの国の人達は共産主義についてあまり詳しくは知らないと思います。そこで共産党と名乗ってもインパクトに欠けると言うか」
なるほど。
ターニャの言う事は最もだ。
この国の人々の大多数は農民で、共産主義と言う言葉も知らないだろう。
しかし、別の愛称と言われても。
皆のざわつきが大きくなったので、ラットは声を張り上げた。
「静粛に!確かに彼女の意見は正しいと思います。誰か良い愛称を思い付いた人はいますか ? 」
皆は考え込んでしまった。
サロットもそんな愛称など何も考えつかなかった。
沈黙の中、再びターニャが手を挙げた。
「よろしいですか ? 」
「はい。何か良い愛称がありますか ? 」
ターニャは軽く咳払いをしながら言った。
「クメール・ルージュ、というのはどうでしょう ? 」
「えっと。ク、クメール・ルージュですか ? 」
「はい。クメールはこの国の人々。ルージュはフランス語で赤です。共産主義のシンボルカラーは赤ですから」
しばしの沈黙の中、声が上がった。
「良いんじゃないですか」
「僕もそう思います」
「クメール・ルージュかぁ。ちょっとカッコイイかも」
それからも賛同の声が、あちこちから響いた。
「せ、静粛に!」
ラットが再び声を張り上げた。
「それでは正式名称をカンボジア共産党。愛称クメール・ルージュで決定します」
今度は拍手と歓声が響いた。
サロットはターニャを振り返って笑顔をみせた。
ターニャも嬉しそうに笑った。
実質的に、これからの彼らはクメール・ルージュと呼ばれ公の場以外ではカンボジア共産党という名はあまり用いられ無かった。
この日、クメール・ルージュは正式にカンボジアの歴史にその名を刻んだ。
その後、しばらくは地道な活動が続いた。
彼らは村を回り共産主義の普及に務めた。
それはなかなか困難な作業であったが、彼らの熱心な活動によりクメール・ルージュの名は徐々にカンボジア国内に浸透して行った。
特にサロットの演説は素晴らしく、普及の大きな力となっていた。
しかし、そんな状況を一変させる出来事が起こった。
1953年。
ノロドム・シハヌーク国王によってカンボジアが正式な独立国家となったのである。
フランスは完全に撤退した。
シハヌーク政権は共産主義を危険思想とみなし弾圧を始めた。
もちろんクメール・ルージュも例外では無かった。
彼らは命の危険に晒される事となった。
ある日の夕刻、サロットが演説から帰って来ると仲間達がざわめいていた。
「どうした ? 何かあったのか ? 」
「シハヌークの兵隊を見たんだ」
「なんだって ? 本当か ? 」
「あぁ、奴らここを包囲してるらしい」
サロットは舌打ちした。
ついに、この時が来たか。
「イエンとラットはどうした ? 」
「今、中で協議してる」
サロットは、はっとして言った。
「ターニャは ? ターニャは何処にいる ? 」
「武器の調達に行くと言って、出て行ったままだ」
サロットは歯ぎしりした。
とにかく、イエンとラットと話し合わなければならない。
サロットは重い足取りで家の中に入った。
中では、イエンとラットが沈痛な面持ちで黙り込んでいた。
その周りでは仲間達が浮き足だっていた。
「とにかく早く逃げよう!」
仲間の1人が喚いた。
「そうだ!奴らが攻めて来る前に」
逃げるだと ?
いったい何処に逃げると言うんだ ?
「シハヌーク兵を見た、っていうのは本当か ? 」
「あぁ、それは確かだ」
イエンが答えた。
「奴らがここを包囲してる、っていうのは ? 」
「それは判らん」
今度はラットが答えた。
「何をしてるんだ!早く逃げよう!」
その男は半狂乱になっていた。
「落ち着け」
サロットはそう言ってから、イエンとラットに向き直った。
「どう思う ? 」
「ううん。シハヌーク兵を見たのは確からしいが」
イエンが苦い口調で言った。
「しかし、奴らがここを包囲してるという確証は無い。ここに攻め込むっていうのもな」
ラットがこれも苦い口調で言った。
深い沈黙が辺りを覆った。
「僕はターニャを待つべきだと思う」
サロットが沈黙を破った。
「え ? 」
「彼女は武器を調達して来ると言ったんだろ ? 彼女を待つべきだ」
「あんな小娘に何が出来るって言うんだ!」
さっきから半狂乱になっている男、チオン・ムンが叫んだ。
「あいつはクメール人じゃない!逃げ出したに決まってる!」
やれやれ。
サロットはチオンに言った。
「お前はパリで真っ先に武装蜂起を提案したじゃないか。これしきで取り乱してどうする ? 」
「あれはあくまでも思想論だ!今は現実に殺されようとしてるんだぞ!」
サロットは呆れたようにチオンを見た。
しょせん、エリートとはこんなものか。
口では偉そうな事を言いながら、実際に自分の身に危険が及べば逃げる事しか考えていない。
「とにかく俺は逃げる!付いてきたいヤツは来い!」
そう言い捨ててチオンは出て行った。
様子を伺っていた2人が後に続いた。
「いいのか ? 」
サロットはイエンに尋ねた。
「ほおっておけ。まだ正確な状況が判らないうちに逃げ出すような奴は、この先も戦力にはならん」
ラットも頷いていた。
外は夕焼けで赤く染まっていた。
チオン達3人はジャングルの中をさ迷っていた。
何処に行くという当ては無かったが、少しでもアジトから離れなければと思っていた。
「なぁ、ホントにこれで良かったのか ? 」
一緒に付いてきた男が小声で言った。
「やっぱり皆と一緒にいた方が」
「バカ!あそこにいたら確実に殺されるんだぞ」
チオンは苛立って言い返した。
そういうチオンも不安になっていた。
逃げると言っても何処に行けば良いのか判らない。
アジトにしていたラットの家は近くの村からかなり離れた場所にあった。
だからこそ、アジトにしたのであったが。
チオンは後悔し始めていた。
さっきは恐怖心で冷静な判断力を失っていた。
仮に今を生き延びても3人だけで、これからどうしたら良いのか ?
