第32話 第2次ブルガリア帝国

 タルタル軍がブルガリアにはじめてやってきたのは1242年である。ジョチ家当主バトを総司令官とするタルタル征西軍は、1241年にオゴデイ(カガン皇帝)崩御の知らせを受け取り、1242年から撤退をはじめた。1242年3月、タルタル軍はドナウ河西岸にそってヴォイヴォディナ、スラヴォニアに入り、スラヴォニア太守ゲルトルドを服属させた。その後、セルビアとブルガリアを通過した時、ブルガリア軍はタルタル軍に威嚇攻撃をおこなったが、タルタル軍は東へ去っていった。

 タルタル軍はドニエプル河中下流域に、バトの兄オルダの子クルムシ率いる6,000騎を置いて国境警備にあたらせた。クルムシはブルガリア皇帝カリマン1世に対し、服属を要求、カリマン1世はタルタルに従属することに合意した。

 ブルガリアに対する軍事的抑えとして、ワラキア(ルーマニア南部)に少数の騎兵が置かれ、バスカク(太守)が派遣された。タルタルは地元のキプチャク人を懐柔しつつ、山地で牧畜と農耕をしているラテン語を話す原住民を支配下に組み込んでいった。彼らの子孫が現在のルーマニア人である。

 タルタルにとってドナウ河は重要な商業路であり、バルカン半島の銀や小麦、そしてさまざまな貢物の輸送路となっていた。ハンガリー国王の家臣であるにもかかわらず、スラヴォニア太守にはバートル(英雄)の称号が与えられた。また、ブルガリア各地の有力者も皇帝を通さずにタルタルと結びついた。

 ブルガリアでは皇帝の権威は地に落ちた。1246年にカリマン1世は暗殺され、混乱に乗じてニケーア帝国とセルビアが侵攻し、多くの領土を失った。カリマン1世の後を継いだミハイル=アセンもまた1256年に殺害され、3人の皇族が争った結果、1257年にコンスンタンティン=ティフが首都タルノヴォの貴族たちにより推戴された。

 その後も内乱が続く。1272年にはドナウ河のほとり、ブルガリア北西に位置するヴィティンの領主ヤコブ=スヴェトスラフがブルガリア皇帝を自称し、独立した。タルタル側の代表であるノガイは、タルノヴォの皇帝を敵視し、セルビアに圧力をかけつつ、自前の皇帝を擁立したのだった。ヤコブを支援するため、ワラキアのタルタル軍、とはいってもタルタル人はほとんどおらず、キプチャク騎兵とワラキア歩兵からなる非正規兵団がたびたびドナウ河を渡ってブルガリア国境を侵犯した。

 ブルガリア北東部は平原ということもあって、騎兵の侵入が容易で荒れ果てていたが、ドブリチ太守の下で農業生産の復興が試みられた。もともとブドウ酒の産地であり、ブドウ酒の絞り粕を飼料として養豚がおこなわれ、ブルガリアの主要港ヴァルナでジェノヴァ人から塩を買い、ベーコンを作った。

 そんなドブリチにおいて、1277年、タルノヴォの皇帝に対する反乱が起きる。世に言う、「豚飼いイヴァイロの蜂起」である。

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