第5話 クメール・ルージュ
1949年12月
雪の舞うパリの街を1人の小柄なアジア系の青年が歩いていた。
彼はコートの襟を立て、とても寒そうに歩いていた。
パリの街はクリスマスムード一色だったが彼はそんなものには目もくれず少し、しかめっ面で歩いていた。
その風貌は美形とは言えなかったが、その目つきの鋭さが彼の意思の強さと頭脳の明晰ぶりを表していた。
「よう、サロット。パリの街は冷えるな」
そんな彼に、一組のカップルが声をかけた。
「まったくだ。カンボジアとはえらい違いだ」
サロットと呼ばれた青年は、声をかけて来たカップルに向かって肩をすくめた。
彼の名はサロット・サル。
カンボジアからパリ大学に留学をしている、いわゆるエリートである。
彼に声をかけて来たのは同じくカンボジアから留学している、イエン・サリと後に彼の妻となるイエン・シリトである。
彼らはクメール人で、その人口はカンボジアの人口の90%を占めていた。
サロットはイエンを見上げて、相変わらず背が高いなと思った。
イエンは飛びぬけて背が高いという程では無い。
サロットの身長が低いのである。
背が低い。
これは彼の中ではコンプレックスになっていた。
「今日はお前が演説するんだろ ? 頑張れよ」
そう言うイエンにサロットは、しかめっ面のまま「あぁ」と答えた。
サロットは仏領インドシナの農村に、9人兄妹の8番目の子として生まれた。
彼の両親は9ヘクタールの水田と3ヘクタールの農園、それに6頭の水牛を所有していた。
これはカンボジア全体のレベルから見ると、充分に富裕な自作農家だった。
幼い頃から利発だった彼はノロドム・シハヌーク高校でその優秀さを認められ、奨学金でパリ大学に留学しているのである。
「お前の演説はなかなかのもんだからな。何かこう人を惹きつける力を持っている」
イエンは、そう言って笑った。
「よせよ」
サロットはイエンに照れたように答えた。
「今日の演説のお題目は何だ ? 」
「原始共産制について話してみようと思ってる」
「そうか。まあ、期待してるぜ」
イエンはサロットの肩を叩いて笑った。
そして、3人は雪の舞うパリの街を足早にパリ大学に向かった。
3人はパリ大学の構内を歩いていた。
クリスマス休暇の為、構内にいる学生の数は少ない。
彼らは小さな教室の前に来ると、そのドアを開けた。
中には彼らと同じようにカンボジアから留学して来た10数名の若者がいた。
彼らはクメール共産主義グループとして、フランス共産党内に作られたクメール語セクションに形成されていた。
サロット達はパリ大学で共産主義に触れ、その理念に深い感銘を受け心酔していた。
イエンは、このグループのリーダー格の存在だった。
「こんにちは、サロット。今日は冷えるわね」
教室に入った彼に、亜麻色の髪の少女が話しかけて来た。
「あぁ、ターニャ。僕らには堪えるよ」
サロットがそう言うと、ターニャと呼ばれた美しい少女は微笑んだ。
「そうね。あなた達には大変かもね」
ターニャはパリ大学の学生で、このグループでは唯一のクメール人では無い学生だった。
彼女がこのグループに入りたいと言って来た時には、グループの連中は難色を示した。
クメール人以外の人間は入れたくなかったからである。
しかし彼女がとても美しい少女であった為、しぶしぶそれを認めた。
男など、所詮は単純な生き物なのである。
実際、ターニャは美しい少女だった。
亜麻色の長い髪は、いつも輝くような光沢を放っていた。
顔立ちはとても愛くるしかったが、その瞳は理知的な輝きに満ちていた。
サロットは初めてターニャと出会った時の事を今でも忘れられなかった。
初対面の彼に、いきなり話しかけて来たのである。
「あなたがサロット・サルね ? 私はターニャ。あなたに会いたかったわ」
今まで見た事も無い美しい少女に話しかけられて面食らっているとターニャは続けて言った。
「あなた、自分の背が低い事を気にしてるでしょ ? 」
初対面の少女に、いきなり自分のコンプレックスを言われたサロットは何も言えずに固まってしまった。
「そんな事、気にする事ないわ。あなたはステキよ」
目の前の少女は微笑んだ。
「私、あなたに会えて嬉しいわ。仲良くしましょ ? 」
その日からサロットにとってターニャは特別な存在になった。
「今日は、サロットの講義から始める」
イエンがそう言うと、その場にいた若者達は椅子に座った。
サロットは少し緊張した面持ちで教壇に立った。
ターニャは「頑張って」と目で合図をしていた。
「えー、それでは今日は原始共産制について話させて頂きます。これには中国の毛沢東の思想も加えられています」
原始共産制。
これがサロットが理想としている共産主義国家の形態である。
マルクスとエンゲルスによって用いられた用語で、私有制が普及する以前の人類の社会体制だ。
そのモデルは人類の初期の狩猟採集社会に見られ、そこには支配階級は無く富の余剰も作成されない。
食糧や衣服などの全てが共有される平等主義社会である。
「・・・以上で原始共産制についての僕の話を終わらせて頂きます」
話し終えたサロットに、皆は拍手をした。
やはりサロットの演説には人を惹きつける何かがある。
ターニャも嬉しそうに拍手していた。
そして隣の席に座ったサロットに話しかけた。
「良かったわよ。やっぱりあなたのお話ってステキね」
「そ、そんな事ないよ」
サロットは未だにターニャと話す時はドキドキしてしまう。
「ね、これが終わったらカフェに行きましょ ? 」
