第35話 アス人の軍団

 クリミア総督ヤイラクに仕えるようになったことで、文官長ウイウデイがマルクスの上司となった。マルクスは集めた情報をウイウデイにかいつまんで報告した。

 ウイウデイは驚いてマルクスに尋ねた。

「ノガイ様には戦意はない。すると、プルート河畔で大王と会議をするつもりか。いやいや、チャカ様は大王を討つつもりだろう。ノガイ様の一存ですべて動くはずがないのではないか」

 マルクスは慎重に答えた。

「その通りです。しかし、アス人の軍団を率いる将官はおそらく動かず、ノガイ様の中軍も専守防衛が基本。積極的に戦うのはチャカ様以下の三王子直属の軍のみ、ということになります」

ウイウデイは、にわかに信じられないという顔をした。

「どうしてアス人の軍団は動かないと言えるのか」

 マルクスは、なるべく短く説明した。

「アス人に対し寝返り工作がおこなわれています。大王は直々に北コーカサスのタマトクタイ様の軍営に行幸されたと聞いております。マジャル市のアス人の有力者は大王に忠誠を誓い、西方の同族に大王に従うよう働きかけていることでしょう」

 アス人の本拠地は北コーカサスのマジャル市、東の拠点は首都サライで、後にサライ近くにハッジ=タルハン、別名アストラハンが作られる。アストラハンとは「アス人の自由な地」という意味である。そして、西のノガイ領にはヤッシーがあった。アス人はヤスとも発音され、ヤッシーとは「アス人の」という形容詞である。

 ノガイはアス人やキプチャク人の遊牧民に、定住農業を教えた。草原は狭く、遊牧が難しかったからである。ノガイは1285年にハンガリー王国を攻め、多数のマジャル人農民を捕虜とし、ヤッシー周辺に入植させた。アス人やキプチャク人はマジャル農民と一緒に暮らすようになり、後世、彼らの子孫の宗教はカトリック、言語はマジャル語になったが、今でもヤース、すなわちアス人と名乗りつづけている。

 ウイウデイはマルクスを伴って、ヤイラクの天幕に向かった。

 ウイウデイがマルクスの見解を説明すると、ヤイラクは眉間にしわを寄せつつ問うた。

「我が軍がチャカを抑え込めば、勝ちだな」

マルクスは応えた。

「敵左翼のアス軍は、こちらの探馬軍とにらみ合うだけ。双方の中軍はひとまず動かない。主な戦闘は、チャカ様率いる右翼の三王子軍と、閣下とギレイ殿率いるクリミア軍になると思います。チャカ様の突撃をしのぎきれば、こちらの勝ちでしょう」

 逆に、ヤイラクが突破されれば、こちらの中軍や右翼から裏切り者がでるかもしれない。

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