やはり帰ろうとした時、鋭い声がした。
「止まれ」
シハヌーク兵だった。
「見つけたぞ。クメール・ルージュの連中だ」
その兵の声に答えるように10数人のシハヌーク兵が現れた。
最初の兵がチオンの喉元に銃口を押し付けた。
「ひっ!」
「3人だけか ? 他の連中は何処にいる ? 」
チオンは何も喋れなかった。
「もしアジトを教えたら」
兵の目が鋭く光った。
「お前らだけは助けてやる」
「ほ、本当ですか ? 」
「嘘は言わん。助けてやる」
チオン達がアジトに向かって歩き出そうとした時、少女の声が響いた。
「伏せろ!」
ターニャの声だった。
チオン達は咄嗟にその場に伏せた。
ダダダダダッ
シハヌーク兵4人が血しぶきを上げて倒れた。
ターニャが機関銃を乱射したのだ。
「タ、ターニャ」
起き上がろうとしたチオン達にターニャが再び叫んだ。
「動くな!第2射行く!」
そして、また機関銃を乱射した。
今度は3人のシハヌーク兵が倒れた。
チオン達は逃げ出そうとした。
「動くなと言っているっ!ここにいる兵は全て掃討する!」
そう叫んだターニャは機関銃を乱射し続けた。
「こいつら人間のクズよ」
夜のアジトにターニャの声が響いた。
その後ろには彼女が調達してきた銃器が積まれていた。
「勝手に逃げ出しておきながら仲間を売ろうだなんて。粛清すべきよ。兵達と一緒に撃ち殺してやれば良かったわ」
たまらずサロットが間に入った。
「まぁ、ターニャ。彼らも冷静な判断力を失っていたんだし」
そう言ったサロットをターニャは睨みつけた。
「何を寝ぼけた事を言ってるの。私の帰りがあと少し遅かったら、ここにいる全員が殺されていたのよ。戦闘は始まったばかりでこれからますます激化するわ。そんな甘い考えで、あなたの理想の国家が本当に作れるの ? 」
ターニャにそう言われるとサロットは返す言葉が無かった。
「ターニャの言いたい事は判る。しかし、ここは僕の顔に免じて許してやってくれないか」
イエンが口を開いた。
そして、3人に向かって強い口調で言った。
「今回の事は目をつむってやる。しかし、次は無いと思え」
そう告げられた3人はうなだれて部屋を出て行った。
「あんなんで良いの ? 」
ターニャの問いにラットが答えた。
「我々はまだ弱小勢力だ。頭数だけでもメンバーは欲しい」
ラットの答えにターニャは「ふん」と言って髪をかきあげた。
亜麻色の髪が揺れた。
そしてターニャはジロリと周りを見渡した。
「この中で実際に銃を扱った人は何人いるの ? 」
手を上げたのはイエンとラットの2人だけだった。
サロットも銃を撃った事は無かった。
ターニャは、やれやれと言った感じでため息をついた。
「理想の国家を作るなんて言っておきながら実戦の事は何も考えて無かったのね。さすがエリートさん達だわ」
すると1人が反論した。
「わ、我々は暴力に訴えるのでは無く、あくまでも平和的に」
「それはきちんと法によって整備された安定した国家でしか通用しないわ」
ターニャはぴしゃりと言った。
「自分の国の現状が判ってるの ? まさかカンボジアがパリと一緒だなんて思っていたんじゃ無いでしょうね ? 」
反論しようとした男は下を向いてしまった。
ターニャは自分が調達してきた銃器から1丁の拳銃をつかむとサロットに握らせた。
「明日から3日間、私が皆さんに銃の取り扱いの初歩的な事を教えます。その間に、ここの地理に詳しい方を斥候に出して新しいアジトになりそうな場所を探して下さい。もし、その方が敵に捕らえられたらその場で自決して下さい」
そう言い残すとターニャは部屋を出て行った。
残された一同は、しばらく口が聞けなかった。
「ひゅう」
ラットが口笛を吹いた。
「すごいお嬢さんだ。ありゃあ、相当の場数を踏んでるな。それもかなりの修羅場だ」
「ああ、パリにいた時はただの女学生だと思っていたが。なぁ、サロット。あの娘はいったい何者なんだ ? 」
サロットはそれには答えず自分の手の中の拳銃を見つめていた。
その拳銃はとても重く感じられた。
つづく
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