そう言われてサロットは自分の心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
数時間後。
サロットとターニャは大学近くのカフェに来ていた。
ここのカフェオレがターニャのお気に入りで、サロットも何度か彼女とこの店に来ていた。
「するとあなたは毛沢東の文化大革命を全面的に肯定する訳じゃないのね ? 」
「ああ、思想的には共感できるけどね」
最初は緊張していたサロットも、話が共産主義制になるとしだいに饒舌になっていった。
「どこが共感できないの ? 」
ターニャはお気に入りのカフェオレを飲みながら言った。
「毛沢東は学者や知識人を監禁して、その全てを処刑した。僕はそのような残虐な行為は好きじゃない」
「ふーん」
ターニャはカフェオレのカップを持ちながら、しばし考え込んでから言った。
「でも、体制を根本から変えるにはある程度の犠牲は仕方ないんじゃないかしら ? 」
「だからと言って、人を殺して良いって事にはならないよ」
サロットはブラックコーヒーをすすりながら言った。
本当は彼もカフェオレを飲みたかったが、カッコつけでブラックを飲んでいた。
それからターニャは、またもしばらく考え込んでから言った。
「あなたは優しいのね。でも全く犠牲を出さずに体制を変えるのは無理だと思うわ。ここのフランス革命だって、レーニン達のロシア革命だっておびただしい血を流して成立したんだから」
「いや、しかし」
サロットの言葉を遮るようにターニャは続けた。
「本当に共産主義国家を作りたいなら犠牲を恐れちゃダメよ。あなたが言ってるのは理想論に過ぎないわ。それじゃ、いつまでたっても体制の改革なんて出来ないわよ」
そう言ってターニャはサロットを見つめた。
その瞳は妖しい光りを放っていた。
その瞳を見つめていたサロットはうつむきながら呟いた。
「・・そうか。そうだな。真に理想の国家を作る為には、ある程度の犠牲は仕方がない・・」
そう呟く彼の目は、わずかながらも狂気を孕んでいるようだった。
サロットは自分の中に突如として湧いてきた狂気に面食らっていた。
しばらくの間、2人に沈黙が訪れた。
サロットは我にかえってターニャを見た。
彼女は頬杖をついて窓の外の雪を見ていた。
どこか遥か遠くを見つめるような表情だった。
こんな表情の彼女は初めて見た。
そして、やはり美しいと思った。
カフェの客達もターニャの事をひそひそ声で話していた。
「あの亜麻色の髪の娘。よく見かけるけどパリ大学の学生さんかなぁ ? 」
「いつ見てもキレイだよなぁ」
「ホント、同性のアタシでも見とれちゃうもん」
「あの男、よく一緒にいるけど彼氏 ? 」
「そりゃ、ないっしょ。全然釣り合わないじゃん」
そう言って彼らは笑っていた。
最後の一言はサロットを少し傷つけたが、一緒にいる少女が誉められるのは悪い気がしなかった。
大学内でもターニャはよく噂になっていた。
その容姿はもちろん、学業でも極めて優秀な成績を収めていたからである。
教授達も彼女の将来を嘱望していた。
そんな彼女ではあったが、人づきあいが苦手なのか彼氏どころか親しい友人もあまりいないようだった。
そんなターニャが自分にはいつも明るく話しかけてくれる事が、サロットは嬉しかった。
彼女が自分に好意を持っていてくれているのは間違いない。
しかし、それが愛情なのかはサロットには判らなかった。
サロットは渾身の勇気を振り絞ってターニャに訪ねた。
「え、ええっと。ターニャ ? 」
「なに ? 」
ターニャは窓の外の景色から自分へと視線を移した。
サロットは顔が赤くなるのを感じながら言葉を続けた。
「そ、そ、その。クリスマスイヴは何か予定はあるの ? 」
「クリスマスイヴ ? 」
彼女は怪訝そうな表情をした。
「教会には行くけれど。特にこれといった予定は無いわ」
サロットは、もはや顔を真っ赤にして言った。
「き、君さえ良ければ僕と・・・」
「ごめんなさい」
即答だった。
「あなたには確かに好意は持ってるわ。でもそれは恋愛感情じゃないの。ごめんなさい」
サロットは崩れ落ちるように椅子に座った。
そうか。そうだよな。
自分みたいな背の低い男を女性が好きになる訳がない。
サロットの目に涙が滲んだ。
「勘違いしないで!」
ターニャは身を乗り出してサロットの手を握った。
「あなたはとてもステキな男性よ!ただ私は誰にも恋愛感情は持てないの。それでも、あなたの側にいちゃダメかしら ? あなたの事を見守っていたいの」
サロットはゆっくりと顔を上げた。
ターニャは涙目だった。
嘘とも慰めとも取れなかった。
それが彼女の本心だとわかった。
「・・本当に ? ずっと僕の側にいて僕の事を見守ってくれるの ? 」
「えぇ、ずっと!」
ターニャの目から涙が零れた。
とても嘘をついているようには見えなかった。
「ありがとう!ありがとう、ターニャ!」
サロットもターニャの手を握り返した。
恋愛感情なんか無くてもかまわない。
この少女がいてくれたら自分はなんだって出来る。
サロットは、そう確信していた。
「えへへ」
ターニャは照れたように涙をぬぐった。
「それじゃ、これからもよろしくね ? サロット」
「うん、ターニャ」
2人はしっかりと手を握りしめて見つめあった。
窓の外の雪は、いつの間にかやんでいた。
パリの街は静けさに満ちていた。
つづく
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